例えば、ありがちなネタとしては、小学生時代の修学旅行で、M市に行った際の怖い思い出がある。宿泊していた大部屋で俺達は、迷うことなく、発見した、天井裏へ続く板を外した。板には、ごく当たり前のように、お札が二枚貼ってあった。
同級生の大半が悲鳴を上げる中、板を外した一人が屋根裏に上がっていく。
俺はと言えば……彼が登って行った四角い穴の周囲に、びっしりと髪の毛が張り付いている事の方に気を取られていた。
穴を囲むように、日本人形の髪を毟り取ったみたいな毛が、無数にセロハンテープで貼り付けられていたのである。
当時の俺は、完全に、『これも魔除けの品』なのだと思っていた。
しかし大学生になってから出かけた同窓会でこの話になった時、誰もが、『髪の毛なんて見なかった』と言ったのだ。じゃあ俺が見た髪の毛は何だったのだろうか。
他にも、その旅行では、不可思議な出来事が頻繁に起こった。博物館の展示の前で写真を撮ったのだが、撮影後に見ると、ベタベタとケースのガラスに手形がついていた。また船に乗った時の写真には、人数よりも明らかに多い腕が、入り込んでいたのだ。
それらもまた、懐かしい思い出である。
――他には何があるだろうか。
そうだこれは、大学一年の時だ。
俺は高等学校卒業程度認定試験のための予備校で一緒だった、友人の大輝君と久方ぶりに遊ぶ約束をしていた。
F県K市の駅前のビジネスホテルに予約を取り、大輝君と食事をした後、カラオケに行ったりして、思い出話に花を咲かせていた。
大輝君は家族が迎えに来たので、深夜に解散した。俺は夜中の三時頃に、ホテルへと戻った。朝になったら新幹線で、大学がある東京へと帰る予定だった。
それからシャワーを浴びて横になったのだが、やけに隣の部屋が煩い。朝までずーっと四・五人の大学生が大騒ぎをしていたのだ。どの酒が「美味い」だの、「このポテチの新商品ってありえねぇよ」だの、安いビジネスホテルだけあって、薄い壁越しに、話し声がひっきりなしに聞こえてくる。一時間睡眠になったのは、確実に隣室の騒音が原因だ。話し声は、朝には止んだ。
支度を調えて俺が部屋お外へ出ると、丁度隣の部屋の前に掃除のおばさんがいた。
「こちらは、本当は、一人部屋なんですから……他の人を呼ばないでくれませんか? あんまり騒がれると困るんだよねぇ」
「いえ、俺は一人ですけど」
隣の部屋が騒いでいたのだと、俺は暗に訴えた。すると掃除のおばさんが、気まずそうな顔をした。それから震える声で、俺に、「ごめんなさい」と言って、そそくさと立ち去った。まったくだと思いながら、俺はフロントへと向かう。するとそこでも再び言われた。
「お客様のお部屋は、本来一人部屋ですので、もう一人の方にもすぐに退出するように言って下さい」
「いや、俺は一人なんですけど」
いくら安いとはいえ、対応の悪いホテルだなと感じてしまう。本来俺は、働いている人には腰が低い方なのだが、この日は寝不足もあってかなり苛々していたかもしれない。掃除のおばさんがフロントへとやって来たのは、その時の事だ。
「一人でしたよ。今は無人」
「そんなはずが無いだろ!! 昨日の宿泊客は、こちらお一人なんだから、あの女――」
ん……? ちょっと、待って欲しい。
――こちらお一人なんだから……?
――あの女……?
受付の人は俺を見ている。俺も視線を向けた。俺達は互いに呆然としたまま顔を見合わせ、そこに無言の空間が生まれた。その後、ほぼ同時に息を呑んだ。
俺が一人しか泊まっていないのだとすると……何故昨夜、俺は騒音に悩まされたのだ……?
ま、まぁ良いか。
新幹線の時間もあったので、俺はそのまま帰る事にした。
なお俺は、女の声は、聞いていない。
さて――当時の俺の家は、フットサルサークルの溜まり場と化していたので、帰省する際には必ず友人に合い鍵を貸していた。俺は今回のホテルでの謎体験を、サークルの友人である碧依君に早速ネタとして話そうと思い、少し得意げな気持ちで新幹線に乗っていたものである。合い鍵を預けていた相手も碧依君だ。
この頃の俺は、H市の某私鉄駅のそばのウィークリーマンションに住んでいた。俺の部屋は三階で、一つ下の階にも、同じサークルの同級生が偶然にも住んでいた。それもあって、俺とそいつの家が溜まり場になっていたのだ。二階の住人は、七原と言う名で、自称『視える』奴だった。
こうして一人暮らしをしている家に戻った時――俺の目の前で、俺の部屋の玄関の扉が閉まった。丁度、誰かが中に入っていった所に見えた。
僅かに開いていた扉が、俺の目の前で閉まったのだ。
きっとコンビニにでも行ってきた碧依君が、中に入った所なのだろう。そう思い、俺はインターフォンを押した。しかし誰も出てこない。出迎えくらいして欲しかったと思いながら、ノブを押してみたが――開かない。嫌がらせかと思いながら、俺は鞄に触れた。自分の所持している方の鍵を出すためだ。後ろから声がかかったのは、丁度鍵を取り出した時の事である。
「あれ、お帰り。早かったね」
「あー……え、あれ? 今、中にいるの誰?」
下の階の溜まり場から上ってきたらしい碧依君に言うと、不意に首を傾げられた。
「中って? 俺が寝る時しか借りてないから、今は誰もいないと思うけど」
からかうなよ、と、俺は心の中で笑いながら、取り出した鍵を用いて中へと入った。
碧依君には玄関で荷物を見ていてもらう事にした。俺はといえば、単身で中に入り、誰が何処にいるのか確認するべく、入り口から開始して、トイレと風呂、居間、ロフトの上、と、隠れられないように見て回った……が、誰もいない。
「……碧依君、本当に誰もいない?」
「え? うん」
変な事もあるものだなと思いながらも、俺は目の錯覚だったと考え直した。
さてこの碧依君というのが、また『憑かれやすい』上に、時折『視える』のだと言う。
俺が大学一・二年と日参していたフットサルサークル――『デザイア』は、非常に微妙な名前であるが、小規模ながらも活気のあるサークルだった。
右京の代には、サークル文化は廃れていたらしいが、俺の時代は、サークル活動が全盛期だった。中でも俺は、同じ学年の、七原と碧依君と親しかった。
もう一人同じ学年のセージも一緒になる事が多く、サークル内でも四人でいる事が自然だった。ただセージは途中から、カノジョといる時間が長くなり、あまりサークル外での場には顔を出さなくなった。セージは腕っ節が強いらしく、殴れない幽霊だけは嫌いだといつも話していた。なお、実際に喧嘩をした姿は見た事が無い。
肝試しがあったのは、二年生の夏だった。俺がF県から戻ってすぐの事である。
くじ引きで、七原と碧依君、俺とセージという組み合わせになった。組むなら女子が良かったのに……。その他も合わせて、その時集まった十数人が二人一組となり、石段を登り神社に行って、また戻ってくる事になった。お化け役などはいない。
「やばい。ここいる、やばい」
行く前に、ニヤニヤしながら七原が述べた。「お前の頭がヤバイだろ」とは、俺は言わなかった。七原の声に、碧依君が出発前から半泣きだった事を覚えている。
碧依くんはこの日、集合場所へ来る最中に、何度も何度も、肩から掛けていた鞄が、他の人に当たって困っていたらしい。そして不意に、肝試しのための合流地点の直前で、前方から自転車で走ってきたおじさんに呼び止められたそうだ。
「狐がついてっぞぉ! 気をつけろ!」
そう言われ、バシンと鞄を叩かれたと話していた。
俺は合流した直後にそれを聞き、ふぅんと思っていたものである。
始まる前から碧依君は、怖がっていたのだ。彼は、「今日は嫌な予感がする」とも口にしていた。
他にも碧依君にはネタがある。
碧依君は昨年の五月から一人暮らしを始めた。彼は実家も都内だが、都下にある大学まで通うのが大変だったらしい。
しかしその一人暮らし先……後で先輩に言われて発覚したのであるが――大学近所の川の側で、有名な『出る部屋』だった。
他の家とは異なりその部屋だけ湿気が凄くて、すぐに碧依君の持ち物は湿ってしまった。俺は最初、水でもかけられるような……即ちイジメにでも遭ったのかとすら思った。それほど濡れていたのだ。
その部屋を彼は一ヶ月で引っ越したのだが、途端に持ち物からは湿気が失せた。これは碧依君ではなく、家が悪かったのだろう。川のせいだと思いたいが、その部屋以外に暮らす学生の持ち物は、同じ物件に住んでいても、湿っていないのだから不思議だ。
さて、順番が回ってきたので、七原と碧依君が先に神社に行った。
――帰ってきた時、碧依君は号泣しており、七原は真顔になっていた。
「視えた、いた、うあ。七原が壺に貼ってあったお札を破ったんだよ!」
俺に抱きつき、碧依君が頽れて、泣き出した。七原は神妙な顔で、腕を組んでいる。
二人は俺を担ぐ気だと判断した。俺はこの時、先日、俺の部屋の扉が勝手に閉まった事件も、この二人の仕業だと確信していた。窓を乗り越えたら、下の階に降りられると気づいたからだ。見間違えで無かった場合、他に説明がつかない。非常に危険な行為だし、理性的にはありえないとも考えるのだが、俺は確かに見たのだ……。
けれどひとまず、「大丈夫だから」と告げた。
取り敢えず……次が俺とセージの番だったので、俺は、「様子を見てくる」と伝えてから、境内へと向かった。セージは終始、俺の手を握って震えていた。本当に恐がりだ。
行ってみると、戸が半開きで、確かに壺が見え……床には、ポツンとお札が落ちていた。この光景を目にして、あの二人は話を盛ったんだろうな。そう考えつつ、一応手を合わせてから、セージと二人で俺は帰った。
すると碧依君は、まだ泣いていた。先輩達が碧依君を連れて、車に戻ろうとしている。
七原はそれを見守りながら、石段の上でニヤニヤしつつ俺達を待っていた。
「何も無かったぞ。冗談止めろって、七原。そろそろ痛い」
「だって碧依がさぁ」
なんてやりとりをしてから、七原が石段を下り始めた。
俺とセージは、七原の背を、何とはなしに見ていた。
それほど長い石段では無かったが、手を伸ばしたからと言って、一番下まで届くような距離ではない。
すると下から三段目で、七原が体勢を崩し、飛び降りるようにして地面に着地した。
「なんだよ、押すなって!」
そう言って笑いながら振り返った七原。唖然としたセージ。意味の分からない俺。
「……え?」
七原の笑顔が引きつった。
「押せるはずが無いだろう……?」
セージが呆然としたように言った。その瞬間、七原が全力疾走を始めた。セージも俺を残して走り出した。何が起きているのか分からなかった俺は、ゆっくりと下へと降りた。
結局その日の話をまとめると、こうなる。
七原は、やっぱり何も視えなかったらしい。それは別として、石段の所で誰かに背中を押されたと言うのだ。下から三段目の位置で、突き落とされたと訴えた。そして、実際に転びそうになった場面を、俺とセージは見たのである。
なお碧依君は、七原が「何も視なかった」と言う場所で、青白い着物姿の女の幽霊を視たらしい。俺が「大丈夫だから」と言ったのを、「祟りが無いって意味だと思った」と口にしていた。俺には、祟りの有無など分かるはずも無いのだが……。
さてそれを境に、セージは血尿が出るようになってしまい、暫く病院通いをした。今でもこの件は祟りだと言われている。何でも、あの場では口に出さなかったが、セージもそれらしき女を目撃したらしい。しかもそれは、肝試し終了後の出来事だったようだ。全員が集合し、次に向かったファミレスの駐車場についた時……なんとセージの車の中に、特徴が一致する女が座っていたらしい。それは見ている前で、霞のように消えたそうだ。
――俺が、『時島』の存在を明確に意識したのは、この肝試しがきっかけだ。
「これ、時島を呼んだ方が良くない?」
翌々日、大学構内のサークル席で砂文兄さんが言った。本名はスナフミさんだが、サーヤさんとか、砂文兄さんとか言われていた。彼も俺と同じ学年だが、一浪しているので一つ年上だ。
「時島?」
俺が聞くと、砂文兄さんが大きく頷いた。
砂文兄さんと時島は、必修で、同じクラスなのだという。俺達の学科には、必修のクラスわけがあった。俺と砂文兄さんは、同じ心理学科である。碧依くんも心理学科だ。七原とセージは経済学科である。
心理学科では、英語と文献講読の必修があり、一人二つはそのそれぞれの特定のクラスに所属していた。砂文兄さんと時島は、文献講読のクラスが同じらしい。
言われてみれば、俺は英語のクラスに、『
「後で聞いてみたら? 明日とか」
砂文兄さんに、そう言われた。この時、俺は頷いて返した。
――まぁ、今となっては懐かしい話である。
ただやはり俺は、心理学をやっていたので、どうしても多くの心霊現象には懐疑的だ。個人的には、存在しても、存在しなくても良いのだが。
このようにして俺は、弟に怖い話として思い出を語った。
丁度飲み終わったので、少しパソコンに文章にまとめておこうかなと考える。
――『本当にあった話。』というファイル名だ。沢山の話をまとめている。
ただ思い返せば、そこまで怖くは無い気もする。
書き始めようと考えて自室に戻り、ふと俺は思った。
オカルト的に怖い話をまとめる前に、この現在の『記録』に、残すべき事がある。
本格的に大学時代を回想するならば、俺は先に吐き出すべきだ。
そうだ――俺がこれから打つ最後の『記録』は、『生きている人間の方が怖い話。』だ。
今後綴る『本当にあった怖い話。』が、あくまでも心霊現象的な意味での『怖い』に分類されるとはっきりさせておくためには、絶対的に先に書いてしまった方が良いだろう。
俺は鐘の音が大嫌いだが、警鐘を交えるかもしれない。類似の被害者が増えない事を祈る。
内容は――一つ目は碧依君から聞いた話、二つ目は俺の話だ。残るは電話の話である。どの順番で記そうか。思案しながら、パソコンを起動させた。
さて……まずは一つ目から書こう。碧依君から教えてもらった話だ。
当時碧依君は、T市S駅から暫く行った場所に住んでいた。川のそばから引っ越した直後だ。『耳すま』の舞台と言えば何処なのか分かってもらえると思う。実際に俺も、二度ほどホームに猫がいる所を見た事がある。見た時は一人だったから証明は出来ないが。
その時、地下にカラオケがある某雑居ビルの創作居酒屋で、碧依君はバイトをしていた。一度来てくれと誘われて出かけた時に、この話を聞いた。
このバイト先には、蟻山さんという、隣の大学の二つ上の先輩がいるらしかった。俺と碧依君の大学は、大学がいくつか集まっている場所にあるのだ。モノレールの駅があると言ってしまえば特定は容易いだろう。俺達の大学は、明京大学という。
さてその蟻山さん。
偶然にも、引っ越した後の碧依君と、同じアパートだった。その為、一緒に帰りながら聞いた話らしい。何でも蟻山さんは、大学二年の時からカノジョと同棲しているそうで、碧依君が一年でバイトに入った時には、三年生だった。事件があったのは、蟻山さんが大学一年の冬だという。カノジョの三波さんも、蟻山さんと同じ大学の学生で、バイト先も同じだったらしい。付き合い始めた当初の、同棲前の事件だという。その頃は――早くバイトからあがった三波さんが、蟻山さんの部屋に合い鍵で入り、彼の帰宅を待っている事が多かったそうだ。
――その日三波さんは、バイトの他にレポート疲れもあって、蟻山さんの部屋に入ってからすぐ、眠ってしまった。すると、インターホンが鳴った。十二時過ぎの事だったそうである。瞬きをしながらデジタル時計を一瞥し、そのまま三波さんは再び寝入ってしまったそうだ。「今日は、帰ってくるのが早いんだなぁ」と、思ったそうだ。
一方の蟻山さんはと言えば、午前一時過ぎに帰宅して、鍵が開いている事に眉を顰めた。
「おい、起きろよ」
「え、あ、うん……今、何時?」
「一時過ぎ。鍵もかけないで何やってんだよ、危ねぇだろ」
「ごめん、バイトからすぐ帰ってくると思ったから……鍵かけなかったんだよ。だけど、一回帰ってきたよね?」
「は?」
そんなやり取りをしていた時、不意にインターホンが鳴った。二人で顔を見合わせていたが、たった一度鳴ったっきり、特にその後、何も起きない。
「誰だ?」
鍵を開けっ放しで寝ていた三波さんが心配だった事も手伝い、苛々していた蟻山さんは、エントランスへと向かい、勢いよく扉を開いた。しかし――そこには誰もいなかった。
――ざけんなよ、んな時間にピンポンダッシュしてんじゃねぇぞ。
かなり強く、字面のまま、こう考えたらしい。何故なのか苛立ちが最高潮に達していた蟻山さんは、逃げるような足音が響いてくる階下へ向かい、走ったそうだ。バイト帰りを待っていてくれたカノジョは悪くないのだが、心配な自分もいたし、何となくものすごく苛々していたのだという。まるで体を怒りに支配されているかのような感覚だったらしい。
「待ておらぁああ!!」
叫びながら追いかけていき、一階まで辿り着くと、階段脇に一人の男がしゃがんでいるのが見えた。蟻山さんの家は最上階にあったので、途中で他の部屋に逃げ込んだので無ければ、『犯人はコイツだ』と確信したらしい。他の部屋の扉が開く音も聞こえなかったそうだ。
「てめぇ、ふざけてんのか。なに、人の部屋に、ピンポンダッシュしてんだよ!!」
しゃがんでいる男を蟻山さんは無理矢理捻りあげた。
――俺はこれを聞いた時には、「……確証も無く、無関係かもしれないのに、何をやってるんだよ」と、思った。蟻山さんの側が恐ろしく感じたのだ。
「違う、違う、何の話だ。俺は知らない。知らない、何の話だ」
「おまぇえ!! 俺の部屋をピンポンダッシュしただろうがッ!!」
「して、してな、してない!!」
「し・た・だ・ろ!! 警察を呼ぶからな!」
蟻山さんは怒鳴りつけると、警察へと携帯電話で通報したそうだ。
三波さんも恐る恐る外に出てきたそうで、「何事……?」と言ったらしい。本当、『何事だよ』と、俺も碧依君から話を聞きながら最初は思った。
――が。
後日警察署から、三波さんと蟻山さんを訪ねて、警察官が来たらしい。
「この男に見覚えは?」
すると写真を見せられた。そりゃあ、当然あった。何せ蟻山さんが捕まえた相手だったのだから。
「この男の持っていたデジカメに、入っていました」
そう言って次に差し出された写真には、寝入っている三波さんが映っていた。この時代は、まだ、現在はフューチャーフォンなどと呼ばれる、俗に言うガラケーが主体で、写真撮影はデジカメが多かった。しかし、そう言う問題では無い。
「あいつは――下調べの時に、被害者の写真を撮り保存しておくのが趣味の、強姦殺人魔でした」
……三波さんが無事で良かったなと、俺と碧依君は一息ついた。
そんなお話である。
何でも最初に入った時に、三波さんが起きる気配がしたから、写真だけ撮って犯人は一度逃げたらしいのだ。部屋まで、侵入していたらしい。そして二度目に、犯行に来た。
もしもこの間に、蟻山さんが帰宅していなければ、どうなっていたのだろう。怖気の走る話である。
また蟻山さんが取り押さえていなければ、その後も被害は続いていただろう。蟻山さんも普段は温厚らしいのに、何故にいきなり、そこまで頭に来たのかは、自分でも分からないとの事だった。この話を後日聞いた七原は、「他の被害者の生き霊だ」なんて言っていたが、俺はそれは信じない。
――本当に生き霊がいるのであれば、碧依君にまつわる、とある電話の事件も、生き霊騒ぎになってしまうだろう。
さて、次はその、電話の話を挟もう。
これは、俺と碧依君が大学二年生の時の話だ。俺と碧依君は、二年時からの実験の必修クラスが別だった。翌週に碧依君のクラスでやる実験を、一週間前に俺のクラスがやる形になっていた。だから実験時期が異なるものの同じ必修のレポートを、一緒にファミレスで書いていたのだが、碧依君が呻きだした。
「無理、何これ、分かんない!」
「どれ?」
「だからこれ。どうやってグラフ作るの?」
「それはエクセルのデータ分析のマークを……」
「何なのこの相関関係って……!」
仕方が無いので俺は、グラフ作成を手伝った。そして鞄に入れっぱなしだった、先週分の資料のコピーも貸した。参考にと思って、自分が書いた前回のレポートも見せた。
――碧依君はそれをパクった。何という事だろうか。
俺は知らなかったが、後で告白された。告白されたのは、碧依君が心理学科準備室に呼び出された日だ。碧依君は俺に、「これからすぐ左鳥に、日々川教授から電話が行くかもしれない」と泣きながら連絡をしてきた。
そう言えば入学時のパンフレットに、『レポートの盗作が行われた場合、盗作した方もされた方も、単位取り消し』と書いてあったな……うああああ、と、俺は内心で悶えた。俺は決して綺麗に生きてきた人間ではないので(レポートの代筆経験は多数だ)、いかようにして逃れるかしか考えてはいなかった。
電話はすぐにあった。
『もしもし、日々川と言いますが』
「――はい、霧生です」
『霧生君。単刀直入に聞くけど、誰かに錯視の実験のレポートを見せなかったかい?』
「錯視の実験のレポートですか? よくサークルの同じ学科のみんなで、文献を貸し合ったりしながら、切磋琢磨しつつ、ファミレスでレポートを書いているので、特定の誰かというのは心当たりがありませんが……」
『……例えば、一緒に私の講義を取っている誰かに、心当たりは無い?』
「先生の講義でしたら、先生のファンは俺も含めていっぱいいるので、みんなで一緒に取っていますけど……何かあったんですか?」
『……その――ザザ――死ねぇえええ! 死ね! 死ねぇ!』
「……はい?」
急に砂嵐のような音と共に、『死ね』と声が挟まった。先生は、一体どうしたんだ?
『死ねぇ……死ね! 死ね!! 死ねぇえ! ザザ――ご、ごめん電波が悪いみたいだね』
「はぁ……?」
『死ねぇ、死、死、死』
「せ、先生? ど、どうかなさったんですか?」
『ん?』
「さっきから死ねって……」
『……こちらにも先ほどから、男の声でそう聞こえるんだ……』
言われて初めて、俺はそれが男の涙声だと気がついた。
『有難う……突然電話をして、申し訳ないね』
先生はそう言うと、電話を切った。入れ違うように、碧依君から電話がかかってきた。碧依君は泣いていた。
『ごめんね、いきなり。電話が行っちゃって』
まったくその通りである。だがそれよりも不思議な雑音について、俺は碧依君に話した。
「――それ、俺の生き霊かも。俺さっきからずっと、『死ね! 死ね!!』って呟きながら泣いていたから」
碧依君よ、反省したまえ。
俺はそんな風に思ったのだった。なお、碧依くんはその後、無事に留年を回避出来たが、その理由は不明だ。
さて、二つ目の話である。
これは俺の身に起きた話だから、本当はあまり思い出したくない。しかしこれに関しては、記憶を封印した事も、一度も無い。中退騒ぎとは、質が違う。こちらこそが、俺の中で一番印象的な、『人間の恐怖』だ。被害者になる恐怖の象徴だ。
詳細を語った事はほとんど無いし、強姦されたという事実すら、長い間ほぼ誰にも話せなかった。
だが犯人は今でも、未だにあの界隈にいるかもしれないから、警鐘を鳴らすべきなのだろうと思う。
警察に行こうかと何度か考えた事もあったし、先輩が警察官になった時には相談もした。だが、捕まえる事は不可能だったし、顔も名前も俺自身よくは覚えていないのだ。
そしてこの話を書くからと言って、全てのタクシー運転手の方が、疑いの眼差しを向けられるべきではないと言う事もよく分かっている。
ただし、読んだ方は気を付けて欲しい。
人間は、怖い。
きっと書いてしまえば至極ありがちで、ありきたりで、「へぇ」や「ふぅん」と言った感想で終わってしまうのだろうが、俺は少なくとも怖かったし、長い間、タクシーに乗る度に思い出したものである。タクシー自体を避けたほどだ。
その日俺は、就活に失敗して、半泣きで――新宿で飲んでいた。
気がついたら十三分前に終電が出ていたものだから、途方に暮れてピラミッドみたいなオブジェの前に佇んでいた。車が並んでいる。すると俺の正面にいたタクシーの窓が開いた。
「お兄さん、何処まで行きたいの?」
「H市までですけど、お金が無いから……」
「俺、これで丁度、仕事終わったから、送ってあげるよ」
「え、良いんですか?」
「うん。飲んでたの?」
「は、はい」
「俺、これからタクシー運転手だけが集まる飲み屋に行くけど、一緒に行く?」
「は、はい!」
俺は酔っていたのもあるが、藁にも縋る思いだった。一晩を過ごせる屋根の下を求めていた。既に財布の中身は百数十円しか無かった事も記憶している。
勿論酒を飲んでいた俺、藁に縋った俺、そんな俺も悪かったのだろう。落ち度があったと思っている。それもあって、被害を口に出す事は躊躇われたいた。だがそれ以上に、言葉にした時に甦る、当時の痛みが、長きに渡り恐怖を喚起したものである。
気づくとそのまま俺は、一人暮らしの家があったH市では無く、K市にある、タクシー会社が、その運転手に斡旋したと言うアパートへと連れられて入っていた。「飲み屋に行く前に着替えたいから、ついてきて欲しい」と言われたのだ。思考が飛び飛びで、促されるままに俺はついていき、そして――「っ」
気づくと布団に縫いつけられていた。
生温かい舌が首筋を這い、就活用のシャツのボタンが引きちぎられたのが分かった。
そのまま俺は酔いのせいで寝たのか、気を失ったのか――翌日タクシー運転手に起こされた。最初は、どこにいるのか分からなかった。だがすぐに、後孔の痛みに気がついた。
「初めてだったんだなぁ、やっぱり」
警察に行かなければならない。始めにそう思ったが、「男が男に強姦された」など、何て伝えれば良いのか分からなかった。少なくともその時は、分からなかった。血はまだ後ろの孔から垂れていた。
「朝ご飯を食いにファミレスでも行く?」
「……」
「いやぁ良かったよ兄ちゃん」
「……いつもこんな、乗車客を家に連れ込んだり、こういう事をしてるんですか……?」
「ああ。ほぼ毎日な」
そのまま一緒にファミレスに行くフリをして、俺はトイレに行くと告げ、その場から逃げた。
俺は、土地勘が無い場所にいた。初めて足を踏み入れた場所だった。帰り方を聞くべく、都内出身の碧依君に電話をかけながら、駅のホームのベンチに腰を下ろしたのを覚えている。座っているだけでも、体が痛かった。
『もしもし? どうしたの?』
いつも通りの碧依君の声を聞いていたら、涙が出てきて、俺はありのままをポツリと吐き出してしまった。
「俺、さ。男とヤっちゃったよ」
『は? 嘘でしょ!? え、格好良い人?』
格好良いか否かと言われれば、顔は良かったかもしれないが、全身を絶望感に俺は襲われていた。顔など無関係だ。と、内心でツッコミを入れたら、俺は平静さを取り戻す事が出来た。だから、慌てて話を変えた。
「いや、冗談。それよりさ、どうしよう、今日面接なのにすっぽかすの初めてなんだけど」
『俺なんて、三回に二回はすっぽかしてたけど、平気だったよ』
いつもと変わらない碧依君の声だけが、その時の俺の救いだった。以後は、長い間、誰にもこの話はしなかった。
――吐き出しはこれで終わりだ。
ここからは、きちんと……人ならざる怪異的な意味での、怖い話を綴ろうと思う。
タイトルは、『本当にあった怖い話。』
時系列はバラバラになるかもしれないが、現在の日記でも挟みつつ書く事にしようか。
俺には語り部が相応しいだろうし、俺単独での話はこんなもので良いだろう。時島達と深く関わる前の、個人的なエピソードはこれで終わりである。
やはり案外、怖い話は、日常に満ち溢れている。
俺はそれを記述したい。あるいは、これは、自分を慰めるための行為だ。
響いてくる鐘の音に耳を傾けてから、俺は改めてパソコンのキーボードの上に指を置いた。そして一度静かに、瞼を閉じた。