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ハチの巣、コオロギ味噌のなめろう

 カインが病院内に転がっているゴミを拾って袋に入れている。デデは壁の落書きをペンキで上塗りしていた。ガラスがほとんど割れた窓から吹き込む風は少し湿っている。今この地域は雨季だ。突然ザッと雨が降る。晴れているうちに風雨が吹き込みそうな場所ぐらいは作業を終えたい所である。

 が、ゴミ拾いに飽きた様子のカインが「休憩したーい」と言い出したのでデデも一度休むことにした。地元民から貰ったモジャモジャした果物の皮を剥いて中の白い果肉を食べた。甘酸っぱい。

「デデはクィーをやっつけたことはあるの?」

「まあ、何回かは。積極的に狩りに行こうとは思わないけど」

「すごいなー」

「すごくはない。知識と経験があるだけ。腕っ節は強くないし多分足の速さではロックに負ける」

「頭はいいんだ」

「だから、知識と経験だ。誰でも時間をかければ獲得できる」

 まあ、千年の時間をかけられるのはデデだけだろうが。カインは「じゃあ」と天井を見上げる。「僕がポルレを食べなくちゃいけない理由はわかるの?」

 デデは「俺の憶測を含めた説明だが」と果汁のついた手をズボンで拭い立ち上がった。小さな刷毛を手に取り黒いペンキをつけ落書きだらけの壁にアリの絵を描いた。

「ヒトに骨はあるが昆虫に骨がないのはわかるか?」

「知らない」

「そこからかよ」

「骨がないのにタコみたいにグニャグニャしないのはなんで?」


「外側が鎧みたいに硬いだろ。あれが骨の代わり。外骨格という」漢字で“外骨格”と書いてみたが多分カインには読めないだろう。「で、この外骨格はカルシウムではなく主にキチン質でできている。これは人間の身体では作れない。エビとかカニの殻も同じキチン質が主成分だ」

「ふーん」と言うカインの声色は話をあまり理解できていないことがよくわかる。

「まあとにかく、昆虫とヒトでは身体の作りが違っていて、ヒトの身体では作り出せない栄養素を持っている。で、ここからが重要なんだが」

「うん」

「昆虫を巨大化させる物質というのがあるのだが、これが外骨格から多く検出されている。キチン質と結びつきやすいんだな。多分、胎児を退行させるのはこの昆虫を巨大化させている原因物質だ」

「へー」

「ただ、キチン質というのはエビやカニ、キノコも保有しているものだ」デデはペンキでエビとカニとシイタケを描く。「もしかしたらポルレ以外にも効果のある食材があるかもしれない」

 そしてひと呼吸置いてデデは「カインがポルレを食べなくちゃいけない理由はわかったか」と訊ねた。カインは何度か瞬きしてから「デデは絵を描くのも上手なんだね」と言った。デデは黙って白いペンキを壁に塗りたくった。

 ロックが病院を訪れたのはその直後だった。「ロックおじさんだ」と嬉しそうに声を上げたカインを見て彼は「よう。元気そうだな」と片手を上げた。


「さっきまで釣りしてたんだ。友達に船出してもらってさ」とロックはデデを見遣る。

「何が釣れるんだ」

「今日はこれ」ロックが白くて大きな箱から出してきたのは立派なタイとイカだった。「デデにやるよ」

「おお、ありがたい」

「美味いもん作ってもらえよ」ロックがカインに言うとカインは大きく頷いた。それからロックは思い出したようにズボンのポケットからシートに挟まれた錠剤を出す。「薬はこれでいいか」

「これだ。ありがとう」とデデは受け取った。まだ服用していないのに妙に安心した。

「人工生命体なのに病気なんだな」

「完璧ではないヒトが完璧な人工生命体なんて作れるわけないんだ」

 デデがふと外を見遣ると何か生き物が飛んでいた。窓に駆け寄り目を凝らすと体長十五センチメートルはありそうなハチが病院の周囲を飛行していた。ロックとカインがデデの背後から覗き込むように外を眺めた。

「あれ刺すハチじゃないか」不安げな声を漏らすロック。デデは「わからないが」と言いながら左手で唇を弄るように触った。

「ハチの子が取れるかもしれない」


「本気で言ってんのか」とロックは目を丸くした。カインも驚いた様子である。デデは貰ったばかりのイカから身を少し剥いで、紙を小さく丸めたものを適当な糸に括り付けた。もう一方にはイカの身を結び窓際に置いた。においで誘き寄せるために足を落として適当な大きさにしたイカも窓際にぶら下げる。外に出て三人でぼんやり窓を見上げて待っていると、ハチは削いだイカを掴んだ。

「お、上手くいったっぽい」デデは呟き丸めた紙をブラブラさせながら飛ぶハチを追い掛けた。元より大きなハチだが、印のおかげでさらに見やすい。ハチは三キロメートルほど飛んだ。途中ロックがカインを背負って歩いた。ハチの入り込んだ先は簡素な住宅の屋根にある巣だった。バレーボール大の蜂の巣は綺麗な球体だ。「もう少し大きくなるかな」とデデが呟いた後、ロックは何やら言いにくそうな表情で「あー」と背中のカインを下ろした。

「ここ、カインの住んでた家だ」

「そうなのか」デデがカインを見下ろすと彼は小さく頷いた。ロックは少し俯いてから背中を丸めてカインに目線を合わせた。

「カイン、デデとならここで暮らせるんじゃないか」

 カインがチラリとデデを見た。デデは「カインがいいならここに一緒に戻る」と言った。デデが定期的にムシを狩ってカインに食べさせていればわざわざ病院に隔離しておく必要もない。だがカインは小さく首を横に振った。

「病院にいる」


「ここなら病院でやってるような片付けと掃除も必要ないんじゃないか」とデデは言ってみたがやはりカインは「いい。病院にいる」と答えた。もう少し大きくなってからハチの巣を採集することにして三人は病院に戻った。

 ロックが家路についた頃、デデは頭がぼんやりしてきて次第に頭痛を催した。これはもしかしてと思っているとやはり雨が降ってきた。大粒で地面やら建物やらに音を立てて打ち付ける豪雨だった。デデとカインは窓際のイカを撤収してキッチンに引っ込んだ。デデはタイを捌き身を包丁で叩いた。コオロギ味噌と和えてなめろうにした。イカは軽く焼いてから醤油を付けてさらに焼いた。屋台のイカ焼きのにおいがキッチンに漂う。デデは夏祭りの風景を思い出すが頭痛のせいかぼんやりとした光景しか浮かばなかった。

 久しぶりの魚料理だ。刺身を食べたことがないというカインは恐る恐るなめろうを口にしたが「美味しい」と言ってその後はバクバク食べた。ロックが新鮮な状態で持ってきてくれたのだろう。臭みが少なく食べやすかった。イカ焼きも醤油が香ばしくて美味しい。カインはイカゲソを気に入って全て胃に収めていた。

 夕食を終えた頃には雨は弱まっていた。外は雨が運んできた湿気のせいでジメジメしていた。キッチンで食器を洗っているとカインが「あの家、本当の家じゃないってパパとママが言ってた」と話し始めた。


「僕が赤ちゃんの頃はもっと大きい家に住んでたんだって。クィーが来たから逃げてきたんだって」

 ギーが言っていた繁華街だろうか。ここよりもっと煌びやかな所にいたのだろう。

「僕は覚えてないんだけどね。元々住んでた家にあるものを取りに行くって言ってパパとママが出掛けたの、でも夜になっても帰ってこないから妹と探しに行ったら」

「なるほど」

 カインは悲しい表情というわけでもない。「パパもママもハオも、ああハオって妹の名前なんだけど、なんかもう、本当にパパとママとハオなのかよくわからない形になってたから、死んじゃったってことが感じられないっていうか」

「そうかもしれないな」デデは小さく頷いた。デデもクィーに攫われた者の遺体を見たことがある。元々どんな姿だったのかも想像できないほどの有り様だった。血液に浸された挽き肉と表現すれば良いのだろうか。肉塊の中に残った毛髪でやっと故人を特定できるような、そんな状態だった。そんなものをいきなり見せられてもそれが家族だとは到底思えないだろう。

「パパとママにここは本当の家じゃないんだよって言われてたから、今日あの家を見ても何となく帰りたいって思わなかったんだ。前の家なんて全然覚えてないのに、ここは僕の本当の家じゃないって。自分でもよくわかんないけど」

「カインの好きなようにしていい。俺はカインに付いて行くだけだから」


「デデには本当の家ってある?」

「ある」とデデは答えた。頭が痛くてもハッキリと思い出せるデデの故郷。本当の家。

「あの場所を取り返す方法を今でも考えている」とデデは言った。

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