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19・救いの手



 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*





「……精油? カイル殿下がお気に入りのの事かしら」


 皇太子の寝所から早々に帰されてしまってから……しかも二度も!……セリーナは自分がしてしまったであろう失態について考えを巡らせていた。


 それに前回の初仕事では《せいゆ》というものを知らなかったために、皇太子の不機嫌さを加速させてしまったという前科もある。


「湯殿の準備とか、仕事の詳細は選考後に広間で説明を受けましたよ?」

「あの時はっ……宵の業務のことで頭がいっぱいで、ちゃんと聞いていませんでした……。ねえアリシア、《せ・い・ゆ》って何なのですか?」


 えっ、そこから?! と、アリシアをまた笑わせてしまった。


「私は地方で育ちましたから、帝都の流行はやりものにはうとくて」

「でも、それだけで憤慨されて、カイル殿下はあなたをお返しになったの? そんな短気な方ではないと思うのだけど」


「いえ……その前もそのあとも、私の無知と不慣れのせいで怒らせてしまったのだと思うのですが……とにかく必死だったので、よく覚えていなくて」


 ──怒らせてしまったというか、私を部屋に入れた時からずっと怒ってましたよね? とにかく、いつも不機嫌で怖い人ですっ。


「初めての職務ですもの、失敗して当然よ。殿下は大勢の侍女を相手にしていますし、細かいことは気にされてないと思いますよ。だから元気を出して? ねっ」


 アリシアの優しさと笑顔がセリーナの心を穏やかに溶かしていく。

 彼女が治癒の能力を持っているから?

 治癒能力は人の心の痛みも治せるのかも知れないと、セリーナはそっとうなづいた。


 ──いくら殿下が権力の傘を着たひどい人だとしても。高額なお給料と支度金までいただいていますし、無知のままでは申し訳ないもの。皇太子殿下をこれ以上怒らせてお城を追い出されないためにも、私なりにできる努力をしてみよう。


 何もかもがダメな自分でも、給料をもらっているからには必要なことを学んで仕事をきちんとこなしたい。セリーナは思い立ったように、すっくと顔を上げる。


「あのっ……宮廷書庫室って、私たち侍女も入れるのですか?」




 *




「上級侍女様は、どうぞご自由に閲覧くださいませ。お部屋に好きな本をお持ちになっても構いませんよ。」


 職服をきちんと着こなした宮廷書庫室の管理官は、セリーナを快く迎えてくれた。


 『白の侍女』の白いお仕着せがこんな場所で役立つなど考えてもいなかった。

 上級侍女は基本的に城内フリーパスで、特別な許可が必要なのは皇宮内の一部の場所だけだとも聞いた。


 漠然と知識を得たいと言っても。

 三階ぶんの吹き抜けの壁全面に、書庫棚は天井まで続いている。

 この恐ろしく広い書庫室で、何をどうやって学べばいいのだろう。

 管理官に尋ねて、帝都の若者に人気があるという本を何冊か借りることにした。


 甘く蕩けそうなベストセラー恋愛小説の表紙には『成人向け』と記載があった。

 意味がわからず読んでみたが、セリーナのような衝撃的な内容だった(しかし宵の業務の勉強にはなった)。


 セリーナが育ったロレーヌ地方ではまず手に入らない高価な書籍が、視界いっぱいに脈々と並んでいる。

 煌びやかなドレスや宝石、生活雑貨本……挿絵のきれいな大型本を眺めているだけでも心が躍った。


 ──午後まで仕事がないから、午前中いっぱいは書庫室で過ごせそうね。


 さすがは皇城の書庫室、吹き抜けを含む閲覧空間は広々としていて開放的だ。

 それに、世界中の本がこの場所に集められたのではないかとさえ思える──セリーナの村にある小さめの建物なら、この空間にすっぽり収まってしまいそうだ、とも思う。


 ──こんなにたくさんの本に囲まれて過ごせるなんて、夢のようだわ……!


 吹き抜けの巨大なガラス窓から差す光の筋や、古紙の、枯れ草に似た香ばしい匂い。

 適度な静寂の快適さも手伝って、セリーナは「一日中この空間に入り浸っていたい」とさえ思うのだった。


 ──そろそろ戻らなくちゃ。

 大切そうに本を抱え、書庫室を出ようとしたときだ。


「あら……ずいぶん貧相な方がいらっしゃると思ったら、まさかあなたも『白』なの?」


 あからさまにセリーナを見下すような声が、背後から耳に届いた。

 振り返れば、そこには──セリーナと同じ《白の侍女》が三人立っている。


「驚いた。カイル殿下にお仕えする上級侍女に、あなたのような見窄らしい人がいるのね」


 綺麗な巻き髪をふわふわ弾ませた白の侍女が、あからさまに眉を寄せた。


「そういえば、出仕初日に事務官に息巻いていたのはあなたよね。白の侍女の業務内容も知らずに志願したなんて、呆れてしまいましたわ……!」


 確かに、その通りかも知れない。

 彼女の言う通りだ。


「でも、あれは……」


 ──出願内容に間違いがあった。


 言いたい事があるけれど、唇が動かない。

 村にいた時に染みついたセリーナの悪い癖だ、面と向かって責められると何も言えなくなる。


「あなた自覚はあるの? この純白のお仕着せは、宮廷に出仕する侍女三百人の『顔』なのよ。そんなひどい顔色をして、せめてもう少しお化粧でもなさったら?!」


 目の前で仁王立ちをする三人が、ロレーヌの村のエライザと取り巻きたちに重なる。無意識に足がすくんで、鳩尾みぞおちのあたりがぎゅうっと痛くなった。


 ──皇城に来たって同じ。どこにいても変わらない、私は何も言えない、変われない……っ


「まぁ、せいぜい頑張ることね」


 彼女たちはセリーナを横目で睨みながら、すれ違いざまにわざと肩をぶつけてきた。


「あっ……」


 弾みで抱えていた本が手から離れ、床に散らばる。


 ──大切な本が!

 セリーナが慌てて拾うのを、侍女たちが笑いながら見ている。


「皇宮に来て早々、弱い者いじめですか?」


 突然若い男性の声がして、皆が一斉に振り向いた。

 いつからそこに居たのだろう。腕を組んで本棚に寄り掛かり、こちらを見つめる長身の青年の姿があった。


 青年はゆっくりと歩み寄ると、三人の侍女たちの目の前に立ちはだかる。


「シャニュイ公爵様っ……!」 


 後ろに撫でつけられた黒髪、精悍な顔立ち──。

 セリーナが皇太子と間違えた美丈夫の青年が、三人の侍女たちを表情のない目で見下ろしていた。


「よっ、弱いものいじめだなんて。私たちは物を知らないこの方に、色々と教えて差しあげていただけです」


「私にはそう見えなかったけどね」

「…………」


 青年の射抜くような眼差しに、侍女たちが怯んでいるのがわかる。


「し、失礼いたします!」


 髪を肩の位置でくるくる巻いた侍女を筆頭に、彼女たちは青年にそれぞれ一礼をして、そそくさとその場を後にした。


 あっ気に取られるセリーナを横目に、シャニュイ公爵と呼ばれた青年が床の上に散らばった本を次々と拾い上げていく。


「あっ、あのう」


 そして彼は無言のまま、拾った本をまとめてセリーナに手渡した。


「公爵、様……。先ほどは申し訳……ありませんでした」

「なぜ謝るの? 何か悪いことでもしましたか」


「そうではありませんが、ご迷惑をおかけしたので」


 迷惑? と、青年が首を傾げる。


「あっ……このような時は、先ずはお礼を言うべきですよね?! 申し訳ありませんっ」


「だから、そんなに謝らないで」


 ぺこぺこと何度も頭を上げるセリーナを見て、彼はフッ、と微笑んだ。


 ——確かにこの侍女は痩せていて顔色も悪いから、不健康そうに見えてしまうのだな。それに彼女の手は傷だらけで荒れている。《白の侍女》にしては、珍しいタイプだ。


「そういえば。あなたには前にも一度会っているね?」

「はい……回廊でお見かけしました」


「あなたに書類を託した事があったな。わたしはアドルフ・シャニュイ。皇宮ここに居ればまた会うこともあるだろう」


「シャニュイ公爵様……。私はセリーナ・ダルキアと申します、これでも一応……白の侍女です」


 ──彼女はなぜ、こんなふうに人に怯えたような、臆するような態度を取るのだろう。


「侍女たちの間にも色々あるのだろうが、困った事があったら私の名前を出して侍従長に相談するといい。彼は頼りになる男だから」

「はっ、はい……。ありがとう、ございます」


 公爵はセリーナに背を向けると、肩越しに振り返って片手を振ってくれる。


 ──カイル殿下とはぜんぜん、というか真逆ほど雰囲気が違いますけど……シャニュイ公爵様も、本当にきれいな方ですね。それに……私のような侍女にまで親切に接してくださるなんて。


 隙がなく洗練された彼の立居振る舞いに、セリーナは今日も魅入ってしまう。

 公爵の後ろ姿を見送っていると、正午を知らせる時報の鐘が鳴り始めた。


「やだ、急がなくちゃ……!」


 今日は皇城の一般開放日。

 皇宮に仕える上級侍女として、初めての『大きな仕事』が待っているのだ。


 そして──この時のセリーナは気づいていない。

 自分の生涯を変えてしまうに、巻き込まれてしまうなんて。





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