次にセリーナが皇太子の寝所を訪れると。
即座に扉が開いて、半裸のカイルがセリーナを見下ろした。
──真上から見下ろされると怖さが増しますっ。殿下は随分背が高いのですね……? 改めて実感しました……。
「念のために言っておくが、待ってたんじゃないからな?」
おもむろに目を逸らせると、カイルはぐ、と奥歯を噛みしめた。
──何を不要な発言してるんだ俺はッ、これじゃ待ってましたと自分から言ってるようなものではないか……!
「はい!」
素直に受け入れたのか、元気に応えた侍女が屈託のない笑顔で見上げてくる。
それはあまりにも無防備で、純真無垢な少女の微笑みにはまるで後光が差すようで。
──この侍女、俺を拒絶したことすら忘れたんじゃないのか?
「と、とにかく……奥に入って座れ!」
皇太子の声色は今夜も荒々しい。
セリーナの華奢な肩は恐怖でびくんと震えたが、ここで引き返すわけにはいかないのだ。
──それに殿下の裸の背中っ……前を歩かれると目のやり場に困りますね? 今後のことを考えると、できるだけ《業務前》の緊張は避けておきたいですっ。ここは勇気を出して……!
セリーナは無理からに精一杯の笑顔で声を絞り出した。
「あの、皇太子様。これからは何か上着をお召しになってくださいませんか? 心臓に、悪いので」
変わり者確定の侍女に何を言われたのか理解が及ばず、カイルは目を丸くしてゆっくりと振り返る。
「……は?」
*
心臓に悪いとか意味のわからぬ言葉に苛立ちながら、カイルはセリーナをベッド脇のカウチに座らせ、自分も隣の肘掛け椅子にどかりと腰を下ろした。
ここで腹を立てている場合ではない。落ち着いて話をするのだ。
「あのな……お前に聞きたいのだが」
「はい! なんなりとっ」
にこやかに笑顔を見せるセリーナに、カイルは「調子狂うのだが」と
「白の侍女になったからには、わたしはお前を、お前はわたしを悦ばせるというそれぞれの責務があるのはわかっているな?」
「はいっ。私はいつでも皇太子様に喜んでいただきたいと、心から思っておりますよ?」
──いやだから、そういう意味ではなくて。
この侍女、やっぱりド初心者だ、それも鈍感極まりないド初心者……!
カイルは何度目かの頭を抱えた。
「じゃあ、お前はどうすると悦ぶんだ?」
真顔でささやき、腕を伸ばしてセリーナを引き寄せる。
力を入れると折れてしまいそうな身体を腕の中に抱きとめた。
────ぎゃっ!!
セリーナが変な声をあげてカイルの腕から飛び退いた。
驚く暇もなく呆気に取られる皇太子に、変人侍女は深々と頭を下げる。
「も、申し訳ありません、皇太子様が急に
抱きしめる事もできないなんて想定外だった。
ぽかんと開いた口がふさがらない。
「げれ……」
──この侍女は何なんだ。拒絶されないように抱きしめて不意打ちを狙ったが、それを下劣だと……ッ!?
セリーナが部屋に来てから、短い間に何度も立て直した気力がへなへなと萎えていく。
──確信犯じゃないだろな、おい。
「あのう……。皇太子様が望んでいらっしゃることが、今やっとわかりました。こ、……こんなものをお見せして
ベッドの脇にスッと立ち、セリーナはおもむろに夜着の胸のボタンを外し始めた。
──思考が全く理解できない!
しかし相手が脱ぎ始めたからには放っておけない。
ゴホン、と咳払いをし、気を取り直してセリーナに寄り添ってみる。ボタンを外す彼女の手を手伝うように、自分の手のひらを重ねあわせた。
華奢な身体からは想像できなかった、思いのほか豊かな胸の膨らみがカイルの視界に入る。白い首筋にチュッ……と濃密な音を立てて、ゆっくりと吸い付くようなキスを落とした。
カウチに寝かせながら、侍女の両脚を開くようにトラウザーズの片足を割り入れる。
重なり合う二つの影。
……しばしの沈黙が流れた。
「うぎゃぁぁぁ────っ!」
のしかかる胸板を突き飛ばし、身体を両腕で庇うようにして跳ね起きたのはセリーナだ。
「こ、高潔な皇太子様が、
変人侍女に押し倒され、カイルは床の上に尻餅をついて横たわっていた。もはや呆れを通り越していて、侍女の怪力に恐怖すら感じてくる。
──この段階で、お前はまだ拒否するのか?!
すっかり固まってしまって動かない身体と、怒るべきか叱るべきかもわからなくなった感情を持て余し、言葉をも失ってしまう。
──この侍女、無理だ。
額に手を当てて項垂れる。
もはやこの侍女が今どんな顔をしているかなど見たくもない。
と言うか、見るのが怖くもある。
「もぅ下がって良い……さっさと下がれ…… いや出て行け!」
*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
さわさわと風に揺れる木々の葉音が心地よく耳に届く。
重なり合う葉っぱの隙間からいく筋も差し込む日の光が、カイルの頬の上を揺蕩っていた。
中庭のテラスで摂る昼食の席には、カイルとアドルフに遅れてロイスが加わり、三人がようやく揃ったところだ。
だがひとつだけ、いつもと違っているものがある。
「ちょっ、殿下? その座り方どうしたんですか……しかも顔色、悪っ!」
「ツッコむなロイス」
アドルフが琥珀色のお茶を静かにすする。
見れば叱られたあとの子供のように項垂れたカイルが、真鍮のチェアーの上で膝を抱えて座っている。いわゆる《三角座り》というやつだ。
「ちょ、小さい椅子が殿下の長い足、持て余してるじゃないですか」
ロイスに諭されたカイルはおとなしく両足を下ろし、今度は姿勢を正してきちんと座り直した。
「どっちにしても叱られた子供ですね」
何かありましたか。
アドルフにも聞かれた同じ質問に、カイルの頭が更に下がってしまう。
「……なんでもない、ちょっと変わった侍女が居るだけだ」
「あ〜、その侍女にコテンパンにやられちゃったわけですね?」
「俺はまだ何も言ってない」
「百戦錬磨の殿下が、珍しい……というか初めてですよね、負けたの。」
負けた、というのは相手が
「いや、だから! 別に負けたわけじゃない、ちょっと手こずってるだけだ」
え──っ、二回もダメだったんですか!
ロイスのその言葉に、カイルはますますしゅんと項垂れた。あたかも子犬の耳が完全に下を向いた状態である。
「いい加減にしろ、ロイス。百戦錬磨の殿下だって負けることもある」
「だから負けてない!」
あの侍女がどういう意図を以って寝所に来るのか知れない。
不敬極まりないあの侍女の役職を強制的に解いてやろうかと思った。皇太子を突き飛ばしたなど、死罪にも等しい行為だ。
だがしかし──このままでは男として本当に《負けた》ことになる。
あのような初心者ごときに負けたままでいいはずがない。
──思えば彼女を相手にしたのはまだ二回だけではないか。
まだまだ、これからだ。しかも変人の侍女に押されて、いつもの何分の一も手を出せていない。
「クビにして終了は簡単ですけど、殿下の汚名が世に晒されちゃいますね?」
テーブルの上のパンケーキを頬張りながら、ロイスがどうでも良さそうに言う。
──三度目の正直だ。
相手に常識が通じないならこっちは頭脳戦。
覚悟して待ってろ、変人侍女……!
そう思えば
くっ、くっ、と肩を揺らして含み笑いを始めたカイルを一瞥し、アドルフが冷ややかに呟いた。
「殿下は二度も負けたショックで異界に旅立たれたようだ」