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17・帝国皇太子の憂鬱

 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*




 カイルは呼吸を荒立てた侍女を冷ややかに一瞥いちべつし、グッタリ横たわる白い身体に背を向けて立ち上がった。


「湯浴みをする、もう下がれ」 


 冷徹さを孕んだうつろな目で侍女を見下ろす。

 こんな事がずっと続くのかとウンザリし、妻をめとればとも考え、結婚したとしても妻とこんな関係性を保つのかと思うとゾッとして。

 そのジレンマは輪廻りんねの如く脳裏を巡り、結局のところ答えが出せない。


 湯殿に向かい、湯の中にゆったりと身体を沈めた。

 侍女が退室したあとの部屋には、疲労感と虚しさしか残されていない。


 こんなふうに誰かを抱く行為は帝王学の一つとしてたしなみを学んでいた頃とは違い、今は無意味だ。

 第八代皇帝が、異常なほど好色であったという皇太子のために決めたならわしが尾を引く今もなお、毎年のように新しい侍女が皇宮に招集され、彼女たちは皇太子の夜伽の《責務》を果たそうとする。


 ──俺も《責務》を果たすだけだ。


 意味が無くても、目指すものがわからなくても、夜は容赦なくやって来る。

 宵の責務は十三歳で初めて女性を経験して……いや、経験から今日まで、週にニ度ほどのペースが守られていた。

 なかには毎夜のごとく夜伽侍女を呼んだ先祖もいたそうだが、考えただけでゾッとする。


 淡白にシゴトをする侍女がいれば濃厚に求めてくる者もいて、どんなタイプであっても必ず絶頂を与えてきた。


 侍女が皇太子の子を懐妊する『禁忌』を避けるため、侍女と《繋がる》ことは許されない。

 カイルはそれ故に最後まで経験したことがない──名前も知らず、なんの興味も持てない相手との行為に喜びを感じることもなく。ただ淡々と快楽を与えるのみだ。


 ──かつて、『禁忌』は破られてきた。

 先祖たちがみなカイルのように真面目だったとは思えない。

 名ばかりの禁忌など簡単に破られ、侍女を孕ませた挙句、残酷にも秘密裏に処理された黒歴史があったはずだ。


 忌み物でも見るように自分の指先を睨み、拳をグッと握りしめる。

 手早く、しかし相手の身体を傷つけずに終わらせたいと思えば、愛撫の手技は嫌でも磨かれていく。



 ──手技がどうであれ、この何を誇れる……?



 静寂のなか、天窓の月を見上げる──…

 空の遥か彼方にある美しい月は彼の自室を白々《しらじら》と照らし、淡いブルーの瞳に今夜も優しい光を投げかける。


 月はどれほど手を伸ばしても届かない、カイルが『至高の領域』と呼ぶものだ。

 それは彼が煩悶し続けながら長年求め続けるものと重なる。


「あの月のような《女神》が……。俺の心を照らしてくれる女性ひとが、この世界のどこかにいるのだろうか」


 ──そういえば。


 数日前に初めてやってきた、の事を対極的に思い出す。カイルの腕を跳ねのけて、厭な虫でも見つけたかのように飛びのいた……あの変な侍女の事を。


 初めての情事を怖がって泣いたり、身体をこわばらせたりするのはわかる。

 それは女性として可愛げがあるというものだし、だからこそ恐怖を与えるのではなく、一人一人を丁寧に扱わねばとも思う。


 ──いや……あの侍女の場合、明らかに俺に対する『拒絶』だった!


 愛らしく《啼く》どころか素っ頓狂な声をあげるし、大声で叫ぶ。

 そもそも自分が何をしに来たのかさえわかっていない様子だった。


 ──あの侍女も自ら志願して来たのだろう?


 形良い眉をひそめ、カイルはムッとする。


 ──俺の寝所に来る《白の侍女》はそれなりに選別されてるんじゃないのか。

 誰が寄越したのか知らないが、あそこまでの素人は初めてだ……!




 翌朝、カイルが朝食を取っていると、彼の執事アドルフ・シャニュイがやってきた。


 清潔感漂う黒髪、溌剌はつらつとした精悍な面立ちから印象づけられる聡明さ。

 明晰な頭脳と律儀な性格を買われ、叔父である皇帝からの推薦と本人の強い希望により、公爵位を持ちながらも皇太子の執務役に就いている。


 カイルとは歳が近いせいもあり、二人の間には身分の差を超えた兄弟のような近しい空気が漂っている。


「殿下、今日のご予定ですが」


 アドルフがつらつらと覚書を読み上げるのを静かに聞いていたカイルだが、声が途切れると小さくため息をつき、


「……それで最後か? 今日は少ないのだな」


 皇太子カイル・クラウド・オルデンシアは、二十六歳の若さにして帝国の全権を掌握している。年老いた皇帝は事実上隠居しており、政治・軍事指揮ともに嫡子であるカイルの手にゆだねられていた。


 何しろ十数余の国々を纏める大帝国だ。

 各国の大使が来城する皇室会議や接見が毎日のように行われていて、カイルがそれらを取り仕切っている。

 分刻みの政務に追われ城内を走り回る日々だ。


「朝イチの接見は『麓王の間』か。ここから遠いな……急ごう」

「麓王はそのあとです、まずは『親王の間』へ」


 広大な皇城内を移動するには小走りでも時間がかかる。城の中心部をめぐる回廊をアドルフと共に走った。

 時々すれ違う侍女たちが立ち止まって深々と礼を取る。



 *



 回廊ですれ違った白の侍女に書類を託し、アドルフは廊下を進む足を早めた。


 ──《白の侍女》にしては、何というか……子だった。


 美しさを競うはずの白の侍女もレベルが落ちたな、とさえ思う。

 まあ侍女がどんな容姿をしていようとアドルフにすればどうだっていいのだが。


 ──言いつけた仕事さえきちんとしてくれれば。


 緊急に開かれた接見を終え、皇太子とともにようやく昼食にありつけたのは午後一時を過ぎた頃だった。


「やはり長引きましたね。ダイアウルフの出現があったと聞き及びましたが」

「うむ。ダカール地区周辺の結界を強化するよう伝えておいた。場合によっては我々も出向かねばなるまい」

「ロイスをここに呼んであります」


 中庭のテラス席で軽食を取りながら、カイルとアドルフが接見の内容を復習する──日々のお決まりである。


「お待たせしました〜!」


 柔らかそうな栗毛に風をはらませながらさわやかに登場したのは、ロイス・スタンフォード。

 その軽装に似合わず、腰元に仰々しいまでの長剣を携えている。


「うわっ、うまそ〜う!」


 ロイスが真鍮の椅子をガタガタいわせながらテーブルに着くのを、「いつもながら騒がしい奴だ」とアドルフが一瞥いちべつした。


 食いしん坊のロイスは帝国警吏騎士団の騎士団長で、皇太子カイルの直属の護衛官でもある。

 二十二歳の彼は溌剌はつらつとして、整った顔立ちは一見すると名門家育ちのおとなしい子息タイプだが、実は固有能力の使い手である家系に育ち、剣を握らせると右に出るものがいないと言われる実力者だ。


「これ、俺が食ってもいいですか?」

 相手の返事を待たずにたまごサンドウィッチをつかんで頬張ほおばった。


「ロイス、ダカールの状況は? 視察に赴いたのだろう?」


 さっさと飲み込め! と、アドルフが水を手渡せば、ロイスはモゴモゴさせていたものを喉に流し込んで、


「あ〜、それがよくわかんなくて」

「どういうことだ」

「農民が何人か行方不明になってるんですけど、ダイアウルフが関わってるかどうか」


 ロイスが二つ目のたまごサンドを手に取る。


「おい、たまごサンドばかり食うんじゃない」

 アドルフが噛みついた。


「目撃証言は? 人が襲われるところを見た者はいないのか。奴がまだ結界の中にいるとすれば、早急に見つけ出して駆逐せねばなるまい」

「証言があった場所は既に痕跡がなくて。不可解なのは、外側から結界を破った形跡が無いんですよね……」


 予想外だった報告を聞き、カイルが険しい表情かおで宙をにらむ。


「ダカールは帝都からも近いしな。敵も一頭とは限らない。厳戒令を敷いて結界と警備を強化する。ロイス、指揮を頼むぞ」


「お任せあれ〜!」

 言いながら、食いしん坊はすでに三つ目のサンドウィッチをすでに頬張っていた。


「ところで殿下……」


 アドルフが眉間に僅かな皺を寄せ、ひどく迷惑そうな顔をする。


「今日、《匂い》がキツいですよ? わたしの身体にまで波及していると、周囲からも指摘が」

「確かにっ。なんかこの一帯が殿って思ってたんですよね。香水、つけ過ぎ!」


「そうなのか?!」

 カイルがクンクン腕に鼻を近づけて自分の匂いを確かめた。


「珍しく寝過ごして、急いでいたからな……」


 ロイスが四つ目のサンドイッチをつかみ取る。


「ごちそ〜さまでした〜っ!」


 見れば、アドルフの皿が空っぽになっている。


「お前はッ……全部食べたのか?! 食い物の恨みは凄まじいと知っての所業かッ!」


 胸ぐらをつかみ合う二人を横目に見ながら、カイルは口元にかすかな笑みを浮かべてティーカップのお茶を啜る。


 ──ダイアウルフ……か。事態が大きくならねば良いが。





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