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17・First Battle ( セリーナ視点 〜カイル視点)




「待たせてすまない」


重厚な扉をバタンと閉め、青年はほとんど面倒くさそうに上着をはぎ取った。


「議会が長引いてな。で、お前はそこで何をしている?」


寝室の最奥、扉からかなり離れた窓際にある天蓋付きの寝台の端っこに、セリーナはかしこまった人形さながら静かに腰をかけていた。


「座っていないで、着替えを手伝え」


言葉と気迫から、青年が苛立っているのがわかる。

慌てて駆け寄るが、極度の緊張からセリーナの声はうわずってしまう。


「もっ、申し訳ありません……」


午後十時に皇太子の寝所に来てから、かれこれ一時間。

バスタブに湯を溜めたあと、寝台の上に座ったまま何もせずに待ち続け、うとうととしかけていたところを突然に眠気を裂かれ鼓動が跳ね上がる。


——不意を突かれました。

でも、この人は、誰……?


セリーナの記憶では、皇太子は回廊で会った黒髪の好青年だ。暗がりなのではっきりとは見えないが、目の前の青年はどう見ても《黒髪》ではない。


シュッと胸元のジッパーを下ろし、そばで見られているのを物ともせずに青年は重厚そうな礼服を脱いでいく。


——ご案内係のが、うっかりお部屋を間違えたのでしょうか。

よくわかりませんが、メイド仕事としては先ずこのお召し物を片付ければいいのよね?


青年はセリーナに背中を向けたまま、脱いだものを怠惰に手渡す。

受け取った礼服は嵩高く、想像していたよりもずっと重い。


——宮廷の男性はこんなものを毎日お召しになって、肩が凝らないのかしら。


礼服を抱え上げたとき、セリーナの知る《香り》——爽やかなグリーンムスク——がふわりと鼻腔をかすめた。それはアリシアから《皇太子殿下の香り》だと教えられたもので、けれど先日、回廊で出会った黒髪の青年のもので……。


これはどういう事だろう。

目の前の青年と、回廊で会った皇太子がたまたま同じ香水を使っているだけ?


——でも案内されたのは確かに皇太子殿下のご寝所で、この男性ひとはアリシアに教えてもらった《皇太子殿下の香り》を纏っていて。


首を傾げながら見上げていると、斜め下から刺さる視線に気付いた青年が肩越しに振り返り、セリーナと初めて目が合った。


「……ン?」

「ぇ……?」


皇后様から離れ屋敷に呼ばれたあの日。

光溢れる温室でフレイアを見つめる宝石のようなブルーの瞳を、セリーナは忘れることができないでいる。

セリーナの目の前にいるのは、間違いなくあの時会った青年だ。


——もしかして、この人が——。


「あの……皇太子殿下、ご挨拶が遅れてしまいまして……」

「挨拶など求めていない。それより、湯浴ゆあみの支度はできているのか?」


「 ぁ……はっ、はい」


——カイル皇太子殿下……!


薄暗い照明に照らされた広い背中に影が差す。

温室の明るい日差しの下で見るのと打って変わり、まるで彫刻のような筋肉が滑らかな曲線を描くさまはなまめかしく、端正な顔立ちに似合わず鍛えられた背中から目を離せない。


「何を見ている?」

「ぁあ、いえ、その……」


——惚けている場合ではないわ。それにこれ以上粗相を重ねたら、皇太子殿下をもっと苛立たせてしまう。


「湯浴みをしてくる」

「ゆ、湯浴みですね。承知いたしました」


——皇太子殿下の湯浴みの手伝いって、何をすれば良いの?!


わたわたするセリーナを気にも留めず、半裸になった皇太子は気怠げに湯殿ゆどのに向かう。だが途中で、何かに気付いたように振り返った。


「新しい侍女だな。覚えておけ、わたしに湯浴みの介助は不要だ。一人でゆっくり浸かりたい」


皇太子が湯殿に消えたあと。

ひとまず安堵したものの、セリーナの頭は混乱していた。


湯殿かられる打たせ湯の音。

フレイアが飛び交う噴水のたもとでセリーナが魅了された、あの青年の横顔を思い浮かべる。そして回廊で遭遇し、セリーナが皇太子殿下だと思い込んでいた黒髪の青年のことも。


——どうやら私、大きな勘違いをしていたようですね。


なかなか切り替えられず首をかしげていると、「おい!」湯殿から怒声が響いた。 


——私、また何かやらかしましたか!?


見ると髪に泡をくっつけたままの皇太子が、湯殿からひょいと上半身を覗かせた。


——泡が付いていても、きれいなひとの濡れ髪は絵になりますね……!


なんて考えてる場合ではない。


「はい、何か?」


呑気に微笑むセリーナを見て、皇太子は「もっと慌てろ」と言いたげに額に手をあてて項垂うなだれる。


「湯が無臭だ、精油が入っていない」

「せ……せいゆ、ですか? それは必要なものなのですか? どこにあるのでしょう、探してすぐに入れますから」


皇太子はムッとした表情かおをして、「もう良い」ひとこと放つと再び湯殿に引っ込んだ。


——温室でお会いしたときは穏やかな印象でしたけど……やっぱり怖いかもっ。


寒気がして身体が震え、指先が冷たくなる。


——でもひるんではいけません! 

私のことも覚えていらっしゃらないようですし、笑顔を絶やさず……!

このあと何をされても、心を無にするのよ、セリーナ。

無心! 無感情っ!!


畏れと不安とをかき消し、必死で気力を奮い立たせた。

あの美しい皇太子を前に、自分は今夜、いったいどんな醜態をさらしてしまうのか。

次々と押し寄せてくるそら恐ろしい妄想を、懸命に心の奥底に押しやった。




* 




精悍な形の良い眉をひそめ、皇太子カイル・クロード・オルデンシアは広々とした湯船にゆっくりと身を沈めた。

今日も疲労を重ねる一日だったと想いを巡らせれば、おのずと「はぁ……」と声が漏れる。


体力には自信があるものの、これほど国務が立て込むと流石さすがに疲弊してしまう。ようやく自室に戻れたと思えば夜伽よとぎの日で、汗を流そうとするとあの侍女の失態である。


——たかが精油、されど精油だ。

疲れを取る効能もあるが、あの芳香が湯から漂うとホッとする。今日のような日は特にな。


「夕食の時間、取れなかったから空腹だ…………」


今にも鳴りそうな腹をしかめ面で撫でながら、疲労を残したまま湯殿を出ると——。

灯りが消えた暗闇の中で、侍女が影のようにベッドの上で正座をしている。


——何だあの侍女……怖いんだが!?


「なぜあかりを点けない」

「窓を開けたら風で炎が消えてしまいました。洋燈が高いところにあるので届かなくて……」


「お前は能力を持たないのか?」


カイルが指先を向けると、銀細工が豪華な洋燈にボッと青白い炎が灯る。

寝室が薄明かりに包まれ、寝台の上に鎮座する白の侍女が眩しそうに俯いたのが見えた。


「ありがとうございます。はい……能力は持っておりません」


彼女の返答を聞いて目を眇める。


——能力を持たない白の侍女がいるのか。

ではどうやって、ボイラーも無い俺の寝所の湯殿に湯を張ったんだ。


問いかけが頭を掠めたが、そんなことよりも眠気と疲労感がうっそりとのしかかる。

とにかくさっさと済ませて早く眠りに就きたい。

訝しみながらもその一心で寝台に向かうと、吐息にも似た、やる気の無い声を絞り出した。


「……始めようか」





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