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14・皇太子殿下の香り




香りは人の印象を決定づける。

臭いものは本能的に拒絶感を抱くし、いい匂いのものには好感を持つ。


もちろん、香りの好みはあるけれど。


セリーナにとってその香りは人生で全く遭遇したこともない未知なるもので、いったい何をどうすればこういう《いい匂い》が人の手で創り出せるのだろうとも思う。


化学というものはセリーナが知らないところでどんどん発達をしていて、帝都に来なければ一生存在すら知らなかったものが、この宮廷に溢れている。


——世界は不公平ですね……


毎日いただいている、美味しい食べ物だって。

セリーナの両親は生涯口にすることも、その味を想像することすらないだろう。

地方者の宿命さだめとはそういうものだ。宮廷ここに来たからこそ気がついた。


皇太子の《香り》を知ったのは、回廊ですれ違った時。

すれ違う時に限られるが、皇族関係者に使用人たちはお辞儀をし続けなければならない。腰を折って頭を深く下げ、彼らが通り過ぎるのをひたすらに『待つ』のだ。


途中で彼らが立ち止まって談話を繰り広げようが、敷物を広げてピクニックを始めようが……姿が見えなくなるまでは何があっても絶対に!

顔をあげてはならない——そういうなんだそう。


最初は、宮廷に来た日。

アリシアと共に荷物を持ち、与えられた部屋に向かっている時だった。

通り過ぎる者達に頭を下げていたら、アリシアがそっと耳打ちをする。


『この香り、カイル殿下だわ……』


アリシアは以前も侍女をしていたので、皇城のことはなんでもよく知っている。

もちろん皇太子殿下のことも。 

あの時は香りだけで人を見抜けるのかと感心したが、『皇太子様の香り』が特別だということを、セリーナもすぐに知ることになる。


目の端に映る人影に、カイル殿下を見てみたい衝動をどうにか抑えながらお辞儀を続けていると。

足早に歩く複数人の気配の後ろをバッと風が通り過ぎ、その風にまみれて高潔こうけつなムスクののこが鼻腔に届いた。


———いい匂い。


あの時に感じた心地よい衝撃を、セリーナは忘れることができない。







この日も立ち止まって頭を下げていると、一人の男性の気配が足速に頭の真横を通り過ぎて行った。


『皇太子殿下』だと、彼を取り巻く風の香りですぐにわかる。


一度通り過ぎたが、その気配が何かを思い出したように立ち戻った。そしてセリーナの前に立つと、


「顔を上げて良いぞ」


顔を上げていい、とは言われたものの……うかつな事をして、あとで侍従長様に叱られるのではないかしら?!

心を揺さぶる声と戦いながら、セリーナはおそるおそる半身を起こした。


初めてカイル殿下と対峙たいじする——。

胸を叩く鼓動が、一気に激しさを増した。



——こっ……この方が、皇太子殿下……?!



整った顔立ちに清潔感の漂う黒髪を整然と後ろに撫でつけ、長いまつ毛に縁取られた群青色あおいろの瞳は、全てを見透かすように凛々しくきらめく。


恐ろしい人だと聞いていたけれど、 セリーナを見下ろす視線は優しくあたたかくて……好みのタイプなので、つい見入ってしまった。


「昼までに『鹿角の間』にこれを届けておいてくれ。南棟三階の執務室だ、わかるな?」


厳封された封筒を、男性らしい筋張った手がセリーナに手渡す。


「は、はい! 承知いたしました」


頼んだぞ。

彼はスマートに微笑むと、回廊の先へと小走りに去っていった。


——こっ、皇太子殿下に、私もとうとうお目にかかれましたよ……!

アリシアのお話通り美丈夫な方ですね。噂に聞いているような、冷徹無比な人には見えなかったですけど……。


——では、宵の業務はあの方と……?


沸き起こった妄想に耐えられず、赤面してしまう。

こんなことではダメだ……ちょっと話したくらいで火照ほてっていては!


現実の《仕事》は、想像よりもずっとリアルで苦しいものに違いない。


——私のような初心者は本番までにイメージを膨らませて、慣れておかねばなりませんね……。でも私、イメージだけで頭が茹だってしまいそうっ。


セリーナは困り果ててしまう。

先ず『宵の業務』などと言われても、自分は何をどうすれば良いのかさえわからない。

夜のお世話と言うからには、添い寝するだけでは済まされないだろう。

とてもデリケートな事であると思うし、どう考えても恥ずかしくて、人に聞くわけにもいかない。


——あんなに美丈夫な男性を目の前にして、私の心臓っ。

爆発してしまわないかしら?!


それに、こんなに無知で惨めたらしい自分を相手にする皇太子殿下も気の毒だ。


——お当番が、どうかまだまだ回ってきませんように!


皇太子から受け取った封筒が妙に重く感じる。

どうにも肩がすくんで、セリーナはその場に立ち尽くしたまま足を踏み出せないのだった。





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