「おいクズ、外で俺を見かけたら視界から失せろっていっただろ」
自宅の廊下、義弟が、タバコを咥えながら俺に吐き捨てるようにいった。
その目は、まるでゴミを見るかのようだ。
「別に……ただ歩いてただけで――」
「ああ!? てめえみたいな四流大学に通ってるやつが義理の兄ってことに虫唾が走るんだよ!」
激昂して拳を握りしめ、大きく振りかぶる仕草をした。
俺は思わず身を屈めてしまい、身体の震えが止まらなくなる。
「ははっ、情けねえ」
五年前、母が再婚した相手の連れ子、それがコイツだ。
初めは大人しかった。
しかし母が病気で亡くなった途端に取り繕うのをやめてこんなことを言うようになった。
そして――。
「おい、帰ったら部屋に戻れと言ってるだろ。餌は使用人に運ばせる」
続いて歩いてきたのはその義父。義弟はバレないようにタバコをサッと隠す。
親と子供は似るというがまさにそっくりで、俺のことを二人は心から見下している。
元々、義父も母だけを愛していたらしい。
そして今や俺はお荷物ということだ。
加えて一流大学に受からなかったことで更に扱いは酷くなり、果ては暴力まで振るわれるようになった。
おかげで右手を向けられただけで身体が震えてしまう。
「……わかりました。それとサークルに誘われたのですが、出来れば入りた――」
「ふざけるな。お前みたいな恥は極力外に出るなと言っただろう」
大学が終わると部屋に引きこもる毎日。
こう見えても勉強は頑張ってる。
四流だと言われているが、そこそこ偏差値は高いのだ。
とはいえ、彼らにとっては満足いかないらしい。
部屋に入るとベットで横になる。
最低限の物は買わせてもらえるが、自由なんてものはほとんどない。
母との約束で大学までは卒業したいのでここにいるが、それが終わればすぐに出ていくつもりだ。
その時、ドアからコンっと聞こえた。
急いで開けると、すぐに”おもち”が中に入って来る。
「にゃーお」
「また抜け出してきたのか」
真っ白くてもふもふの猫、餅から取って名前はおもちだ。
母と一緒に雨の中拾ったのが初めての出会いだった。
ただ、長く雨ざらしされていたせいか耳が聞こえない。
”彼女”が俺の唯一の友達だ。
「にゃお」
「よしよし、おもちがいるからここにいるようなもんだよ……」
おもちが、頭をすりすりしてくる。
ただおもちは高齢だ。医者からもいつ亡くなってもおかしくないと言われている。
流石に”彼ら”もおもちに手は出さないが、かなり疎ましく思われている。
「俺……頑張ってるんだよ。勉強も、友達だって作ろうとしてるんだ。でも……身体が動かないんだよ。人が怖いんだよ」
「にゃお」
おもちは不思議な猫で、たまに俺の言葉を分かってくれている。
声は聞こえないはずなのに俺たちは心で通じ合っている、と思う。
「そうだとっておきがあるんだ」
鞄からゴソゴソと、猫用のおやつを取り出す。
大学の猫好きの警備員さんからもらったものだ。
「にゃおおおおお」
「慌てるなって」
毎月おもちにかかる病院代は出してもらえてるが、元はといえば母が残した貯金からでもある。
「大学を卒業したら就職するから、二人で暮らそうな」
「にゃお!」
「はは、わかるんだな。やっぱりおもちは賢いな。それまで……一緒に頑張ろうな」
◇
翌日、大学を終えて自宅に戻る際、いつもの道に人だかりが出来ていた。
みんなが空を見上げているのだ。
「火事だってさ、結構燃えてるらしいよ」
「まじ? どこ?」
「角にある大きな家って聞いたけど」
角を曲がると家から火が出ていた。
間違いない、俺の家だ。
「嘘だろ……」
既に消防車が到着しているものの、火の勢いは収まっていない。
昔ながらの建物だ。木造建築なので、燃えやすいのだろう。
そういえば……金がもったいないからと消化施設をケチっていたことを思い出す。
「下がってください! 離れて!」
必死に消防隊員が、野次馬を離れさせようと叫んでいる。
その時、家から確保されて出てきたのは義弟だった。
消防隊員が救急車に乗ってと言われても、なぜか頑なに拒否している。
「おい!」
「……あ、ちょ、ちょうどいいところにきた!」
「は?」
義弟は俺の胸を情けなく掴み、懇願するかのような目で訴えかけてきた。
「何とかしてくれよ、頼む」
「何とかってなんだよ!? それより――」
「……俺のタバコのせいなんだ」
やっぱりだ。こいつ……何度も怒られてたのに。
「なあ、頼むよ。お前のせいにしてくれよ。なあ、俺、このままじゃ大変なことになっちまう! いいだろ? なあ、お前ならなんとでもなるだろ!? 金はやるから!」
しかし俺はそんなことはどうでも良かった。
こいつの無駄話を聞いてる暇はない。
「黙ってろ! おもちはどこだ!?」
「……は? 何言ってんだ? それより俺の――」
「猫だよ! おもちはどうしたって聞いてんだよ! はやく答えろ!」
おもちは身体が弱いので、基本的にゲージの中で眠っている。
火が強くなり、煙が凄まじく立ち上っていた。
義弟は俺の勢いに驚いたのか怯えながら答える。
「し、しらねえよ! ゲージの中だろ。あんな猫どうだっていい。それより俺の――」
その瞬間、俺は駆けていた。
耳が聞こえないおもちは、わけもわからず恐怖で怯えているはずだ。
こんな中で、一人で――!?
「何だ君!? 何処へ行く!?」
「おもちが! おもちがいるんです!」
だが入口で消防員に止められてしまう。
「おもち? ペットか?」
「家族です。離してください!」
「そんなわけにはいかない、ほら下がってくれ! 俺たちが助け出すから。信用してくれ」
信用――そんなの信じられるわけがない。
それにおもちのゲージにはカギがかかっているのだ。
そのカギは、俺が持っている。
一瞬の隙をついて、無理矢理玄関に入る。
「く……」
もの凄い熱波だ。肌に突き刺さるように熱い。
「玄関はダメだ……」
裏庭までぐるりと回って、窓を突き破って中に入る。
ガラスの破片が肌に突き刺さったが、痛みは感じない。
一直線におもちのところまで駆けようとしたが、火が行く手を阻む。
それでも無我夢中で走り続け、なんとか俺はおもちの所に辿り着いた。
「にゃあああああああああああああああああ」
「もう大丈夫だ。すぐに助けるから」
急いで鍵を開けると、おもちは俺に飛びついてきた。
これほど恐ろしかったことはないだろう。
「よし、行こう」
「にゃお」
だが……振り返ると壁が崩れ天井が崩れ、火が迫っていた。
今まであった道はなく、完全に塞がっている。
あまりの熱に目が空けられなくなり、同時に煙を吸い込んでしまってせき込んだ。
「がああっごほごほっ」
崩壊していく音が聞こえる。
その時、おもちが僕の頬を舐めた。
「おもち……ごめん……」
「にゃおにゃお」
おもちの真っ白くてふわふわの体を撫でながら、俺は諦めるしかなかった。
こんなはずじゃなかった……そんな……二人で暮らそうと思っていたのに……。
だが火が目前まで迫ってきた瞬間――おもちの体に異変が起きた。
小さくなっていっている。まるで、幼体のように――。
「な……?」
同時に自分の体にもそれが起きている事に気づく。
手足が短く、背も低くなっていく。
縮んでいる。そんな奇妙な感覚が襲う。声が出なくなる。声帯が消えていく。
やがて視界が真っ白いで何もかも見えなくなっていった。
次の瞬間、俺は、俺の身体はこの世界から完全に消えた。
――――
――
―
目を覚ますと煌びやかな天井が目に入った。
だが左右の視界が遮られているので、それ以外が見えない。
何か箱のようなところに入れられている?
しかしふわふわなのはわかる。
いや、それよりも――。
「おもえあああ」
おもちと叫んだつもりが、言葉が上手く発せない。
「おもえあああお」
何度やっても、活舌が上手くできない。舌を動かしてみると、歯がない事に気づく。
いや……違う。
身体も持ち上がらず、頭も重い。
自分の体が、自分ではない感覚――。
その瞬間、最後の記憶がよみがえった。
幼くなっていくおもちと、手足が縮んでいく自分。
もしかして、赤ちゃんになってる!?
「ぐるう」
「おもあああ」
そのとき、手の平にもふっとした感触を感じた。
柔らかくて、暖かくて……おもちだ、と直感わかった。
ああ……おもちもいたんだ……。
良かった……助かったんだ……。
「ぐるう」
そして俺を覗き込むおもち。
だがその姿は老猫のおもちではなかった。
両翼を携え、白くてもふもふ、けれどもその口には、しっかりとした牙が付いている。
――創作物のドラゴン、それが頭に浮かんだ。
「おもあああ」
だが俺は嬉しかった。現状の摩訶不思議な出来事よりも、おもちとまたこうやって一緒にいることが。
俺たちはやり直せる機会をもらったんだ。
その時、女性の声がした。
なんだか聞き覚えがあるような気がする。
そして彼女は近づいてくると、驚いて声をあげた。
「……クライン!? あなたもう、”魔獣”を召喚したというの……!?」
天使のような顔で俺を覗き込んだ女性は、なぜか懐かしく、甘い匂いがする。
心がぽかぽかする。俺はこの感情を知らない。
今考えていることは二つ。
誰にも屈しない心を持つこと。
そしておもちと一緒に、幸せな人生を送ることだ。