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【10】信じるココロ

「威くんばっかずるい。交代してよぅ」


 甘ったるい伊緒里ちゃんの声が、長い髪の毛と一緒に上から顔にかかる。今日のシャンプーは柑橘系の香り。伊緒里ちゃんは日替わりでいろんなのを使っている。


 僕は仕事が終わった伊緒里ちゃんと、店のカップル用の個室で過ごしていた。夜更けに屋外でイチャつくのも不用心だし、なにせ伊緒里ちゃん当人が密室をご所望だったから。


「え~、長いお説教から解放されて、やっと膝枕でくつろいでたのになあ……」


「許してあげたんだから文句言わないの」と言いながら、伊緒里ちゃんは容赦なく、僕の体を自分の太股から、ごろんと満喫のペアシートの床に転がした。


「まったく、浮気者なんだから威くんは……」


「わざとじゃないよ」


「だから許してあげたじゃない」微妙なふくれ顔もかわいらしい。


 みなもには店長もついてるから、見舞いに行かなくてもいいかなって思って、結局今晩はいつもどおり伊緒里ちゃんに会いに行ったんだ。

 僕が淳吾さんお手製のどでっカニ入りタコライスを食べていると、目ざとい伊緒里ちゃんがすぐに僕の異変に気が付いた。


 往生際悪く隠し通そうとする僕のこめかみに、執拗なウメボシ攻撃をしてくる伊緒里ちゃんに屈した僕は、バイト後この監獄部屋に放り込まれて尋問を受け、状況の説明、そして懺悔、アンド土下座のコンボを決めて小一時間後、ようやくお許しを得たんだ。


「交代って、僕が膝枕するの?」


「えっと、ここによっかかって、あぐらかいて」と、伊緒里ちゃんは自分の横を指した。僕が言われたとおりに、ふかふかした床の上を移動して、伊緒里ちゃんの横にあぐらをかくと、伊緒里ちゃんは僕の股ぐらにちょこんとお尻を据えて、体を預けてきた。


「そしたら、私の肩に顎をのっけてくれる?」


 僕は言われたとおりにすると、彼女はきゅっと僕の方を向いて軽いキスをした。


「でね、脇に手を入れて。そう、で、私の胴を抱いて」


「……こう?」僕は伊緒里ちゃんの胸の下あたりをゆるく抱いた。伊緒里ちゃんのいろんな香りがいっぺんに僕を包む。すごくおいしそうだけど、我慢我慢。


「もう……ヘンなこと考えてるでしょ。当たってるよ?」と言って、おしりをモゾモゾさせる伊緒里ちゃん。んなコトしたら、余計育っちゃうでしょうが。


「しょうがないでしょ。僕を何だと思ってるの? 健康な男子高校生なんだよ?」


「はいはい。ね、」伊緒里ちゃんが頭で僕にスリスリしながら訊ねた。


「ん?」


「もっとぎゅっとして」足首から先をパタパタさせてる。むちゃくちゃ甘えてる証拠だ。


「ヤだ」


「どうして?」


「……壊したら、ヤだから」今、力の加減が出来るか、ちょっと不安。


「威くん、男の子はもっと雑で、何も考えてないのが普通よ」


「普通……ねえ」僕普通の男の子じゃないからわかんないや。


「うちの弟たちなんか、みんな雑もいいとこよ。いちいち細かいことなんか気にしない。だから……そんな腫れ物に触るような扱いしないで……大丈夫だから」


「ホント?」


「だから、ぎゅっとして。ねえ、して」伊緒里ちゃんは僕の耳元で、ささやいた。「甘えられる人、威くんしかいないの……」


「それ、お願い?」


「うん、お願い」


「じゃ、叶えないといけないな……」僕は伊緒里ちゃんの耳たぶを甘噛みしながら、腕に少しづつ力を込めた。ゆっくり、ゆっくりと。

 ああ……触りたい。むっちゃ触りたい。

 こんな生殺し状態では、僕が辛抱たまらない。たまらず首筋に舌を這わせると、伊緒里ちゃんが切れ切れに吐息を漏らし、クネクネと身をよじりながら膝を擦り合わせる。


「あん……だめ、どこ触ろうとしてるのよ」

 右手を下腹部、左手を胸部へとスライドさせようとしたら、すかさず伊緒里ちゃんに手首をロックされてしまった。じれったいな……


「え~、おあずけぇ?」


「今日は威くん、悪いことしたんだから、罰よ」とピシャリ。手厳しい。

 でも怒ってるってのは、僕のこと好きってことだよね。よかった。まだ見捨てられてない。

 今の僕にとって、お前なんかいらないって捨てられるのが一番堪える。

 というかムリ。


「威くん、また考え事してたでしょう」


「……え?」


「体が硬く、動かなくなるから分かる。……どうしたの?」


 伊緒里ちゃんが僕の手をさすりながら、やさしく言った。伊緒里ちゃんには、すぐバレちゃうな。きっと弟くんたちでも、そういう事があったんだろう。


 僕は伊緒里ちゃんの背中に顔を埋め、彼女をぬいぐるみのように抱き締めて呟いた。


「……不安なんだ。また、捨てられや……しないかって。もうイヤなんだ……もう」


「そんな情けない声出さないで。……私の方こそ、いつあなたに捨てられて、威くんがみなもちゃんの所に帰ってしまわないかって、不安なのよ」


「なんだ、一緒じゃん」少しだけホッとした。


 いくら契を交わしても、こうして抱き締めても、結婚式の真似事をして時計を交換しても、僕らはお互いに不安を解消出来ずにいるわけで、だったら、そんなものには心を強固に結びつける効果なんて、これっぽっちもないんじゃないのか。

 ……そう、思った。


「伊緒里ちゃん、僕、そんなつもり全くないよ」


「私だってないわ!」伊緒里ちゃんは頭をぶんぶん振って言った。


 じゃあ、この不安はどうしたらなくなるんだろう? そう思っていたら、伊緒里ちゃんが僕の腕を解いて、こちらに向き直って言った。


「私、威くんのこと信じる。だから、威くんも私のこと信じて。じゃないと、ずっと私たち不安なまんまで、そのうちおかしくなっちゃう。だから――」


 少し薄暗い小部屋の中で、伊緒里ちゃんの潤んだ大きな瞳が僕だけを映している。保健室で僕を励ましてくれたときみたいに、力強くて、暖かくて、安心出来て、そして覚悟を決めたような、そんな真っ直ぐな目だ。


「わかった。僕も伊緒里ちゃんを信じる」


 伊緒里ちゃんは大きく頷いた。そして僕は、もっと伊緒里ちゃんが好きになった。

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