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第11話

 沈黙の中、ガラス窓がきゅっと小さく音を立てる。美月が指をガラス窓から離したのだ。そのまま、美月は図書室の葵に声をかけることなく、吹奏楽部の部室へ歩いていった。

 星羅は美月の寂しげな背中を見送ると、葵がいる図書室に入った。

 無音の世界で、ページを捲る音だけが耳に残る。背後から手元を覗いてみると、葵は星の写真集を眺めていた。下校時刻のチャイムが鳴る。葵は写真集を元の本棚へ戻すと、図書室を出ていった。

「美月さんは千花さんとの友情を優先して、葵先生を諦めようとしたんですね」

「うん。それから美月は、私たちと話さなくなった。美月は優しいから、私のわがままを聞いてくれたの。二年生になってからはクラスも別々になって、私たちが幼馴染だって知ってる子は、高校ではほとんどいなかったと思う」

 星羅は葵が戻した星の写真集を手に取る。ぱらぱらと捲ると、紙の中には美しい銀河の川床が広がっている。

「美月はさ、あんなひどいことを言った私を責めることなく……応援するって言ってくれたの。その代わり、ちゃんと病気を治すんだよって。私、そのとき思ったんだ。美月には、どうやったって叶わない。こんな最低な人間だから、神様は私を見捨てたんだって」

 恋をした経験のない星羅は、ドラマや映画の中でしかそれを知らない。三角関係なんて想像もつかない状況だった。

「でも、それくらい葵先生のこと好きだったんですよね」

「……好きだった。でも、二年生になってからはもう体調がよくなくてね。学校に行けなくなった」

 千花は、過去を手繰るようにゆっくりとした口調で話した。

 高校二年生になった三人は、ばらばらになってしまった。美月は生徒会で忙しくなり、千花は病気が進行し、とうとう学校に通うことができなくなったのだ。

 葵は、一人になっても相変わらず読書三昧だった。

「葵先生には、病気のこと言ってたんですか?」

「……最初は言えなかったよ。だって、怖くて。髪だって抜けてたし、顔色も悪いし、肌も荒れてるし。こんな姿見せたくなかったからさ。でもさ、家は隣同士だし、長く休んでたらそりゃバレるよね。あっさり気付かれて、それからしばらくはお見舞いに来てくれた」

 けれど、千花の病状はどんどん悪化していった。そして、ある日を境に葵はぱったりとお見舞いに来なくなった。

「きっと、ショックだったんだろうね。私、元気だけが取り柄だったからさ。あんな姿になるなんて思わないじゃん? 死に近づいていく私を見て、怖くなっちゃったんだと思う……」

 再び竜巻が巻き起こった。花びらのような光の欠片が二人を包み込むと、それは今度は秋空の下へ二人を運んだ。

 長い坂道を、葵が血相を変えて走っていた。葵の行く先には、病院がある。

『千花っ!』

 葵が駆け付けた病室には、頭に白い包帯を巻いて笑う千花がいた。

『葵。来てくれたんだ』

 葵は青白い顔をして、ベッドに横になった千花に駆け寄る。

『部活中に熱中症で倒れたって……保健室に行ったら救急車で運ばれたって聞いて……』

「……先生。すごい焦ってる」

 白い部屋。ベッドの上に座り、砕けた笑みを浮かべる千花の顔色は、よくない。見守る星羅の心臓までひどく高鳴り出した。

 葵はスツールに座り、息を吐いた。

『もう、大丈夫なの?』

『うん。私は全然! ただ打ちどころが悪かったみたいでさ。一応脳波とかの検査するんだって。せっかくの夏休みが台無しだよねぇ』

『なんだよもう。救急車なんて聞いたらびっくりするじゃん。驚かせるなよ』

『ごめんごめん。心配してくれたんだ?』

 葵は少し照れた様子で、千花から視線を外した。その視線は、不意に千花の手首に向けられる。

『ねぇ、千花。少し痩せた?』

『そう?』

 千花の顔に、翳が差す。

『やった。ダイエット成功だ』

 取り繕うように笑う千花の首筋はほっそりとして、骨と皮が張り付いているだけのように見える。

『夏バテとか、らしくないよ』

『違うよ。ちゃんと食べてるし』

『……そっか』

 困ったような葵の顔。

 ふと思った。彼のこの表情は、星羅も何度も見たことがある。

「……そっか。先生って、私と千花さんを重ね合わせてたんだ」

 ――私が、千花さんに似ているから。

 葵が最初から心配していたのは、千花だけだった。

「葵ってさ、嘘が下手なんだよね。すぐ顔に出ちゃうの。葵は初めて来た大学病院に戸惑っててさ……懐かしいなぁ。今じゃたくさんの子供たちを助ける小児外科医なのにね」

 そう言って、千花はくすりと笑った。見ると、彼女は優しい顔で笑っていた。

「先生が助けたいのは、千花さんなんだ」

 きっと、これからもずっとそう。彼の中にはまだ千花が生きている。心の中の千花を助けるために、星羅は利用されている。

「……私、なんで死ぬのが怖かったんだろ」

 ――どうせ生きてたって、私にはなにもないのに。

 指先が冷たくなっていく。星羅の手の中の花がみるみる皺だらけになり、はらりと落ちた。

「星羅ちゃん」

 千花が星羅をそっと抱き締めた。

「私が好きだった葵は、そういう人じゃないよ」

 葵の努力を疑うわけじゃない。

「……もし、私が千花さんに似てなかったら、先生はここまでしたかな。ここまで必死になってくれたのかな」

「葵は本気で、星羅ちゃんを救いたいって思ってる。寝る間も惜しんで勉強して、手技の練習をして。怖いのは葵も同じ。あなたの命が自分の手に乗ってるんだから」

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