どこからか、声が聞こえる。
『おはよー』
『今日のテスト絶対やばい』
『体育のマラソンやだな』
『昨日のテレビ見た?』
『今日の音楽ってさー』
学生たちの声が荒波となって一気に押し寄せたかと思えば、すーっと引いていく。
ほどなくして瞼の裏の光が落ち着くと、星羅はゆっくりと瞼を開けた。目の前は、また景色が変わっていた。
「ここ……」
星羅が立っているのは、セピア色をした教室の中。
深緑色の黒板。温かみのある木の机。グレーのロッカー。風がカーテンと踊る。
窓際一番後ろの席。そこに、一人の学生が座っている。
「えっ……先生?」
星羅が声を上げる。そこにいたのは、葵だった。葵は夕暮れの教室で一人、本を読んでいる。
教室の隅にいる葵はもちろん白衣なんて着ていないし、身体つきも華奢で表情もまだあどけない。今目の前にいる葵は、星羅が知る『葵先生』の姿ではない。学生服を着た青年だった。
星羅の声に、葵は反応しなかった。声が聞こえていないというより、存在自体に気付いていない様子だ。
「葵先生に私たちのことは見えてないみたいだね」と、千花が言う。
「千花さん、葵先生のこと知ってるの?」
星羅は振り向き、千花に訊ねた。
「うん。まあね」
千花は肩をすくめるようにして頷く。
「じゃあこれって、先生の学生時代ってこと?」
「そうみたい。つまりさっきの花は、葵先生の思い出の花だったってことだね」
葵の過去。星羅は、自分のではなく葵の思い出の花を摘んでしまったらしい。
ゆったりとした時間の中で本に視線を落とす葵を、星羅はじっと見つめた。
窓の外から、オレンジ色の太陽が生徒の居なくなった教室に射し込む。黄ばんだ薄いカーテンが風に靡き、その風が同時に葵の頬を撫でて通り過ぎていく。
しばらくすると、葵は読んでいた文庫を閉じ、顔を上げた。
窓の外から運動部の声が聞こえてくる。下校時刻をとうに過ぎ、閑散とした校舎。遠くから、かすかに階段を駆け上がる足音が耳に届いた。それは徐々に大きくなり、やがてひとつの影が教室に伸びる。
『葵お待たせ! 帰ろ』
汗ばんだ首元にショートの髪を張り付けて、慌ただしく教室に入ってきたのは、一人の少女。セーラー服の袖とスカートから伸びるほっそりとした手足は筋肉質で、まさに運動少女を絵に描いたような少女だった。
星羅は、少女の顔を見て言葉を失った。
「これって、千花さん?」
その少女は、星の旅人を名乗った千花に瓜二つだった。千花を見ると、彼女はからりと笑い、軽い調子で言った。
「バレたか。そ。葵先生って、実は私の幼馴染だったりして」
星羅は目の前の少女と、セーラー服の少女を交互に見る。
――千花さんは美月さんの親友じゃなくて、葵先生の幼馴染?
頭の中がこんがらがってきた。
「千花さんって、一体何者なの?」
「まあまあ。今は葵先生の思い出を見ようよ」
千花に肩を掴まれ、ぐるりと回転させられる。星羅は戸惑いながら、学生時代の葵たちに視線を戻した。
『千花、遅い。見回りの先生に何回も怒られたじゃん』
不機嫌そうな声で、葵が言う。
『ごめんって。これでも急いで着替えたんだよ』
悪びれる様子なく謝りながら、千花が駆け寄る。
『ようやく帰れるよ』と、葵が立ち上がる。
『おっと、本がハズレでご機嫌ななめですか? 葵くん』
『うるさい』
『ったく、分かりやすいなぁ、葵は』
スクールバッグを肩にかけ、二人は教室を出ていく。
『いやー暑い! もう夏の体育館はサウナだよー』
『下品。スカートめくるな』
色気もなくスカートをひらひらと手ではためかせながら、千花と葵は夕暮れの坂道を並んで歩く。
『誰も見てないって』
『もし間違って見たらどうするんだよ。見たくもないものを見せられた方の気持ちも考えろ』
『そっち!?』
千花が思い切り葵の尻を蹴る。
『いてっ!』
『少しは女扱いしろ!』
「うわぁ、懐かしいなぁ」
千花はくすぐったそうに頬をほんのりと染め、青春時代の自分たちを眺めている。
「すごく楽しそう」
星羅と千花は、少し離れて二人の後を追う。
少し先を歩く学生の集団が目に入る。
「あっ、みいちゃんだ!」
「みいちゃん?」
「バスケ部の仲間!」
「一緒に帰らないんですね?」
「葵と一緒に帰ってたからね」
千花はすっと目を細め、笑った。星羅は葵たちに視線を戻した。
集団は楽しそうに話しながら、ぞろぞろとファミレスへ入っていく。それに気付いた葵は立ち止まり、ちらりと千花を見た。
『行かなくていいの?』
千花はきょとんとした顔で、葵を見上げた。葵が集団を目で指すと、千花は遠くの彼女たちに視線を流して苦笑した。
『いいよ。私お金ないし、女同士だと噂話ばっかりだし。葵といた方が楽』
『楽って……お前』
葵が呆れたような顔をする。
星羅はその表情を新鮮な気持ちで見つめた。
「なんか、先生が先生じゃないみたい」
「はは。そりゃ、このとき葵は学生だし」
「そっか」
星羅がいくらわがままを言っても、葵がこんな表情を見せたことはない。いつも困ったように笑うだけだ。
初めて見る葵の表情に、星羅はなんとも言えない気分になった。二人はじゃれ合うように笑っている。
『絶対褒めてないよね、それ』
『褒めてるよ、褒めてる』
そう笑う千花の横顔は、少しだけ寂しそうに見えた。
『だって、私がいなかったら葵完全にひとりだよ? そんなの可哀想過ぎるでしょ』
『余計なお世話です。俺は好きでひとりでいるだけ』
『ま、安心しなさい。私だけはずっと一緒にいてあげるから!』
歯を見せてニカッと笑うその顔は、今も当時も変わらないらしい。葵は苦笑を漏らしながら頷いている。
見ていてほっこりする。
「……仲良かったんですね。先生と」
「うん。良かったよ、すごく」
星羅の言葉に、千花は嬉しそうに頷いた。
「でも、葵はどうだっただろう」
「え?」
千花を見ると、彼女は少しだけ寂しそうに葵を見つめていた。
『ここに美月もいればなぁ……』
歩きながら、ふと葵が呟いた。
その言葉に、星羅は「え」と声を漏らす。
「美月って」
――どくん、と心臓が鳴る。
「美月も私の幼馴染。美月ってね、美人で頭が良くて、おまけに優しくて楽器もできる。完璧な女の子なんだ」
星羅の脳裏に、つい先ほど病院で知り合った妊婦の優しい笑顔が浮かぶ。
「それでもって、美月は葵の初恋の女の子だったりして」
「えっ! 先生の!?」
星羅はよくよく美月を思い出す。たしかに、美月は美しかった。目がくりくりと大きくて、口元は上品な三日月形で、笑顔は花が咲いたようだった。
「でも、美月さん妊娠して……あ」
美月の苗字を思い出す。美月は自身を夏目と言っていた。
「美月さんと先生って、もしかして結婚してるの?」
「……そ。葵は無事初恋を実らせたってわけよ」
星羅は千花をちらりと見る。千花は、懐かしそうにかつての葵と自分を見ていた。
「幼馴染と親友との三角関係……」
「やだ。そんなどろどろした感じじゃないってば」
「そうなんですか?」
「だって、美月と葵よ? 全然、そんなふうにならなかったよ」
そう言う千花の睫毛は、かすかに震えていた。