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第3話

 まるで、心臓が制御不能の暴れ馬になったように思えた。どくどくと音を立てて血を全身に巡らせる星羅のそれは、たった数メートルの距離を走っただけで悲鳴を上げる。

 遠くでアナウンスが流れている。頭に酸素が回っていないのか、いつもより小さい音量に思えた。

 動悸で目が眩み、星羅は廊下の隅でしゃがみ込む。肩で息をしながら近くにあった待合椅子に手をかけると、手になにかが触れた。

 霞む視界。星羅は目を凝らし、手の中のものを見る。

 落ちていたのは巾着だった。子供用だろうか。少し色褪せているが、可愛らしい感じの巾着だ。縫い付けられたネームには、『朝倉あさくら千花ちか』とある。

 落とし物だろうか。

 星羅は、ちょうど近くを通り過ぎた女性に声をかけようと振り向く。しかし、女性はタイミング悪く診察室に入っていってしまった。

 ここで待つか、看護師に渡すか。

 星羅は手の中の巾着を見つめ、椅子に座った。

 しばらくすると、診察室から女性が出てきた。栗色の長い髪は緩いウェーブがかかっていて、瞳は黒々と大きい。清楚な花柄の青色のワンピースを着たその女性のお腹は大きい。女性は妊婦のようだった。

 星羅は立ち上がり、おずおずと声をかけた。

「……あの」

 自分から知らない人に声をかけることに慣れていない星羅は、緊張のせいか手のひらからぶわりと汗が染み出した。

 女性は星羅に気が付くと、その瞳をみるみる見開いて固まった。

 なんだろう、と思っていると。

「千花……?」

 女性は、唇の隙間からぽろりと零すように、そう呟いた。

「え?」

 星羅は怪訝な顔をする。すると、女性は慌てて笑みを浮かべた。

「あ、ごめんね。なにかな?」

「あの……これ、落としませんでしたか」

 星羅の手の中の巾着を見て、女性はハッとしてバッグを漁った。

「ありがとう。もしかして、ずっと待っててくれたの?」

「はい。看護師さんに渡すより早いかなと思って」

「そっか。……本当にありがとう」

 差し出すと、女性は大切そうに巾着を抱き締めた。

「これ、命と同じくらい大切なものなの」

 少し大袈裟な感じがしたけれど、女性の手は柔らかく、心底大切そうに巾着を撫でている。

「命と同じ? ……そんなに?」

「うん」

 星羅はじっと女性の手の中の巾着を見る。

 少し中身が気になったが、見ず知らずの星羅が聞くことでもない。会釈をして病室へ戻ろうと背中を向けると、女性が星羅の手を掴んだ。その手の力は、思いの外強い。

「待って。ねえ、あなた名前は?」

「……摘木星羅です」

 星羅が名乗ると、女性は柔らかく微笑んだ。

「……星羅ちゃんか。私、夏目なつめ美月みづき。ねぇ、よかったらこれからお茶でもどう? お礼させて」

「え?」

「一階のカフェにでも行かない?」

「……でも」

 星羅は迷った。こういうとき、普通はどうするのだろう。素直に甘えるべきなのか、それとも断るべきなのか。でも、知らない女性に、そんなこといいのだろうか。

 ぐるぐると悩んでいると、美月がハッとしたような顔をして言った。

「もしかして、食事制限とかある? それだったらべつの場所で……えっと、どこがいいかな」

 美月は視線を泳がせながら、必死に考えているようだった。悪い人ではなさそうだった。

「……制限はないので、カフェで」と、星羅が呟くと。

「本当? ありがとう!」

 星羅の手を取り、美月は嬉しそうにカフェに歩き出した。

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