一つ瞬きをした瞬間にその場に出現していたマスターに驚愕しつつも、見慣れた存在がその場に居る事で鷹羽は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。
以前、マスターが鷹羽を助けてくれたのを覚えている。自分ではもうどうしようもなかった時に助けの手を差し出してくれたのを、忘れるわけがないのだ。
今回だってきっと彼が合流してくれたなら上手くいくと、根拠はないけれどそう信じる事が出来る。
そんな事をマスターに言ったらなんかスルーされてしまいそうな気がするけれど、そういう所も含めて余計な事を考える余裕が出来ている、ような気がする。
さっきまでは本当に何も考える余裕がなかったから、今やっと呼吸が出来ているような、そんな感覚がした。
「鷹羽さん、ここって
「え……そりゃあ……」
「これを飲んでからよーく呼吸して下さい。肺を開いて息を吸い込んで、ふぅーって長く吐いて。それを何回か続けて下さい」
マスターがズイッと差し出してきたのは、ラベルの無い水のペットボトルだった。中身が水なのは間違いがないし、握ってみるとペコっと柔らかいこのボトルはきっと市販の水のボトルを再利用したものだろう。
500ミリだか600ミリだか、水のボトルは内容量が多めのものが多いので見た目より多く入るタイプのものかもしれないとかどうでもいい事を思いつつキャップを回して、抵抗なく水を飲む。
こんな所で、こんなわかりやすい水に何かを仕込む程マスターは暇ではないだろう。
水を渡し合う腕の下には女性の遺体が転がっているというなんとも異常な光景の中ではあるが、マスターの言う事には間違いがない――と、思う事にしておいた。
だってそうやって信じられるものを確保しておかないと、なんとなく、進めなくなるような気がしてしまって。
「飲みましたね? じゃあはい、深呼吸をしましょう」
「ここで、ですかぁ……?」
「ここで、です。はい息を吸って~」
何故かパンッと手を叩いてタイミングを取るマスターに、うぐぐと口をへの字に曲げつつも息を吸い込む。肺を大きく膨らませて、マスターがもう一度パンッと拍手をするまで息を吸い込むのは正直、鷹羽にとっては苦行だった。
生臭い。その生臭さの中にも血液のどろっとしたような感じと錆臭さとが混ざっているような感じがして、吐き気がしそうなくらいに気分が悪かった。
吐きそうに胃がと喉がググっと変な感覚になるのを我慢して、マスターに促されるままに息を吐き出し続ける。
それから一度休憩して水を飲んで、もう一度思いっきり息を吸い込む。そんな事を数回続けていると、五回目あたりで随分と呼吸がしやすくなっていることに鷹羽は気付いた。
さっきよりもスッと息が吸えるし、吐きそうだったさっきよりもずっと沢山肺に息が入っているような気がする。
そんなに違いはないですよ、なんて言われたら「そうですか」としか言いようがないけれど、ふー、と吐き出す時にもさっきまでのような吐き気は感じられない。
「そのまま、十回まで続けて下さい」
「はぁーー………い」
「この水ね、ただの水道水とかじゃないんです。知り合いの神社の手水舎の御手水を頂いてきてるんですよ」
「ちょーずしゃ?」
「ちょうずしゃ。手と水と、校舎のしゃ、で手水舎。神社に入る時に最初に手を洗う所あるでしょう?」
「あぁー……」
すぅーはぁーと言われた通り時間をたっぷりかけて深呼吸をしながらマスターの話を聞いていると、ほわほわとなんとなーく「
神社の入口あたりにある鹿威しの竹筒っぽいものとか、蛇口垂れ流しとかの水がたっぷりと溜まっているあの場所の事を言っているのだろうなと、息を吐き出しながら鷹羽は思った。アレが手水舎と言うのは知らなかったけれど、言われてみればなるほどだ。
しかしそんな所野水をわざわざもらってきてボトルに貯めているなんて、衛生的には大丈夫なんだろうかと深呼吸しながら無意識に上げ下げしていた手に握っているボトルを見る。
「ふふ、都内では珍しい天然水のトコなんで飲んでも大丈夫ですよ。そもそも手水舎の水って最後には口に含むでしょう?」
「あ、バレた」
「顔見れば分かりますって」
マスターが言う所によるとこの水のある神社は、都内では少なくなってきている天然水? 井戸水?だかの水の手水舎なんだそうだ。天然水だとか井戸水だとか湧水だとかの違いはいまいちわからない鷹羽だが、この東京においてそういう水が段々となくなってきている事は流石に知っている。
鷹羽が子供の頃に住んでいた家は井戸水だとかで水も美味かったし水道代も安いと親が言っていたのでその感覚でいたから、一人暮らしになって水道代を見た時にびっくりしたこともあったものだ。
それに、手水舎の水は口に含む、というのも聞いて思い出した事だった。
鷹羽はここ数年初詣というのに足を運んでいない。家の近くには氏神様だか土地神様だかの神社はあるけれど、一人暮らしの独身男がわざわざそんな所まで足を運ぶような信心を持っているはずがなく、友人と会って夜の屋台を冷やかすくらいのイベントごとになっていたのは自覚している。
きちんと毎年お詣りに言っている独身男性に申し訳ない事を思いつつ「寧ろ彼女が居た頃の方が大事にしていたイベントだな」なんて思ってしまう。そのくらいには、鷹羽にとっては割とどうでもいいというか、神社と言う場所は意識の遠い場所だったのだ。
そんな鷹羽にご利益を与えてくれるのだろうか、なんて思いつつ十回目の深呼吸を終えて、促されるままにボトルの底に少しだけ残っていた水を飲み干す。
その頃にはさっきまでパニック状態だった頭はすっかり落ち着いて、はぁーと無意識に長い溜息が出てくるくらいには元の自分に戻っているような気がした。
「終わったぁ」
「よく出来ました。では、このエレベーターの中で変わった事ってあります?」
「エレベーターの中?」
はい、と頷いたマスターは、いつもの薄めの営業スマイルだ。そんなマスターをジロジロと見てからエレベーターの中を見回して、鷹羽は「あ」と声を上げて思わず後ろに仰け反ってしまう。
血の匂いがしない、とは、さっきから気付いていた事だ。作為的なまでに途中から意識の外に弾き飛ばされていた「血の匂い」。さっきまでは頭の中をぐちゃぐちゃにされてしまいそうなくらいに気持ちの悪かったそれが、今ではもうまったく感じられなくて、ジリジリとエレベーターの個室の奥に逃げながら床を見てまた「ひ」と小さく声が出る。
そこにあったのは、人間の肉体ではなかった。
さっきまであった女性の死体ではなく、半分に千切れた木の人形が鷹羽の足首を掴んだ状態で床に転がっているのだ。
いつから足を? というか、さっきまでは確かに人間だったのに?
混乱しながらも、自分が派手に動けばエレベーターがグラグラと揺れてしまうのでなんとか呼吸を保ちつつ壁に背を当てて耐える。
その様子に、鷹羽が今の自分の状態を把握したことに気付いたのかマスターはまた手をパンッと叩くと再び鷹羽の意識を自分の方に向けた。
「さっきから、そこに倒れていたのはその木の人形ですよ」
「……え」
「鷹羽さんには人間に視えていたようなので落ち着かせたんですが、やっぱり冷静になるとちゃんと視えるものですね」
「これ……この、これ、なんなんです」
「呪い人形、ですね。
「性質が違う?」
「はい。なんというか……そうですね。これに触ると呪われるとかそういう類の奴ではなくて、コレ自体が呪いを発動させるためのアイテムというか……これは呪いを作った生贄の方で、本当に呪いたい相手は別に居るんじゃないでしょうか」
そんでもってこの名前が書かれている方のご遺体はこの近くのどこかにあるのかも。
なんてしれっと、サラッと言われたものだから、鷹羽は無意識に木の人形に掴まれている足をブンブンと振って必死になって人形の指を足から引き剥がした。