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第31話 合流

 ゴォン、と、何かを殴る音が聞こえる。

 その音を聞いて、マスターはふと顔を上げた。ようやくか、と思う。時計を見てみれば時間の経過にして大体5分ほどか。動かなくなったエレベーターの中で過ごすには短いようで長い時間だ。

 この両手を広げればどちらの手も壁についてしまうくらいの狭いエレベーターの中では、その圧迫感で短いはずの時間も長く感じてしまうもの。実際ちょっと閉所が苦手なマスターにとってはそこそこの苦行だったので、しゃがみこんでいた足をようやっと伸ばして少しだけ腰を回す。

 不安定なエレベーターの中ではその動きだけでグラグラと足元がゆらついて、トレーに乗せたままだったアメリカンすぎるコーヒーが少しだけ、エレベーターの床に散った。

 本来は平行であるはずのエレベーターの床に散ったコーヒーは、そのままツツツと一方向に向けて流れていく。

「おや」

 その不可思議な流れに気付いたマスターは、水量の少なさのせいで途中で止まってしまったコーヒーをしげしげと眺めてからおもむろにカップをひとつひっくり返して床を汚す。

 高い所から落とされたせいでびちゃびちゃとあちこちに飛び散りながらエレベーターの中を汚したコーヒーは、広がった分だけ薄まって黒よりも赤っぽい茶色に見えてくる。

 茶色い飛沫は当然ながらマスターの靴にも飛んだけれど些細なことだ。どうせ履き倒した革靴だし、いい加減手入れも面倒になっていたのでもう諦める事として、マスターは視線だけでコーヒーの流れを追った。

 壁に、床の広い面積にと飛び散った液体は、そのどれもが同じ方向へ流れ出していた。吸い取られているように、というのは少し違うけれど、まるでこのエレベーターがそちら側に傾いているかのように流れが出来ているのだ。

 マスターはこの狭い箱の中を出来るだけ揺らさないように歩きながら、コーヒーの流れていく先をじっくりと見る。

 その先というのは、所謂いわゆる電気盤の前、だ。かつてはエレベーターの操縦を担ってくれる女性たちが守っていた数字盤の真っ直ぐ下の溝とも言えない溝に、コーヒーは流れ込んでいっている。

 ほんの1ミリも開いていない隙間にコーヒーが流れていく光景というのは、もういっそ不思議という他ない。しかもコーヒーが飲み込まれていっているのは、横幅で言えばマスターの持っていたトレーとそう違いのないくらいの広さのうちのほんの一部分だ。

 横幅で言えば、親指を横に倒した1本分もあるかないかくらいの、微妙な幅。そこだけに、コーヒーは吸い込まれていく。

「はー……なんとも巧妙だこと」

 巧妙? こういうのは巧妙と言うのだろうか?

 自分で声に出しておいてイマイチしっくりこないまま、マスターは足元からすっかり消えたコーヒーにちょっとだけ苦笑いをしてしまう。

 エレベーターの中に立っている分には斜めになっている感覚も何もなく、足の裏は平面についている。だが、さっきこぼしたコーヒーはすっかりと溝に飲み込まれ残っているのは壁に付着している幾ばくかの飛沫だけだ。

 それになんとも嫌な心地になりながら、マスターは盆を除けてコーヒーを飲み込んだ溝の前に座り込んで口の横で両手を筒状にまとめた。


「あのー、この先に鷹羽さんとか居ますー?」


 もしここに誰かが居れば「何をしているんだ?」と言われるのは間違いがないだろうが、マスターとしては極々真剣な表情で声をかける。それから、今度は手を耳の後ろにやって返答を待った。

 返答は果たして「聞こえる声」か「聞こえない声」か。そのどちらかかは今のところは分からないが、ポケットから取り出した栞はまだ三割ほど元の色が残っているので大丈夫なはずだ。

 それにこの栞もまた、風もないのにヒラヒラと泳いでいる。その様は、まるで助けを求める誰かが必死に手を振っているかのようで。

『マ、マスター?! マスターですか!?』

「あはは、見つけた」

『待って下さい、どこに居るんです!? 頭の中!? 幻聴かっ!?』

「落ち着いて下さい鷹羽さん。もしもエレベーターのボタンの前に立ってるならそこからどいてもらえますか? ちょうど反対側の角まで逃げてもらえるとこちらとしては助かります」

『は? え、はい?』

「10秒後にやるんで、逃げておいて下さいねぇ」

 声だけはにこやかに言いながら、マスターはすっくと立ち上がるとトレーの横に置いていたエコバッグの中からジッポーを取り出す。別にマスターはタバコを嗜むわけではないのだけれど、なんとなくジッポーで火を点けた時のオイルの残り香が好きで仏壇の蝋燭に火を付ける時なんかはジッポーを愛用していた。

 これをこんなことに使うとは思わなかったが、人生何があるか分からないものだ。

「いきまーす」

 あくまでも声だけはにこやかに、エコバッグを肩に下げながら躊躇なく栞に火を点けてそのまま電子盤の下の隙間に火の点いたそれを押し込む。

 薄い栞はまるで飲み込むようにスルリと隙間に入り込み、コーヒーで濡れているはずなのに少しも汚れる事無く姿を消す。

 次に聞こえてきたのは、鷹羽の「うぉぉおぉ火ぃいぃ!」という意外にも男らしい驚愕の声だった。

 境界線が焼き切れる感触がする。さっきまで栞を持っていた指先にピリリと走った痛みに目をやると、何か小さな刃物か紙で切ったような細くて小さなキズがいくつもついている。

 グッと指先を押すように力を入れればプクリと血が膨れ上がり、指先から滑って落ちていく。

 痛いのは嫌いなんだけどなぁ、なんて思いつつその血もまた隙間に流れていくのを確認してから、マスターは数回わざとらしく力を入れて瞼を開閉させた。

 一回、二回、三回。

 意識して瞬きをすると瞼の開閉は変に遅くって、普段はどうやって瞬きをしていたのかちょっとだけ分からなくなってしまう。

 しかしまた数回瞼を開き、閉じると、鼻先にさっきよりも濃厚な血の匂いが漂ってきてちょっとばかり瞼を開くのに躊躇してしまう。それでもまぁ、また「ぅおおおおおなんでぇ!?」とか叫んでいる声はするので、渋々と立ち上がりながら目を開けた。

「これはまた派手にやりましたね」

「殺してない! オレじゃないんです信じて下さい!」

「誰もが最初はそう言うんですよ、鷹羽さん……」

「本当なんですってば!!」

 はいはい、なんて久しぶりに顔を見た気がする鷹羽をいなしつつ、マスターは足元に転がっている木の人形に視線を落とした。

 【殺してない】。さっきからの状況の変化に混乱している鷹羽は間違いなくそう言ったのだけれど、つまりは鷹羽にはこれが「殺せる」存在に見えている、という事だろうか。

 山内理絵、と書かれている木の人形。これが「木の人形」ではない存在に見えているのだとしたら、それはまず間違いなく人間……だろう。

 やはり自分と鷹羽ではモノの見え方が違っているようだと、マスターは顎に手を当てた。狭いエレベーターの中に成人の男が二人揃っていれば当然狭いけれど、このエレベーターは動く気配がない。

 この人形のせいだろうか?

 エコバッグを床に置いて人形を見ようとすると、床につく直前でエコバッグをさらった鷹羽がマスターの肩を掴んでグルリと身体の方向も変えさせた。まるで「見るな」とでも言いたげなその行動に、ちょっとだけ目を丸くしてしまう。

「だめ、です……マスター……」

「えぇと……そちらは?」


「山内理絵さん……別の部署の、同期だった女性です」


 やはり人間に見えているのか。エレベーターの壁と向かい合うよう両肩を鷹羽に掴まれたまま、マスターはまた顎に手を当てる。

 山内理絵。あの木の人形に書かれているそのままの名前だ。

 鷹羽の「殺した」という言葉と、「山内理絵」というここには居ないはずの女性の死体。

 はてこれは少々厄介な事になっているかもしれないと、マスターは唇をちょっとだけ突き出した。

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