どくん、どくんと、腕の中の血管が動き回っているかのようで、キクは犬飼と繋いでいた手を離すとぎゅうと己の腕を強く握りしめた。
皮膚の裏側を何かが走り回っているような、這いずり回っているような、感覚。それなのに腕には何の変化もなくて、ただブスブスとまるで燃えているかのように黒い何かが立ち昇っている。
さっき、木の人形に打ち付けた方の腕だ。さっき犬飼と手を繋いでいる時にはなんともなかったのに、今はただただ痛くて、重くて、苦しい。
やっぱりあの人形はよくないものだったんだ。
確信が少し嬉しいのと、苦しいのとで頭がクラクラしてくる。早く動かなければいけないと理解はしているのに、動く事が出来ない。
犬飼が心配そうにコチラを見て名前を呼んでいるが、それに応じることも出来ない。いつの間にか「キク」ではなく本名で呼んできているけれど、それを怒る事だって。
寒い。腕から血が抜けているような感覚がして、指先から徐々に熱が抜けていく気がする。気持ちが悪くて今にも嘔吐してしまいそうだったけれど、何度も何度も生唾を飲み込んで何とか吐くのは我慢した。
早く逃げなければ。
早く、マスターたちに連絡をつけなければ。
そう思うのに、身体が動かない。膝がカクンと落ちてついに固い廊下に両膝をついてしまったけれど、膝への痛みは驚くほどなかった。ただ、廊下についてしまった指先が、微かに擦れた爪の先が、まるで貼り付いたように動かなくなる。
何かが抜けている。ここから、吸い上げられている。
それがわかるのに。
わかって、いるのに。
「おい! しっかりしろ、く――」
「キク」
「おっ、あ、っと、キク! 大丈夫なのかっ」
「大丈夫に見える……? ていうか、なんか、指先がはりついたみたいに、うごけない……」
「なっ……」
「さわるなっ」
思わず、だろうか。キクの腕を掴もうとした犬飼の手を、何とか動く方の手で叩き落とす。
多分これは触られてはいけないものだ。多分、わからないけれど、彼に触れられればもっと悪い事になるだろうと、ガンガンと痛みだす頭の中で警鐘が鳴り響いている。
貼り付いたみたいに動かせない手は、いつの間にか爪の先だけじゃなく手のひらが床についてしまってまるで片手で床を押しているかのように力が入って、重い。
この腕から立ち昇っている煙のせいか床も段々煤が落ちていくように黒くなっていっているし、こんなものを犬飼に触らせるわけにはいかないと、何度も差し出される手を叩き落とした。
これは犬飼が触ってはいけないものだ。
これが自分が背負うものだと、犬飼を睨みつけながら心の中で叫ぶ。
本当はキクは、あの女子生徒の事を知っていた。彼女が犬飼に向ける、熱くて重い感情にだって、気付いていた。
中学校の頃は犬飼との接触はほとんどなかったから、犬飼のような男も熱烈にアピールしているあぁいう女の子と付き合うのだろうなと、なんとなく思っていた程度のものだった。
けれど高校に上がって、高校も同じで、進学クラスは人数が少ないからそこでも同じクラスになって、まるでハジメマシテのように自己紹介をした。その時に、あぁ彼の中では自分は過去の存在だったのだと知って、キクもそういう風に振る舞う事に決めた。
幼い頃のほんの僅かな優しい時間。
けれど優しさに包まれて育った犬飼にとっては当たり前の日常の一部で、特筆して記憶しておくべき内容でもなかったんだとわかったから、あの頃の記憶はもう思い出さないようにした。
なのにあの女子は――たしか、そう。山内由美という名前の彼女は、どうしてかキクと犬飼に距離を取らせたがった。
そんなことを言われたってキクは別に自分から犬飼に近寄ってなんかいないし、犬飼だって過去の事を覚えていない以上はただの進学クラスの同級生という扱いだろうと、キクは判断をしていた。
進学クラスでもない山内由美がそんなことを気にしているのも、犬飼本人が忘れている過去の交友関係を知っているのも気持ちが悪くって出来るだけ犬飼を避けようとさえ思っていた、のに。
なのに、今何故か彼は幼い頃に呼んでいた過去のあだ名を呼んで、まるでキクを守ろうとするかのように動いている。
あの黒猫茶屋にだって、きっとキクだけであれば足を運びなんかしなかっただろう。どうでもよかったし、死ぬのならばそれはそれでいいと思っていたから、誰かに救いを求めるなんて無駄だと知っていたから、行動を起こそうなんて思わなかったはずだ。
なのに犬飼が勝手に近付いてくるから。
すっかり忘れていたくせにいきなり思い出して手を差し伸べてくるから、勘違いをしそうになってしまった。いや、勘違いをしてしまったのかもしれない。
彼の腕でまた、守ってもらえるのじゃないかと、甘えが出てしまったのかもしれない。
だからこんな馬鹿みたいな事になって、しまっているのかも。
全部自分が悪い。もしこれでマスターや鷹羽に何かが起きていたら、それは全てこの手の呪いを受けたキクのせいだ。
広めなければよかった。【黒い部屋】なんて気にしないで、犠牲が出るなら自分一人だけに留めておけばよかったのに。
本当に、馬鹿だった。
「……行って。それで、マスターに、学校の事を報告して」
「お前を置いていけっていうのか!?」
「外の人形にはマスターに渡された紙を貼っておいたから! それだけでもきっと何か違うはず!」
「馬鹿言うな! こんな所に置いていけるかよっ!」
「置いて行けよ! お前には何も関係ないじゃんか!」
「今更関係ないわけないだろ!!」
馬鹿みたいだ。本当に馬鹿だ。
今更関係ないわけ無いなんて、犬飼の言う通りだ。巻き込んで、何日も部活を休ませて――もうすぐ大会だとかなんとか言っていたのに、大事な合宿だってある夏休みなのに、なのに、彼を巻き込んだ。
引き返せない所まで、彼を引き摺り込んでしまった。
ほんの少し、甘えたばかりに。
「行って……! お前がここに居ても、何も出来ないから!」
「……っ!」
残酷な言葉だと、自分でも思う。助けてくれようとしている人相手に言う言葉ではないとも、ちゃんとわかっている。
でもここで突き放さなければ、犬飼はずっとここにとどまってしまうだろう。じわじわと周囲に広まり始めている黒色は明らかにいけないもので、きっとこれが広まりきってしまえばキクたちは戻れなくなる。
自分たちの方が「呪いの根幹」だと、マスターは言った。だから、こちらがどうにかなればきっと鷹羽も大丈夫だと。
彼の言葉にはきっと間違いはなかったのだ。間違えたのは、彼の言っていた言葉を、「呪いは人間がかけるもの」という言葉を軽視していた自分の方。
山内由美が呪いの根源であるかどうかは分からないが、きっと彼女はそれに近い感情を持っているはずだ。それにもっと早く気付いていれば、きっと彼女へのアプローチも違っただろうに。
「キク、僕は――!!」
ケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャ
犬飼の声を打ち消すように、甲高い、固いものを擦り合わせるような音が耳から脳へと突き刺さった。
反射的に振り返れば、まだ明るさの残っている廊下の向こうに人影のようなものがある。人影の、ようなもの。それは決して、人間の影ではない。
まるでデッサン人形のような形をしたソレは、ギクシャクと動きながら時折「ケキャッ」と変な音をたてる。それが笑い声のようで、不気味で、キクは犬飼を見た。
「逃げろっ!」
「逃げない!!」
「馬鹿かよ! 意地を張ってる場面じゃないだろっ!」
「絶対に嫌だ! 僕は――決めたんだっ!」
馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、本当に馬鹿だったのかもしれない。何を決めたのだかは分からないが、泣きそうな顔で叫んでいる犬飼は容赦なくキクの腕を掴んだ。
床に貼り付いている、黒い腕の方だ。
振り払おうにも腕は動かなくって、引っ張られると関節がおかしな方向に曲がって、痛い。
逃げろよ、逃げてくれよ、逃げて、ねぇお願いだから。
何度お願いしても、犬飼は頷いてくれない。同じように廊下に膝をついて、向こうから来ている木の人形を睨みつけながらキクの肩に腕を回して、抱き寄せた。
両親にすら抱かれたことがないのに、まさかこんな所で同い年の男に抱かれるとは。羞恥と困惑で頭が破裂しそうになって、今更に自分は汗臭くないだろうかなんてこんな場面で考えるべきでないことを考えてしまう。
逃げて欲しいのに、腕を離してほしくもない。相反する己の感情が情けなくて、涙が出そうになった。
嫌だ、嫌だ、どうすればいい、誰か、誰か、
にゃあぁぁん……
猫の声が、どこからともなく聞こえてくる。パニックになっていた頭が一瞬だけ落ち着いて、甲高い音をさせてコチラに近付いてきている木の人形の気配が少しだけ近くになっている事にまた少し、焦る。
だが、その甲高い音をポケットに入れていた携帯の着信音がほんの僅かに薄めるように、かき乱した。