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第28話 黒色

 窓の外は真っ黒で、しかしその性質は夜間のそれとはまるで違う。

 本当にただ「真っ黒」な世界にあるのは、真っ赤な木だけだった。最初はただ薄暗くなっただけかと思ったその光景はどんどんと違和感の塊になり、今では完全に【現実の世界】ではないものになってしまっていた。

 廊下はまだ無事だ。校舎の中だけはまだ神聖なものであるかのように守られていて、壁も廊下も異変はない。

 これは一体どういう現象なのか、犬飼はまだ混乱のさなかにありながらもキクと手を繋いで職員室に急いでいた。自分たちの携帯は見たが、電波がない。でも、公衆電話や職員室の電話回線が生きていれば外に連絡をつける事が出来るかもしれないと、ただそれだけを信じて走っていた。

 公衆電話だとか、家電だとか、犬飼たちにはもう馴染みのないものだ。数年前までは家電は各家庭に一つは必須だったと聞いたことがあるが、携帯が普及した今では事業をしている家以外ではあまり見る事がない。

 だから犬飼は正直に言えば、ケーブルのつながっている電話機というのがどこまで信用出来るのかが分からない。そもそも携帯だって電話機能を使う事はあまりなくて、主に使うのは無料通話アプリばかり。

 でも、携帯が使えないのだったらそれを信じるしかないと、そう思っているだけだ。

「別の出口ってあったっけ。裏から出られるような」

「さっきのあそこが裏じゃん……?」

「あぁそっか……じゃあ、あの音がしてるトコとは違う出口?」

「えぇと……自販機のある廊下の奥の体育館につながってる廊下?」

「あぁそっか。あそこならいけるか」

 それでも、万一の事を考えて脱出路は模索する。

 いくつかある体育館につながっている廊下は、どこも外通路だ。一応腰の高さくらいまでの壁はあるけれど中庭にも出られるし、壁を飛び越えれば外にだって出られる。

 今までそこを使って外に出ようと思った事はないけれど、逃げようとするのなら脱出ルートはいくつ模索していたっていい。

 だがやはりネックになるのは、犬飼たちが「逃げる」を主目的として校舎を歩いたことがない、という事だ。ただの学生なのだから当たり前だが、普通に学生生活を送る以外の目的と目線で校舎を見ていた事がないので、どこが「脱出」に向いているかがわからない。

 外に出る道ならわかるけれど、その先の「脱出」まで行くと首を傾げてしまうのは仕方がなかった。

 だって、外に出るだけならば道はいくらでもある。けれど、外に出てそこかプールに出るだけの道であったり、外には出られるが高い塀に囲まれたゴミ捨て場に出るだけだったりする道もある。

 安全に逃げるにはどこから出ればいいのかは、実際にそこまで行ってみないとわからないのだ。

「あった! 職員室っ」

「中は変になってなくてよかった……」

「キク、公衆電話使えるか?」

「や、やってみる」

 公衆電話は、万が一のときのためにと設置されているものだ。元々は携帯を持たない生徒のために設置されたものだったがやがて不要論が出た時に大きな震災があり、そのままになっているもの。

 当然だが、携帯を持つことを許されるようになった世代の犬飼たちがそれを使う事はなく、公衆電話に使うテレホンカードは持っていた事もない。こういう状況に陥ってみると携帯の電波とは脆弱なもので頼りになるのは有線電話だと思い知らされるが、実際に使い方が分からなければどうしようもないのもまた現実だ。

 犬飼は廊下にある公衆電話をキクに任せると、自分は職員室の中に入ってデスクの上の電話機を手に取った。

 内線、外線と書かれているソレが何を意味するのかも分からなかったが、とりあえず外を示しているのだろう「外線」を押してから受話器を耳に当てる。

 プツプツという音がしばらく続いてから、受話器から聞こえる音は沈黙してしまった。

 これは失敗をしてしまったかと一度受話器を戻して、今度は何も押さずに受話器を耳に当てる。今度もまた、プツプツという音がしたかと思えば受話器からは何も音がしなくなってしまって、犬飼はまた乱暴に受話器を戻した。

 これは駄目なのかもしれない。そう思いながらも、最後に「内線」のボタンを押してから受話器を耳に当てる。

 今度は、プツプツという音の後にプープーという電子音が聞こえてきて、犬飼はハッとして黒猫茶屋の電話番号を押そうと数字盤に視線を落とした。

 次に音が変化したのは、0を押下した時だった。

 プッ、という数字を押す時にする電子音がしたかと思えば次の数字を押す前に受話器から聞こえてくる音が消え、プルルル、とどこかに電話をかけている時のような、あの音がする。

 0番で一体どこに繋がるのだろうか。

 これが正解なのか失敗なのかもわからない犬飼は、しばらくそのまま音を聞くしかない。自分たち以外の誰かがその音に気づいてくれればラッキーだ。

 ややして、再び受話器の向こうでプツッと音がした。

「も、もしもし!」

 それはさっきまでとは違う、受話器の中で完結していた世界が別のどこかにつながった時の音だ。どこで誰につながっているのかも分からないそれに一縷の望みをかけて声をあげた犬飼は、しかしまたすぐに口を閉じる。

 音が聞こえる。電子音じゃない、音だ。聞いたことのない、甲高い音。


ケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャミツケタケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャ


 ガシャンっと受話器を叩きつけたのは正解だったのか、分からない。分からないが、犬飼は甲高い音を最後まで聞く事もなく受話器を叩きつけるとデスクに置いていた黒猫茶屋の電話番号を表示させている自分の携帯を掴んで廊下に飛び出していた。

「キク! 行くぞっ!」

「え、な、なに?」

「いいから! 急げっ!」 

 公衆電話に向き合って何かを悩んでいたのか顎に手を当てていたキクの手を再び掴んで、反動で落ちた公衆電話の受話器もそのままに職員室から離れる。

 その受話器からも甲高い音がして、犬飼は奥歯をぎゅうと噛みしめる。

 甲高い音の間に、声がした。絶対に聞きたくなかった類の、気色の悪い声だ。

 幸いにしてキクはその声を聞いてはいないようだし、なんなら甲高い音すらも聞いていないようだけれど、それでいい。聞いてなくてよかったと心から思ってしまうような声。

 一体それが何を意味しているのかが、わからない。一体何が、自分たちを見ているのだろうか。

 どこに逃げれば、いいのだろうか。

「外! 外に行こう! ここから離れるんだっ」

「ど、どこから?」

「どっか……どこでもいい! さっきの昇降口の、別のとこ! 遠いとこっ!」

 自分がパニックに陥っている自覚はある。でも、分からない事だらけで、不愉快な事だらけで。

 分かっている事は今繋いでいる手を離してはいけないという事と、頼れるのはマスターと鷹羽の二人だけだという事、だけ。

 二人に何とか連絡をつけなければ。

 ここから逃げて、あの甲高い音から逃げなければ。

 キクを、守らなければ。

 そう思うのに、ただ外に逃げるという選択肢以外のものが出てこなくって頭の中がぐるぐるする。


「うっ」


 ぐるぐる、ぐるぐる。

 頭だけでなく何故か腹まで苦しくなってきた時、不意に繋いでいる手に強い力がこもってキクの足が止まったのがわかった。一瞬後ろにぐいっと引っ張られるような反動があって、転ばないように慌てて足を踏ん張って振り返る。

「キク――」

 どうした、と、聞こうとしたのに、聞かなければいけないのに、それ以上の声が出なかった。

 繋がれた手は、そのままだ。指先から肘まで薄っすらと黒くなっている、煤でも握ったかのような手。

 しかしその場に座り込んでしまっているキクの反対の手は、繋いでいない方の手は、まるで腕から肩までが燃え上がっているかのように黒い煙のようなものが包みこんで歪んで見えた。

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