あ、と、思う。
足元にじわじわと広がっていく血が、どす黒いそれが、徐々に記憶を覚醒させていくように脳に理解が染み渡った。
山内理絵。なんで忘れていたんだろうか。数少ない鷹羽の同期入社で、何度か歓迎会や新年会なんかで見たことがある人だ。
鷹羽の部署は過去のコンテストの記録なんかも必要になる事が多かったのでまだ下っ端の鷹羽も他の部署にもよく顔を出していて、山内はそのたびに資料を探してくれる人だった。
確か高校生の妹が居て、反抗期だからか高校で悪い友人を作ってしまったのか酷く反発してくるのが最近の悩みだと納涼会で言っていたような気がする。
その納涼会だって、つい先日の事だ。いくらなんでも、彼女のことを忘れるなんて無理筋すぎる。
そうだ、そうだ。なんで忘れていたんだろう。なんで気付かなかったんだろう。
じわじわと、赤い血がエレベーターの床に広がっていく。
ゴトゴトと、エレベーターの扉が動くたびに半分になった身体がまるで生きているようにビクビクと跳ねて血を撒き散らした。
なのに、生臭い匂いはしない。流れ出ているのもドロドロとしたそれで、血液よりももっと重い、溶かしたばかりの絵の具のような、油絵で使うオイルたっぷりの絵の具のような、そんな非現実的な感じがした。
だというのにその顔面にはハッキリと名前が刻まれていて、最初は黒いペンのようなもので書かれていたと思った「山内理絵」という文字からもじわじわと血が滲み出して山内の顔を汚していった。
目を見開いている山内は、完全に生きていない事がわかる顔をしていた。それはそうだろう。身体は半分になっているのだ。もし万が一生きていたとしてもそう長くは生きてはいられないだろう。
でも、でも、なんでだ?
血がじわじわと床を侵食してくるせいで座り込む事も出来ずに、鷹羽は震えながら口元をおさえる。吐き気がした。血の匂いがしないのがせめてもの救いだが、それでも上半身だけの人間の肉体だ。恐怖と気持ち悪さが同時にやってくる。
何度か生唾を飲み込んで、鷹羽は恐る恐るに山内の身体を覗き込んだ。
さっきまで鷹羽は、彼女の事を木の人形だと思い込んでいた。間違いなくそう
なのに今は、身体が切断されてしまった後には、もうこの身体は人形には
それに、彼女が木の人形だった時には鷹羽は山内理絵をすっかり忘れてしまっていた。彼女の存在は知っているはずなのに、どうしたことかすっかり忘れて名前を見てもピンとこなかったのだ。
まるで鷹羽の中から山内が抜け落ちてしまったかのように、「山内理絵」を認識する事が出来なかった。
だから、もしかしたらこの身体は偽物で、なんらかの幻覚作用でもある何かが居るのではないかと、鷹羽は訝しんだ。流石に、木の人形に見えるような錯覚を与えると同時に一人の人間の記憶だけを消し去るような都市伝説は、鷹羽は知らない。
マスターの話よくしてくれる【認知】と【認識】の話しを引っ張ってくるのだとしたら、鷹羽は「木の人形が追いかけてきている」と認識する事は出来たけれど、「木の人形は山内理絵である」と認知出来なかった、という事になる。
なんでだ。なんでそんな事が起こっている?
床に尻をつけないようにその場にしゃがみこんで、重ねた手の隙間に息を吹きかけるようにため息を吐きながら鷹羽は頭に冷静さを取り戻させようとした。
エレベーターはまだ止まらない。全ての階層のボタンにランプはついているというのに、動き続ける。
落ち着け。落ち着いて考えろ。
マスターなら。彼ならどうする。
最近友人になったばかりの、しかし多分編集部や既知の友人たちの中でも一番信頼しているだろう彼のことを必死にイメージして考えてみる。
彼は常に冷静だった。冷静に情報を聞き出して、知っている事象と照らし合わせて話してくれた。
それは、彼に「普通ではない経験」が沢山あるからなのだろうか? あの裏口の古書店にあった沢山の本。あの本の中には、彼が経験してきた「普通ではない経験」が沢山記録されているのだろうか?
どうでもいいことを考えて、ふと気付く。
「……なんでオレ、さっきの廊下が黒い部屋だって、思ったんだろう」
声に出して考えてみると、途端に気味が悪くなる。
さっきまでの黒い廊下は、確かに噂に聞く【黒い部屋】と合致する部分が多かった。真っ黒な壁。血管のような明滅する赤いライン。照明がついているはずなのに薄暗い廊下。
そのどれもが話しに聞いていた【黒い部屋】の特徴にピッタリで、それに、いまの状況からしてきっとそうなのだろうと鷹羽は疑いもしていなかった。
でも、冷静に考えてみればここは別に【黒い部屋】だと断定されたわけではない。誰もそんなことを言っていないし、ただ鷹羽がそう決めつけただけだ。
もしも、もしもここが【黒い部屋】じゃなかったとしたら、どうする?
鷹羽は急いで尻のポケットに押し込んだままだった携帯を取り出して、直近に撮影した画像を開いた。
エレベーターに乗る前にマスターに送った最新の【あらすじ】の写真。もう一度読んで、もう一度きちんと頭の中に入れておいて、いざという時にきちんと思い返せるようにしておかないと。
そう思った、のに。
「……ハッ」
鷹羽は、笑い声のような、嘲りの声のような、ため息のような声を漏らした。
【黒き部屋は飲み込んでいく。希望、願望、愛情、友情、その全てを飲み込んで、咀嚼して、己の栄養にしてしまうのだ。それを知らない者たちはほんの戯れのように扉に触れ、部屋を呼ぶ。嫌いだからと、憎いからだと、愛しいからだと、欲しいからだと叫びながら扉を開いた者は、やがて黒く染まるだろう。では、そうではないものは一体どうなってしまうのか――それはまだ、誰も知らない。】
携帯の中の写真は、【あらすじ】は、知らぬ間に更新されていた。
もう一度頭に入れようと思ったさっきまでの【あらすじ】は、間違いなくこんな文章じゃなかった。似ているけれどまるで違う文章は、きっと状況が変化したから更新されたのだろう。
更新された文章。それはつまり、鷹羽か、マスターか、キクと犬飼か、その誰かがさっきまでの【あらすじ】の道筋に乗ってしまったからなのじゃないかと鷹羽は思っていた。
自分なのかどうかは分からない。でも正直に言えば、自分であればいいと思っている。
マスターは大人だが、キクたちはまだ高校生だ。それも、つい最近までは中学生だったような、数ヶ月前に高校生になったばかりの幼い子供。
そんな子供に、こんなグロテスクなものを見せたくない。
はぁ、とまたため息を吐く。思わぬタイミングだったが、気付けてよかった。さっきと違うものを見つけられてよかった。
それはきっと大きなヒントになるはずだ。きっと、気付く事が出来たなら。
「…………は?」
気付くことが、出来たなら。
頭の中で何度も同じ言葉を反芻して、エレベーターの天井を見て、鷹羽は凄い勢いで立ち上がって血を踏まないようにしながらエレベーターのドアを殴る。
エレベーターの中は、山内の赤い血以外は綺麗なもので、普段の編集部のエレベーターとまるで違いがない。いつも通りすぎて、逆に不自然なくらいだった。
そう、不自然だったのだ。
だってさっき、本当についさっき、鷹羽があの黒い廊下に到着した瞬間から【エレベーターはカビが生えていくように徐々に黒と血管に侵食されていた】じゃないか!
「開けろ! ここから出せ!!」
ガンッ、ともう一度扉を殴って、声を張り上げる。
衝撃で足元の山内の上半身が跳ね、ごろりと少しだけ動いた。血がほんの少しだけ溢れて、さらに床に赤を広げていく。
それでも、もう一度扉を殴る。エレベーターは止まらない。
階層を示すランプは、いつの間にか全てライトが消えていた。