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第26話 木片

 鷹羽は昔から、全速力で走るのが苦手だった。

 自分の一番速い走りというのを理解していなかったというのもあるけれど、どのくらいの速度をどのくらいの時間維持しなければいけないのかが分からなくって、結局ただの50メートル走でも胃がひっくり返ってしまいそうになったものだ。

 その分長距離走は得意で、周囲の風景が移り変わるようなマラソンであればどのくらいでも走れるような気がしたものだった。そのおかげで、学校の校庭をぐるぐる走るのは苦手だったけれどマラソン大会なんかではそこそこいい成績をおさめていたような気がする。

 だがそれはやはり高校生までの記憶というもので、20を過ぎるとあれだけ軽かった身体も何故か段々と重く感じてくるものだ。鷹羽は必死に足を動かしながらまったく変わらない景色の中を全速力で走り続りつつ、そんなことを思っていた。

 こんな時に頭を働かせるのは酸素の無駄だ。わかっているのに、頭の中はぐるぐると思考を続ける。

 周囲の風景は、まったく変わらない。同じ廊下を真っ直ぐ進んでいるだけだというのにその廊下に途切れがないかのように永遠に同じ廊下が続いていて、仕方なく途中で道を折れてもやはりその先は永遠に同じ真っ直ぐな道だ。

 なのに、戻ったらすぐにエレベーターホールに戻る。これもさっきまでと同じ。

 なんで。一瞬足を止めて、自販機を睨みつけて販売物が変わっていないのを確認してまた走る。背後から聞こえてくる硬質なもので床を殴るような音は、相変わらず聞こえてきた。

 アレは一体なんなんだ?

 足元が不意にボコリと隆起し、それを跳んで回避しながらまた考える。

 山内理絵、と名前の書かれた、木の人形。それがあった、編集部にそっくりな部屋。アレは一体何なのだろうか?

 なんで自分を狙ってきているのだろうか?

 そもそもこの空間が何なのかも、鷹羽はハッキリと分かっていない。もしもここが噂の「黒い部屋」の中なのだとしたら随分と広大じゃあないかと舌打ちが出てしまう。

 それに、自分で扉を開かなくてもエレベーターが勝手に扉を開いてしまうだなんて、ズルにも程がある。そんなもの、回避しようがないじゃないか。

 そこまで考えて、鷹羽はふと走る速度を緩めた。途端に喉が張り付いたような乾きと痛みが襲ってくるが、今のところさっきの木の人形はすぐに追いついてくる様子はない、気がするのでほんのちょっとだけ、呼吸が出来る程度だけに足を緩める。

 振り返れば、そこにあるのはエレベーターホールとさっき木の人形が破壊したのだろう編集部の扉があるだけだ。あの木の人形の姿はどこにもない。

 あの不気味な音をさせて追いかけてこようとしていたというのに、何故その姿が見えないのだろう?

 今度こそ脚を止めて、肩で息をしながら考える。

 そして、再び足を動かした。今度は、エレベーターに向けて、だ。

 エレベーターはいつまでもそこにあり、未だにぱっくりと口を開いたまま明るく廊下を照らしている。そこだけが明るい世界であるかのようで、エレベーターの中まではこの廊下の「黒さ」はまだ侵食していないようだった。

 真っ暗に塗りつぶしたような壁や天井と、それに張り付いている明滅する血管のようなもの。それらがないだけで、エレベーターの中はとても明るく感じられて――戻らないなんていう選択肢をとろうとしていた自分が、なにかに引っ張られていたのではないかと、思ってしまった。

 転げるようにエレベーターに飛び込んで、ドアの閉じるボタンを押す。ホラー映画の中なんかでは閉じるボタンを何度も何度も連打して必死に「閉じろ!」なんて言うシーンがあったりするが、そんなの無駄じゃないかと思っていたものだった。それでも、実際に自分がそういう場面に遭遇すると同じことをしてしまうなんて、滑稽だ。


ケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャケキャ


 あの音がどこからともなく響いてきて、閉じようとしているエレベーターの扉の隙間から天井に張り付いているあの木の人形を目視してしまった。

 天井にいた。完全に想定外のソレに、思わず鷹羽の口から「うわぁ!」と素直な悲鳴があがる。デッサン人形の顔面が口のように裂けているような、甲高い関節の音をさせる木の人形。

 そいつは、先程よりも鋭い音をさせながら天井や壁の黒い部分を踏み潰して、赤い何かを吹き出させながら凄い速度でエレベーターに近付いてきた。

 潰された黒い何かと、赤い何かが吹き出して人形をどろりと汚していく。

 その様が酷く不気味で、ボタンを何度も押しながら出来るだけ身体をエレベーターの奥へと逃がす。

 そうだ、階層ボタン。閉じていく扉を睨みつけながらも一瞬冷静になった頭で、上の階を拳で殴る。一個だけじゃなく、この階層よりも上の階を全部、手のひらでバンバンと叩きながら押した。

「早く閉じろよぉおぉ!」

 もう泣きそうで、呼吸がままならなくて、ギューとボタンを押しながらついに鷹羽が叫んだのと、木の人形のあの甲高い音がしなくなったのはどちらが先だったろう。

 細くなっていく扉の隙間に身体をねじ込もうとしたのか、ジャンプして一気に距離を詰めてきた木の人形は、しかし閉まった扉に阻止されて派手な音を立てて鉄の扉に挟まれた。胸部と右腕だけがエレベーターの中に入って、必死になって鷹羽を捕まえようとぐるぐるともがく。

 しかし指のないその手では鷹羽を捕まえる事が出来ず、エレベーターの端に逃げた鷹羽に攻撃をしようとしても、かすめるのはほんの髪の毛の先程度のものだった。

 ギヂ、ギヂ、と、扉が閉まる強さと、逃れようとする木の人形の間で妙な音がする。木片を潰そうとする音なんて聞いたことがないからそれが正確な音なのかも分からないが、しかしとにかく一瞬だけ阻止された木の人形の襲撃に、鷹羽はズルズルとエレベーターの奥へと身体を逃がす。

 通常エレベーターは、何かが挟まったら再びドアが開いて警告音が鳴ったりするものだ。だから、もしかしたら、こいつもまた動くかも。

 エレベーターの中の壁に背中を当てたまま座り込んで、震える。ドアが開かれた時が自分の死ぬ瞬間なのだと、鷹羽はぎゅうと目を閉じて覚悟した。

 しかし、エレベーターは動いた。

 ゴトン、と音を立てて、ギヂギヂと音をたてて動く木の人形を掴んだまま、上へ。

 ギギギギギギギギギ、と音が響き始めたのは、程なくだった。「あ」と口が開いて、その音が外に漏れないようにしたいのかは自分でもわからなかったが、両手で口を覆ってしまう。

 木の人形は、エレベーターと階層の間に挟まって上に上がるエレベーターの力と、その場に存在し続けるエレベーターの枠との間で凄まじい力で圧迫され始めていた。

 木の人形は、人間で言えばちょうど腰部を挟まれている形だ。上半身を何とかドアに滑り込ませたが、ドアが閉まる速度と腰の部分が抜ける広さが合わなくて挟まれた、不幸な事故。

 ベキベキと腰の接続部分が音を立てて、胸部に縦方向のヒビが入り、そこから赤黒い何かが溢れて床を汚す。

 恐ろしい光景だった。まるで人間が挟まれてしまっているかのようなその光景に、鷹羽の頭から徐々に血が落ちていくのが自分でもわかる。

 必死に腕を振り回して、逃げようと言うのか、せめても鷹羽に一矢を報いようというのか、木の人形がジタバタと動く。

 しかし、ややしてゴキッという音と激しい振動と共に、木の人形は動かなくなった。激しく揺れたエレベーターは何事もなく上昇を再開し、開かれていた扉は邪魔な木片を蹴飛ばしながら閉まっていく。


 動かなくなった木の人形が人間の女性に見えるようになったのは、ゆっくりとした瞬きの次に目を開いた時、だった。

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