痛みに呻く手を握って、犬飼はその場からとにかく遠ざかるために走った。何とかついてきたキクの腕からはさっきまでよりも濃いモヤが立ち昇っていて、それは犬飼と繋いでいる手にも巻き付こうとしていた。
「ちょっと!」
「まだ話終わってねぇんだけど!?」
あの女と取り巻きたちが声を張り上げているが、そんなものは無視だ。
いつの間にか校庭からは人の気配はなくなっていて、どうしてかそんな光景が不気味で嫌な感じがして、校舎に向かって走る。せめて普通の水でもいいからキクの腕を洗ってやりたくて、水場に行きたかったのもあった。
キクはさっきから犬飼と繋いだ手を離そうとしているが、犬飼はそれを離すつもりはない。
打った背中と、多分あの木の人形にぶつけた側の右腕は特に黒さが濃くなっていて、段々と顔の方にまで黒さが侵食し始めているのを見て背筋に怖気が走る。
これは絶対に手を離してはいけない。手を離したらまた後悔をしてしまうと、どうしてか犬飼は察していた。
「いぬ……かいっ……離して……」
「離さないっ」
「犬飼っ!」
「離さない! もうひとりにはしてやらないって、決めてんだっ!」
締め切っていなかったのか昇降口のドアは開いていて、中に駆け込んで鍵をかける。昇降口は両開きの扉が2面横並びになっているので、そのうちの両方の鍵をかけた。
これで、追いかけてきているアイツらも少しは牽制出来るだろう。後から来た生徒とか警備員が居たら叱られるかもしれないけれど、そんなものはどうでもいい。
どうしてか目を血走らせて怒鳴っていた奴らを止められるのであれば、それでいいのだ。
鍵をかけている犬飼を見て呆然としていたキクの手はわずかに震えていて、犬飼が再び手を取って走り出すと今度は抗わずに一緒についていく。
上履きにしている余裕なんかはないけれど、2人とも靴だけは脱いで持って上がった。
「あの人たち……」
「ごめん。ほんとごめん。嫌な思いさせた」
「いや、いいんだけど……なんかすごく、嫌な顔してる人だったなって」
「何でか知らないけどついて回ってて、鬱陶しいんだ」
「お前の事が好きだからじゃないの」
「だとしても、僕は嫌いだ」
ハッキリと拒絶した犬飼に、キクが目を丸くする。いつも気だるそうにしているキクがこんなに目を大きくさせるなんてそうあることではないので、何だか少しだけおかしかった。
こんな顔をしていると、なんだか幼い頃を思い出す。
まだ一緒にお風呂に入ったり、公園を駆け回ったり、プールに行っていた頃。保育園を出たらそれだってしなくなってしまったけれど、犬飼にとってその頃の思い出は特別なものだ。
幼かったとはいえ、あの時のキクよりも親しい人間は、未だに出来ていない。
友人というものへの憧憬なのか、それとも相手がキクだからなのか、あの頃の思い出は思い出すたびに胸が苦しくなってしまうくらいに大事なものだった。
それなのにどうして、高校に入るまで忘れてしまっていたんだろうか。
もし高校が同じじゃなかったら、クラスが同じじゃなかったら、自分たちはどうなっていたんだろう。
お互いの性質で言えば、きっとお互いのことを認識することも意識することもなく、ただのクラスメイトとして人生を終えていたかもしれない。そのくらいには犬飼は他人に対しては淡白で、興味がない人間だった。
きっと後にも先にも、今だけだ。
こんなに汗だくになって走り回って、不確かなもののために戦おうだなんて思えるのは。
「……そういうの、あんまり言うの、良くないと思う」
「うっ、それはそうだろうけど」
「……勘違いされるよ」
「勘違い?」
「なんでもない。そういえばアレ、さっきちゃんと貼――」
廊下を歩いて水道へ向かいながら歩いていると、少し後ろを歩いていたキクが不意にピタリと歩くのをやめた。
後方に思い切り引っ張られた腕に、どうしたのかとキクを振り返った犬飼はその形相を見てギクリと身体を震わせる。
酷い音が、聞こえた。まるでガラス戸を引っ掻いているような、全身でぶち当たっているような、そんな音だ。まさか、と思う。まさか、そんなはずはないだろう、と。
それでも、キクの手を握ったまま急いで階段に向かって走った。冷たい廊下は、どうしてか靴下しか履いていない足で走ると足が前に出しにくくて、なんとなく足の裏が床に張り付いてしまっているようにも感じる。上履きを履いている時にはそんな事は感じないのに、いつもそれが不思議だった。
「あの人達……ぶつかってるの?」
「だとしたら本格的に頭おかしいだろ!」
職員室だ、向かうならそこしかない。
2人とも同じことを考えていたのか、どうにも重く感じる足を引っ張り上げて段をひとつずつ上がる。職員室は二階にあって、犬飼たち1年のクラスは三階だ。
職員室ならきっと夏休み中でも誰か居るはずだし、誰も居なかったとしても携帯を忘れた人が使う公衆電話も職員室の電話もあるはずだから外に連絡をつけることは出来るだろう。
携帯はポケットにあるが、さっき少し着信音をたててから何の反応もない。この状況なら、携帯をタップして通報するよりも公衆電話の非常ボタンを押して警察を呼ぶ方が確実に早いはずだ。
さっきの着信が誰なのかは気になるけれど、確認する余裕はない。マスターか、鷹羽か、きっとそのどちらかだろうとは思うが、今ここに居ない彼らに自分たちを助ける事は出来ないのだ。
しかし、二人は二階の踊り場に出た瞬間に言葉を失って立ち尽くしていた。
窓の外が暗い。
そんなはずはない。だってまだ、まだ日中だ。
さっき校庭の他の部活の生徒が誰も居ないことにも違和感があったけれど、でもまさか、自分たちが裏庭に居る間に日が落ちたなんて事は有り得ない時間。
だというのに窓の外は真っ暗で、廊下は怪しい赤い光が薄っすらと照らすだけの空間になっていた。
「な、にこれ……」
「……離れるなよ」
震えながら呆然としているキクの手をぎゅうと握ると、キクも震えながらようやく手を握り返してくれた。
それだけで何だか力が出るようで、畏れる意識をなんとか持ち直して一先ず靴を履く事を思いつく。廊下も黒くて、赤い光が僅かばかり照らすだけの不気味な様相。けれど、目が慣れてくるとその黒い廊下も何かがうねうねと蠢いているように見えて、靴下で歩くのには少しばかりの抵抗があった。
犬飼が靴を履いたのを見てキクも同じように靴を履き、それから少しだけ階段の下を見た。
あの音は、まだ一階からしてきている。それならばもしかしたら戻ったら元の校舎に戻れるのではないかと一瞬思うけれど、元の校舎に戻ればあの女たちが追いかけてきているのかもしれないと思うと前にも後ろにも進む判断が出来なかった。
いや、冷静に考えるならば戻るべきだ。
例えあの女と取り巻きが居たとしても、自分が囮になってキクを逃がせば足の早いキクならば逃げ切れるかもしれない。
だから、この手を握ったまま一緒にどちらかを選ぼうとしているのは自分のエゴだと、犬飼は分かっていた。わかっていたけれど、この黒いモヤモヤがどんどん増えているキクの手を離す決断は、どうしてもすることが出来なかった。
「……一先ず職員室まで行こう。そんで、マスターに連絡する」
「……うん」
背後から聞こえてくる音は、ミシミシと嫌な音をさせ始めている。
昇降口のガラスドアは台風の時にも大雪の日にも校舎を守ってくれるだけ頑丈なドアだが、あんなに強く叩かれれば流石に悲鳴をあげはじめているようだ。
取り巻きの中には男もいたし、アイツかもしれない。なんでそこまでして自分たちを追いかけてきているのかは、わからないが。
だが、だからこそ、アイツらに捕まるのだけは駄目だ。
そう決断して、犬飼とキクは手を繋いだまま黒い廊下を進み始めた。