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第23話 呪詛

「なんだこれ……気味が悪い……」


 キクの腕を引いて段ボールから遠ざけながら、犬飼は恐る恐るに首を伸ばして木の人形をまじまじと見つめた。

 名前に書かれているのは、間違いなくキクのフルネームだ。本人が嫌って積極的に名前を名乗ろうとはしないのでこの学校でも何人も知っていないだろう、親につけられた名前。

 それが、まるで刻みつけられているかのようにその人形に書き込まれていた。

 呆然と人形を見つめているキクは何も言わず、けれど少しだけ震えているようだったので腕を掴んだまま少しだけ距離をとる。

 あんな呪いの人形のようなものに自分の名前が書かれているだなんて、キクじゃなくても気味が悪いし嫌なものだろう。もしこれが自分だったらと思うと、犬飼だって嫌な気持ちになるに決まっている。

 一体誰があんなものを用意したのだろうか。

 ちょっとずつ距離をとりながら、考える。

 キクは、はっきり言ってしまえば友達の居ない奴だ。でもそれは今に始まったことではなく、幼稚園の頃にはちらほら居た友達も小学校に上がってからは段々と離れていってしまったように思う。

 それは犬飼も同じで、小学校に入ってから始めた習い事のせいでキクと遊ぶ時間が合わなくなって自然と学校でも話をしなくなっていってしまったのだった。

 結果、キクの受けているネグレクトに気付くのも遅くなったし、一度だけ犬飼の母に連れられて来たキクに服を貸してやったきり再び縁はなくなってしまった。小学校が違ったというのもあっただろうが、当時の犬飼には母と一緒に風呂に入っただけであんなに泣いているキクが、さっぱりわからなかったのだ。

 そんな事でキクがあんな辛いめにあっているのを見逃した理由には、ならないだろう。保育園の頃にはあんなに頻繁に遊んでいたのだから、自分が真っ先に気付くべきだったのだ。

 性別だとか、家の距離だとか、そんな事を気にするよりももっと前に気にするべき所はあったはずなのに、再び高校で顔を合わせるまではその存在すら忘れていた。

 もう一度顔を合わせて、自己紹介で名前を聞いて、ようやく思い出したかつての友人。忘れてはいけなかった、ひと。

 だから犬飼は、一度離してしまった手をもう一度繋ぎ直したら絶対に離さないと決めていた。キクの方から掴んでくれるとは思っていない。キクの方だって自分を求めているわけではないのだろうというのは分かっている。

 これは自己満足だ。

 それでも、学校で一人で居るキクを放置するのは絶対に嫌だったし、出来る限りキクに降りかかる悪いものから守ってやりたいと思ったから、今こうして一緒に居る。

 もうあんな風に泣きじゃくる顔を見たくない。ただそれだけだ。

「……離して」

「おいっ」

「一体何か調べないと、何も分からないだろ」

「ちょ……触るなよっ!」

「触らないよ」

 さっき少しだけ通話の繋がったマスターは、絶対にさわるなと言っていた。

 マスターは今ここにあるものが何なのか分かっているのか、それともただのあの人の勘なのかは犬飼にだって分からないけれど、あの人が「さわるな」と言うのならばそれに従うしかないだろうと、そう思ったのだ。

 でも、じゃあここで次の指示があるまでただぼんやりと待っていろとでもいうのだろうか?

 こんなにも怪しいものを眼の前にして?


「あれ? 犬飼じゃーん」


 まんじりともせずに段ボールを眺めながらぼんやりとしていると、ザクザクと校庭の砂を踏みながら歩み寄ってくる気配があって、犬飼はハッとして振り返った。

 キクは動かない。ただ、今までよりもそっと、犬飼から距離をとった。

「えぇと……」

「うっそ、ユミ覚えられてないじゃんっ」

「やっぱ眼中にないんだって、ごしゅーしょーさまー」

「違うし! 名前だけ忘れてただけだよね? ホラ、オナチューじゃんあたしら!」

「ねぇねぇ、じゃあアタシは?」

「……あぁ、藤井か」

 そうそう! と喜んでいるのは、確か中学高校と同じ学校だった女たちだ。昔からなにかにつけて犬飼にくっついて回っていて、派手なグループに入っているわりには成績がよくて高校入学でも何故か一緒になってしまった女たち。

 犬飼は、この中のリーダー格の女が大嫌いだった。

 なにかにつけて自分は犬飼と仲が良いのだとアピールをして、キクと犬飼が一緒に居ると無意味に割り込んでくるし自分の取り巻きを使ってキクを孤立させようとしてくる嫌な女。

 毎回取り巻きが「ユミ」と言わないと思い出せないくらいにどうでもいい奴なのに、なんだってこんなに自分に構ってくるのだろうか。以前告白された時には手酷くフってやったというのに、意味が分からない。


「あれー? 犬飼くん、それなにー?」


 コイツらから感じるのは、悪意ばかりだ。

 いつもこの女にくっついて回っているのは男女どっちも同じ顔ぶれで、本人が犬飼に触れようとしてくる間に周囲を睨みつけて距離を取らせる。

 キクが居ればキクを攻撃するこいつらが、本当に本当に、犬飼は大嫌いだ。

「ちょ、この名前誰ぇ?」

「知らね。縁起悪っ」

「つーかマジ呪いの人形? 誰よ呪われてんの」

「キッモ。どんだけそいつ嫌われてんの?」

 コイツらは、キクが居るのも分かっていて段ボールの中の木の人形を見て笑う。確かに、確かにキクの本名は性別もわかりにくいし字面もあまり良くないけれど、だからってそんな言い方はないだろう。

 しかも、ぎゅっと袖の中で拳を握っているキクの様子にだって絶対に、気付いているはずだ。キクが何も言わないから、反論も反撃もしてこないから、こいつらはキクを舐めきっている。

「おいっ!」

 カッと腹の中が煮えたぎるような怒りが湧き上がって声をあげると、キクがチラリと犬飼を見た。

 驚いて肩を竦める女とその取り巻きたちよりも真っ直ぐな、こちらを咎めるような視線。

 余計な事はするなと、余計なことは言うなとでも言いたげなその目に、犬飼は発そうとした声をグッと飲み込んだ。ここで犬飼が下手にキクを庇えば余計に面倒な事になる。

 それが分かっているから、黙るしかなかった。

 ゆらりと、キクの手から黒いモヤのようなものが立ち昇る。

 それはまるで、黒煙のようで。


「……ムカつくなぁ」


 ボソリと、女がそんな事を言った。さっきまでよりも小さな声だが、明らかに周囲に居る全員に聞かせるための言葉で、それを聞いた瞬間に取り巻きどもがキクを見る。

 犬飼とキクの間にはいつの間にか取り巻きどもが入り込んでいて、さっきよりもずっと距離が出来てしまっていた。

「なんなのマジ。ほんと邪魔なんだけど」

「…………?」

「自分優等生です、みたいな顔してさぁ。必死で偏差値合わせたアタシ舐めてんでしょ」

「……何?」

「ずーっと邪魔にしてんの、気付いてないの? 鈍すぎんじゃないの? それともただの馬鹿なの? マジで邪魔だし、ウザいんだけど」

 おい、と、犬飼がまた声を上げる前に、女が、その取り巻きが、キクの方を見た。

 取り巻きの中に居る犬飼と同じくらい背の高い男が視界を遮って、咄嗟に近付く事が出来ない。いつの間にか出来てしまった距離は、一歩では縮める事が出来ないくらいには広かった。

「ほんっとウザい! アタシ犬飼にコクってんだけど! 空気読めよ!」

「!」

「アタシが負けてるみたいになってんの、マジムカつくんだよ!」

 ドンッ、と、女がキクの肩を強く強く、押した。困惑している所に不意打ちを受けたキクは仰け反って倒れ、背中を強く打ったのか数回苦しげな咳を吐いた。

 全身の力を使って両手で押し出されれば、男であろうと女であろうとバランスを崩すのは当たり前だろうに、取り巻きどもはわざとらしく「きゃー」「だっさ」なんて言って笑う。

 何より最悪だったのは、押し倒された事でキクがあの人形を巻き込んでころんだことだった。

 不可抗力だ。キクは悪くない。でも、まるで狙いすましたように人形と共に転がったキクは湿った地面で服を汚され――手の黒い部分が、まるで燃え上がるように広がっていった。

 近くに居れば腕を掴んで止められたかもしれない。あの女が動くのを止められたかもしれないし、キクが転ぶのだって止めっれたかも。

 せめても、キクをかばって自分があの人形にぶつかるくらいは出来たかもしれないのに。

「キク!」

「ちょ、犬飼っ」

 後悔が、怒りを凌駕する。

 腕を抑えて蹲るキクは、痛みにか苦しみにか、小さく震えていた。

 間に立っていた男子生徒が邪魔をしようと割り込んでくるが、犬飼は容赦なく男子生徒の股間を蹴り上げて転がしてやった。


「なんで! なんでよ!! マジムカつく!!」


 ほんとムカつく!!

 怒りに満ちた女の叫びと、犬飼の携帯の着信音と。どちらが先に耳に届いたかは、犬飼には分からなかった。

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