「先ほどは申し訳ありません。お名前を聞き違えていたようで」
「いえいえこちらこそ、お手間をかけまして」
トレーに10個ばかりのコーヒーを乗せて、その上には布をかけてゴミが入らないようにと配慮をしつつ、マスターは再び出版社を訪れていた。
マスクで顔を半分隠して、それでも「この近所のカフェの店主だ」ということだけは隠さない。
そうして今度はしっかりと、予め鷹羽に聞いていた彼の所属している編集部の名前を出して「コーヒーのご注文を頂いていました」と素知らぬ顔で
企業からコーヒーの注文をもらう事は、実は無いわけじゃない。
黒猫茶屋は普通の人は来店しようとは思わないような店だが、「普通の人」ではない人が利用する事はそれなりにある。例えば鷹羽もその一人だし、この近辺には神社がある都合でか黒猫茶屋を贔屓にしてくれる人はそこそこに居た。
そういう人が働いている企業からコーヒーやらアップルパイの宅配を頼まれた時、マスターはあまり断る事はしない。店の儲けなんかはそもそも度外視しているけれど、そういう人が「黒猫茶屋を求めている」という事は自分の手が必要な時であると理解をしているからだ。
黒猫茶屋は、ほんの数年前にマスターが先代マスターから受け継いだ喫茶店だった。
先代マスターはこの近辺では顔の広い人で、だからこそ最初は「客」がたくさん居たものだ。
呪いに取り憑かれてにっちもさっちもいかなくなっている人。
普通の人間と同じように幽霊と一緒に居るようになってしまった人。
そもそも自分を人間だと思い込んでしまっているヒト。
客層は様々で、先代からよく話を聞かずに店を受け継いでしまったマスターは、最初の頃は毎日ひっくり返っては仏壇に祈ってばかりいたものだった。
しかしこの喫茶店が「そういう店」だと気付いてからは、先代の言いつけ通りに淡々と仕事をするようになったのだ。
この店における仕事のうちの一つは、冷蔵庫にキープしてある馴染の神社の手水舎の水でお菓子を作る事。
例えばわらび餅やアップルパイがそうだ。アップルパイを作る時にはリンゴを煮る時に必ず手水舎の水を使い、わらび餅は餅を作る時に水を使う。
それから、飲み物にも必ず手水舎の水を使った。そんな事をしていたら水はあっという間に無くなってしまうのだけれど、不思議と水が不足する事はなく毎日最後のお客さんが帰るのと同時に使い切れた。
もう一つの仕事は、「この店に自分から入ってきた客を決して追い出さないこと」。
例えそれが人間だろうがそうではない存在だろうが、自ら帰ろうとしない限りは決して追い出してはいけないし、何故ここに来たのかと問うてもいけない。だから、明確に「帰る」という意志が見える会計という動作を行える店の形態にしなければいけない。
先代はとにかくそう言い含めて、この店を去った。菓子作りはあんなにねちねちねちねち教え込んだというのに、思っているよりもずっとあっさりとした別れだった。
何で先代がそんな事を言い含めていたのか、未だにマスターははっきりと分からないことも多いけれど、でも、彼に言われたことは未だにしっかり守っているし、守っているからこその恩恵はしっかり受けていると思う。
少なくともこのクソみたいな世の中で、「
顔を半分隠すマスクがいい加減暑いな、と思いつつも、電話で鷹羽の部署に確認をとっている受付嬢をまんじりともせずに見つめる。ここで追い返される可能性はない、はずだ。多分。
エコバッグに入っているのは同時に注文されたお菓子だと言ってあるし、ちゃんとお菓子もコーヒーも見せたので嘘は言っていない。まぁ、注文を受けたというのは真っ赤な嘘だし、コーヒーだっていつもみたいにきっちり豆から挽いてあるものじゃなくてただのインスタントにぬるいお湯をぶちこんだだけの簡易的なものだけれど。
でも、今自分が「ここに入るべき瞬間」であるのなら、問題なく通れるはずだ。
鷹羽に言ったら「何を言ってるんです?」なんて言われてしまいそうだが、今までの経験からマスターは「知っていた」。
「おまたせしました。確認が取れましたので、向こうのエレベーターからお願いします」
「はい、お疲れ様です。これ、オマケなんですがよろしかったら」
「えぇ、いいんですか? ありがとうございます!」
受付嬢が二人いるということはそこそこ大きな会社だろうに、セキュリティはザルだな、なんて、にっこりと営業用のスマイルを向けつつ受付嬢二人に最近持ち帰り用に作り始めたカップゼリーを渡す。
果物味のゼリーは作るのが面倒だが、コーヒーゼリーは作るのが楽なのでポーションミルクと一緒に保冷剤をつけた小箱に入れてあったものだ。
賄賂賄賂。世の中はこうして巡るのだ。
そんな事を考えつつ、受付に頭を下げつつエレベーターに向かう。
予想通り、受付は問題なく入れた。これが、鷹羽と同じ部署の人が「誰かが頼んだんだろう」と適当にこちらを受け入れたのか、それとも「ここに入るべきだ」と判断されて入れられたのかは、正直わからない。
だが、こういった超常的な事案において「必要」だと判断されたら「こうなる」ものなのだと、マスターはもう知っていた。
あのカフェに入って一年目。まだ先代が居る頃に叩き込まれた
『じゃあなんでそもそも、ご都合主義っていう言葉があるんだと思う?』
なんて聞いてきた。
そんなのは物語を成立させるために作者が作り上げたもので、読み手が関与すべきものではない。ご都合主義というものは、作者が自分の都合がいいように物語を捻じ曲げたりするものであり、物語の中に居る人物なんかは当たり前だがその波に乗るしかないのだ。
そんな言葉がどうして生まれたかなんて、言語学者でもないマスターが知ることなんか出来ない。
そうやって鬱陶しく言葉をこねくりまわして先代に反発をしていたマスターは、しかし一年一緒に居るともう口を閉じるしかなくなっていて、「ご都合主義」という言葉はある意味の「強制力」であるのだという事を知った。
それもそうだ。ご都合とは、作者という世界が自分のいいように作り変えるもの。作者は世界であり、全てであり、創り上げた者で――つまりは
その「
つまりは、今の状況だってマスターが自主的に動いているとは限らない。
自分たちを取り巻いている「何か」が自分の都合のいいように動かしている、表の世界とは違う強制力の働いている状況なのかもしれないのだ。
エレベーターに乗り、4階のボタンを押し、上がったエレベーターが2階を過ぎてから2階のボタンを押す。片手に抱えたトレーは重かったが、エレベーターは静かに上昇していってくれたので、少し身体がゆらぐだけで済んだ。
正直に言えばマスターは、鷹羽の編集部の階層なんかは知らない。だが、4と2は、日本人の中では忌避されるべき数字であり、こういう場合においては「そうだろうな」という文字だ。
誰が最初にそう言い出したかは知らないが、悪い方向の強制力が働いている数字であるとも言える。
これでもし失敗しても、きっと何か別の強制力が働くはずだ。
マスターは、久々に自分が足を突っ込んだ「裏口の認識」の世界に、ごくりと生唾を飲み込んだ。