「それに触るなっ。絶対に、布越しにでも触っちゃいけない」
町中を疾走しながら、マスターがスマートフォンに向けて叫ぶ。
事前に色々と準備をしてから鷹羽の編集部に乗り込もうとしたマスターは、勿論というか当然門前払いを食らっていた。
もしも鷹羽がまだ編集部内に居たのならこちらも安心出来たし中に入ることも簡単だっただろうが、受付は
「鷹羽という社員は当社には居りません」
と繰り返すばかりで、まるで取り憑く島もなかったのだ。
これがもしストーカー対策だとかそういう類のものであればまだわかる。しかし鷹羽はそういう素振りは見せていなかったし、何より受付の女性は怪訝そうな顔をしてから何度も何度も、色んな部署に電話を回していたからきっと「本当に居ない」のだろうと、わかってしまった。
往々にして《怪異》に取り込まれた人間はその存在を失う。
例えば神隠しのようなものであれば《怪異》に持っていかれたのではなくて異界に迷い込むだけであるからその存在自体が「こちら」で失われないことがほとんどだ。
けれど、
鷹羽は運悪く、彼が回避することのできない状況でそういうのに持っていかれてしまったのだ。なんと、運のない人だろう。
一度喫茶店に戻ろうと走り出した途端にかかってきた通話に、その内容に、マスターはまた顔をぐっと歪めてその場に立ち尽くした。
夏の暑い日差しが後頭部と背中に突き刺さるようで、その暑さが冷静な思考を奪っていく。
鷹羽はマスターを「いつも冷静でクール」とか何とか言っていたが、実際にはそんなことは少しもないのだ。マスターとて、少し不思議な素質があるだけのただの人間でしかない。
こういう時にどうすればいいのか。
噂を調べるにしてもどうすればいいのか、さっぱり分からなかった。
『触っちゃ駄目って……悪いものなんですか?』
「そう。人の形をしたものは、その人間の代わりを意味するものなんだ。そこにキクさんの名前が書いてあるということは、何か……呪詛的なもののためにそれを作ったんだろう」
『……壊したり燃やしたりするのは駄目なんですか』
「……もうすでに呪いが発動している場合、そんな事をすればダメージを食らうのはキクさんかもしれないよ」
とにかく写真の撮影だけしてそれには触れずにその場から去ることと、他にも何か「キクが嫌がるもの」がないかを探すように示してから、マスターは通話を切った。
どうすればいい……どうすれば……
ピリリリリリリリ。
考えに行き詰まっていた時、不意にマスターのポケットで着信音が鳴った。
普段マスターの使っている携帯ではない、千百合との通話にだけ使っているキッズケータイだ。キッズケータイには3つだけ番号を登録することが出来るが今のところ千百合にはそんなに番号は必要ないからと、どの番号を選んでも自分につながるようにと用意した予備の携帯。
出来るだけストラップで腰に下げるようにしているその携帯を尻のポケットに入れていることを忘れていたマスターはちょっと驚きながらも慌ててキッズケータイを取り出して着信に出る。
非通知着信。
この携帯番号は千百合以外には教えていないというのに、しかも非通知で連絡をしてくることが出来る相手なんて……
マスターは、久しぶりに緊張というものを味わいながら、通話ボタンを押下した。スマートフォンを使いだしてから久しく指先で感じることのなかった、ガラケーのボタンの軽い挙動だ。
『にゃぁん』
通話をつなげてすぐに聞こえてきたのは、人間が猫のマネをしているような滑稽な声。だが女性の声である分だけまだ可愛らしい声とも言えた。
マスターは乱れた息を深くゆっくり呼吸することで何とか整えながら、通話先の相手が何かを言うのを待った。
こちらから聞いてはいけない。それは、「違反」だ。
『くろいへやは、ねじまげられちゃった』
「……捻じ曲げられた?」
『ほしい、ほしい、いとおしい。それだけだったのが、にくい、にくい、ころしたいに、なっちゃった』
機械的な音声にも聞こえる声に、背筋がゾッとする。
まるで人間の言葉を覚えたばかりであるような、そんな声だ。今まで何度かこの声を聞いたことはあるけれど、決していい気持ちにはなれない、声。
通話先の相手はまだ「にゃあん」と、あまり似ていない猫のモノマネをすると、今度はクスクスと小さく笑う。
『ふしぎ、ふしぎ、すこしふしぎ』
「不思議、とは」
『ほんとうにほしいけど、そうじゃないのをえらんで、よびよせるの』
「…………!」
本当に欲しいものを手に入れるために、本当にほしいもの「ではない」ものを呼び寄せている、ということだろうか。
マスターは必死に電話の向こうの相手の言葉を噛み砕いて、考えて、そして顔から血の気が引くのを感じていた。
本当に欲しいもの。それはきっと、最初に「黒い扉」に気付いたキクのことなのだろう。思わぬ所で犬飼にそれを阻止されて、【黒い部屋】は酷く歯がゆく思っているに違いない。
では「本当に欲しいものではないもの」は、この場合は鷹羽なのではないだろうか。
キク以外に唯一、キクの手の黒い影を視た人物。マスターにも視えなかったものに気付いた、ただ一人の存在。
彼が完全に【黒い部屋】に飲み込まれてしまったら、そうなったら、キクはどうなる?
唯一の突破口かもしれない存在を喪ってしまったら?
だがどうやって鷹羽の所へ行けばいいのか――そもそも鷹羽は、今あのビルの中に居るのか?
『ねこたちのくびわをもっていきなさい』
携帯に耳を押し付けながら額から流れる汗を拭っていたマスターは、しばらくの沈黙のあとに聞こえてきた声に不覚にもびっくりしてしまって、危うく携帯を取り落としそうになってしまった。
危なかった。この携帯は千百合と連絡がつく大事なツールなのに。
『ねこたちのくびわは、あなたのせんだいが、つけたもの』
「先代、って」
『あのひとがつけたものなら、あなたは、あなたが、いちばんうまくつかえる』
「……それは、どういう……」
『いそいで』
プツリ。
通話はあまりにも呆気なく切れて、マスターは思わず画面を何度か確認してしまった。
非通知でかかってきた、マスターへの電話。
マスターは、後頭部にジリジリと照りつける太陽で少しばかりフラフラになりながら小走りで喫茶店まで戻ると、ほんの僅かな時間だけエアコンの空気を堪能してから冷蔵庫から水のボトルを引っ張り出してまずは一本、一気に半分飲み干した。
このペットボトルに入っている水は、毎朝マスターが馴染みの神社に足を運んで頂いてきている手水舎の水だ。
この地域では珍しくなった井戸水から引かれているその手水舎の水はいつでも冷たくて、透明で、神主さんはマスターがそこに行くたびに「持っておいきなさい」と何本かのボトルをくれた。
その人も、『先代』の知り合いだ。
「仕事が忙しくなっちゃったから」なんてあっけらかんと言ってマスターにこの黒猫茶屋を譲った先代店主はマスターもびっくりするほどの人脈を持っていて、あの神社もまたそのうちのひとつ。
あの神主によれば、この使わないまま冷蔵庫に溜まっていった手水舎の水は【あなたが必要な時に使うこと】と、そういう用途のものらしかった。
マスターの必要な時。
それは決して、喫茶店を開いている最中のことでは、ない。
にゃぁん、にゃあん
もう一度、残りの水を一気に飲み干したマスターは空になったボトルをシンクに置くと、足に絡んできていた四匹の猫を持ち上げて、抱きしめた。
『本当に困ったら、猫に頼ってごらん』
先代の言葉を思い出して、抱きしめた猫の青色の首輪を外す。もう随分使い込んだ年季の入ったくすんだ青色の首輪だ。
次は、赤色の首輪。その次は緑色の首輪で、最後は黄色の首輪。
流石にこれだけ一緒に住んでいると、首輪を外しても黒猫たちの見分けがつくのに安心した。一応プレゼント包装用の四色のリボンを彼らの首に巻き直すと、マスターは首輪をポケットに詰めてその辺にあったエコバッグに冷蔵庫の中にある水のボトルも放り込んでいく。
冷静になれ。ここはどこだ。
あのビルに入り込む手段なら、いくらでもある。
マスターは細く長く「ふぅー」とため息を吐き出すと、次はお湯を沸かしつつ店で常備されているカップを一番大きなお盆の上に並べてインスタントコーヒーの粉を適当にぶち込んでいった。