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第19話 疾走

 今まで、キクの人生はただ「空虚」と言っても過言ではないものだったと思う。

 両親は二人とも教師で、何故かいつも自分の子供ではない子供の事ばかりを気にしていた。

 授業参観に来てもらった記憶はないし、保育園時代には月曜から土曜まで毎日開園時間から閉園時間までずっと保育園で両親を待ち続けた。

 そんな家庭は当然キクの家だけではなかったけれど、家に帰ってからも両親はキクの事を構う事はあまりなかった。

 例えば食事とか、風呂だとか、そういったものは小さなうちには手伝ってくれていたと思う。けれど、キクが保育園から上がって小学校になった頃には両親はそういったものに対してもノータッチになっていた。

 まだ小学校低学年のうちには耳の裏だとかそういった場所を綺麗に洗う事が出来なくって両手と両足の表面を洗うのが精々だったキクは、一見すれば綺麗なのに「臭い」と言って馬鹿にされていた。

 毎日お風呂に入っているのになんで臭いのかキクには分からなくって、小学四年になった頃に保育園時代の同級生の母親がキクの様子に気付いて家でお風呂に入れてくれて、初めてキクは手の裏や脇の下、耳の裏や膝の裏も洗うのだという事を知った。

 同級生の母親が教えてくれながら洗ってくれた時にぽろぽろと落ちてくるカスのようなものに衝撃を受けて、泣いてしまったのも覚えている。

 まだ幼い子どもは新陳代謝が活発で汗をかきやすく、頭皮だってしっかり洗わないと臭うのだという事もそこでキクは初めて知った。

 何しろキクはもっと小さな頃母親の真似をして髪を撫でるようにしか洗っていなくって、シャンプーとリンスの違いもわからなかったので「母が髪に塗っていたものと違う」と泡の出るシャンプーは使ってもいなかった。

 キクが幼い時にはシャンプーをする時にはぎゅっと目を閉じていたから、きっと母が子供と一緒に頭を洗ってしまえば泡なんか気付きもしなかったのだろうと、高校生になってからは理解したものだけれど、子供の時は凄く、凄くショックだったのだ。

 保育園時代の同級生――犬飼は、お風呂で泣いてしまって顔を真っ赤にしながら出てきたキクに、黙って自分の服を貸してくれた。

 キクの服は、小学校で家庭科の授業が始まった頃から両親が洗ってくれなくなったので自分で洗うしかなくって、だから、きっと、臭かったのだろうと思う。

 犬飼が差し出してくれた服は真っ白で、シワもなくって、首元もビロビロじゃなくって、薄汚れていて雑巾みたいでヨレヨレな自分のそれとはまるで違って、そこでやっぱりキクは泣いてしまった。

 自分の家が他の人の家と違うのだと思い知ったのは、その瞬間だったのだ。

 その日からキクは、今まで心のどこかに残していたのだろう両親への期待とかそういうものを全て捨て去った。

 両親は中学と高校の教師であったので忙しかったのはわかる。部活の顧問をしていればもっと忙しかったのだろうという事だって、今では理解もしている。

 でも家に居る時もキクに構う事もなく、日常生活で必要な知識も与えぬまま全てを本人任せにしてきた両親のことは、理解したくないのだ。

 だって、キクの家は犬飼の家とはまったく違った。

 あの時感じた惨めさは未だに胸の中にくすぶっていて、一緒に私立の中学に行こうと勉強道具を持ってキクと一緒にあの汚い家で勉強をしてくれたことも、犬飼の両親が金だけはある両親にキクの受験についてを直談判してくれた事も――彼が自分を助けようとしてくれている今も、強い劣等感として胸にこびりついている。

 お前には関係ないじゃないかと叫ぶ事は簡単だったかもしれない。

 けれどキクにはそれが出来なくて、彼を拒絶しようとするたびに喉の奥にボールが詰まっているような、そんな心地になって何も言う事が出来なかった。

 なんで彼がここまでしてくれるのかが、分からなかった。両親にすら関心を持たれなかった自分なんか、彼が気遣わなければとっくに死んでいたかもしれないのに。

「何か心当たりあるの」

「……なんの」

「マスターの言ってたあれ、お前が近づきたくないものとか、嫌なものとか、そういうの」

 学校の最寄りの駅までの電車に乗り換え、そこからバスで数駅。バスを待っているのがもどかしくてその数駅を走った二人は、汗だくになりながら裏門で息を整えていた。

 今の時間は表には部活をしている生徒が沢山居るから、犬飼と一緒に居る姿を見られたくなくて裏門へ走ったのだ。

 犬飼はそれに気付いていなかったのか気付いているのか、一先ずは息を整えながら細かい事は追求せずにいてくれた。

 それに、また意味もなく腹がたつ。

「お前」

「えっ」

「お前が嫌」

 だから正直にそんな事を言えば、犬飼がハッキリとショックを受けたような顔をしてくしゃりと顔を歪ませる。

 なんでそんな顔をするのか、キクには分からない。同情なのか、憐憫なのか、ただ自分が否定された事に対するショックなのか。キクには興味がない。理解したくもない。

 だから、走った。

 裏門は少し力を入れれば普通に横にスライドして動いて、けれど手を離せばすぐにまた閉じてしまうから少しだけ開いて滑り込んで、自重で閉じるのに任せて走った。

 慌てて犬飼が声をあげるのが聞こえたが、足は止めない。体力には自信があった。これでも運動部なのだから、駅からここまでの距離だってほんのランニング程度のものだ。

 走って、走って、走りながら「本当に自分の嫌なもの」を探す。

 キクの世界には嫌なものはいっぱいあって、寧ろ「好き」と言えるものの方が少ないくらいだ。

 だから、走りながら「何が嫌なのか」を考える。

 キクが一番嫌いなのはまず自分だ。両親に愛しても関心を持ってももらえない惨めな自分が大嫌いだ。

 それから学校も嫌いだ。高校くらいは卒業しておかないと先がないので高校に入ったが、犬飼が居なかったら早々に辞めていたに違いない。そもそも高校にも行ったかどうか。

 それから……それから……部活が嫌いだ。

 偶然小学校の時の同級生が同じテニス部に体験入部で入ってきて「アイツの触ったものは全部汚い」と笑って来たのでキクはテニス部に入るのはやめた。

 出来るだけお金のかかる部活に入りたくなくって、でもあんな事を言うヤツが居るのであれば個人種目がいいとも思って。

 そうなると選べる部活は段々と狭くなっていった。

「今日は、休みの、はず……」

 その中で、キクは結局弓道部を選んで入部した。

 男女混合で隔てがなく、初期費用にこそ数万かかったけれどそこは親戚から貰った進学祝いで賄えた。親は何か言いたそうにしていたが、高校生になって段々と身体が出来上がっていくキクを前に滅多なことは言えなかったようで何も言わなかった。

 弓は部活側で貸してくれるのでお金は要らないが、弦にだけはお金がかかる。そこは少し困ったが、テニス部だってラケット自体を買わなければいけないし男女別にユニフォームだって必要だから結果として良かったと思っている。

 相変わらず部活の中でキクは浮いていたけれど、部活に入るのは絶対条件の学校なので多少は仕方がないと諦めるしかなくって。

 でも、そんな部活の中でキクがどうしても嫌な場所が一箇所だけあった。

 部活自体ではなくて、部活に関わる場所の中の一角だ。細かく言うならば、弓道場のハズレの裏。

 キクの通う高校の弓道場は広くて、弓を射る人間以外が矢を使わずにただ弦を引いて練習をするだけの通路のようなものも存在しているのだが、その練習場の裏はいわゆる「陽キャ」たちのたまり場のような場所になっていた。

 主に矢を射たせてもらえないレギュラー以下の生徒たちがサボる場所。そこが、キクは嫌いで嫌いで仕方がなかった。

 だってそこでは必ず、キクの悪口が飛び交っている。

 入って半年で才能を買われて準レギュラーに入れてもらえたキクの事を、弓を射れない先輩たちはいつもそこで色々と言っていたものだった。

 初めて知った時はショックだったその事実も今ではどうとも思わないが、その場所への苦手意識が薄れる事はない。

 けれど、キクがこの学校の中で「嫌い」「近付きたくない」と思うものがあるとすれば、そこしか思い浮かばなかった。

「キクッ!」

「げっ……足、はやっ……」

「前にお前がここが嫌いだって言ってたの覚えてたから、一直線で来ただけだよ」

「うわキモ……」

「キモくないっ」

 何となくたまり場への苦手意識から足が重くなっていたキクの背後から、犬飼が走ってくる。

 そういえば前に何か言った事があったかなぁなんて思いながらソソソっと犬飼から距離を取れば、犬飼は「不本意だ」とばかりに膨れた顔をした。

 あんな顔を見ているとまだ小さな子供のように感じるのに、実際には犬飼はキクよりも背が高くて水泳のお陰か肩幅も広い大人の体型に近付いているように見える。

 それがまた劣等感を誘うのだという事をなんでコイツは理解しないんだろうかと軽く足元を蹴飛ばしてから、キクは改めてたまり場へ向けて走った。

 たまり場は校舎の影で、弓道場のせいで外からも死角になっているから「必要な生徒」しかそこに立ち入る事はない。

 そして「必要な生徒」だって勿論そんなに数が居るわけもなく、キクとてここに足を踏み入れたのは二度目だ。

 空き缶が転がっていたり、多分煙草の吸殻だろうものが転がっていたり、向こうにあるのは縄跳びか何かだろうか。長期休業中とはいえあまりにも酷い有様に無意識にため息が出た。

「あの端っこにある段ボールはなんだろう」

「……どれ?」

「アレ。あの木の陰」

「あぁ……なんだろ。部活の……なわけないか」

 弓道部員たちは普段必要な共有道具をひとまとめにして段ボールで管理していたりするが、こんなところを利用するような連中がご丁寧にそうやって管理しているとは思えない。

 そう思いつつ木の陰に近付くと、恐らくは雨に降られでもして濡れたのだろう段ボールにキクは酷い嫌悪感を抱いた。

 これ以上は近付きたくないと、まるで酷い異臭を放っているものに近付いているかのように吐き気すらも覚えつつ、思う。

 そんなキクの様子を見て何も察しないわけもなく、犬飼はサッとキクと立ち位置を入れ替えると段ボールを思い切り蹴り飛ばした。

 万一中に子猫でも居たらどうするんだ、と言いたくなるような見事な蹴りに「うわ」っと声を出していたキクは、しかしすぐに息を飲み込むように言葉を失う。


 ボロボロでベチョベチョの段ボール。

 その中に入っていたのは、キクのフルネームの書かれた沢山の木製の人形、だった。

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