にゃぁぁん、と突然猫が合唱を始めて、カフェの奥の居住スペースで宿題をさせてもらっていた犬飼とキクは驚いて顔を上げた。
ふたりともそこそこにテキストに集中していたのか、突然鳴き始めた四匹の猫にとても驚いて心臓がドキドキとしてしまうが、今は営業時間中だ。あまり騒いだらカフェの方に迷惑かもしれない。
犬飼は猫の首輪が赤と、青と、黄色と、緑色、とそれぞれの色を確認してから、それぞれの色に対応している名前を呼んだ。
「A、B、X、Y、お客さんの迷惑になっちゃうよ」
「……よくその名前覚えてられるよね」
「覚えられる方は楽なんだよ、凄く」
キクは分かっていなかったようだが、この猫たちの名前は簡単に言えばゲーム機のコントローラーのボタンと連動している名前なのだ。
父親がゲーム好きで子供の頃から姉と一緒によくゲームをしていた犬飼にはすぐその名前の意味が分かって最初は笑ってしまったものの、首輪の色と名前を連動させて覚えやすいのでとてもいい名前だと思っている。
現行機のコントローラーのボタンとは色合いが違うので知らない人は知らないだろうが、そこそこ長くゲーム機に親しんでいる人間にはわかりやすいだろうが、あのマスターがこの名前をつけたのかな? と思うと何となく不思議な気持ちになる。
あの人がゲームだとかそういうのをするようには見えないし、少なくともこの休憩室のようなスペースにはゲーム機の類は見つからない。自室にはあるのかもしれないけれど、やっぱりあの人が古いゲーム機でゲームをするようなイメージは浮かばなかった。
それはともかく、にゃあにゃあと鳴き続ける猫を捕獲したキクは、落ち着かせるように青い首輪の猫をワシワシと撫でる。Bボタンだ、と教えると、キクは不思議そうな顔をしてから渋々といった顔で「B……落ち着いて」なんて言う。
まだ名前と色の法則性が見えていないからなのだろうが、その様子はちょっとだけ可愛かった。
「2人とも、今いいかな」
「あ、マスター。すみません、猫が……」
「あぁ、その事でね……」
しばらくにゃあにゃあ言っている猫たちと格闘していると、不意に扉を開けて携帯片手のマスターがやってきた。
その表情は真面目で、真剣で、きっと悪いことが起きているという、ことで。
何となく事態を察した犬飼とキクは抱いていた猫を解放して好きにさせてみると、猫たちは即座にマスターの足元に集まってくるくると回り始める。
さっきまでのにゃあにゃあとは違う、どこか威嚇をするような、喉にかかった鳴き声。
その鳴き声に、なんだか背筋がゾクッとした。
「これ、見えるかな」
「……! それは……」
「これと対になっているものを、鷹羽くんが持っているんだ」
マスターが手帳型の携帯のポケットから引っ張り出したのは、多分栞だと思われる小さなリボンのついた一枚の紙だった。
長方形のそれは文庫本にさすには丁度いいサイズだろうなと何となく思った犬飼だが、しかしじっと見つめているとじわじわと浮かんでくる黒い煙のようなものに思わず息を詰めてしまった。
キクも気付いたのか、マスターの手から離させるように立ち上がってワタワタとするものの、その手が腕をいっぱいに上に伸ばす長身のマスターに届く事はない。
「鷹羽さんに……何かあったって事ですか?」
「そうだろうね。これはオレが渡したものなんだけど、いきなりこうなってきてね。流石にコレは、オレにも見えてる」
「黒い部屋、ですか……?」
「どう思う? これは、君の腕のものと同じ性質のものかな」
キクの腕の黒いのは視えないと言っていたマスターが「視える」モヤ。
それを聞いて、キクが恐る恐るに栞に触れる。途端、栞を手にした手に痛みが走ったのか顔をしかめながら反対の手で手首を掴んで栞を取り落としてしまう。
マスターはそれを見越していたように冷静に栞を拾い、犬飼はキクに触れていいものかと躊躇しながら2人の間でオロオロと視線をウロつかせた。
マスターの目は静かに栞を見つめていて、その表情を見て犬飼も栞を見下ろす。
栞は下の部分から徐々に黒く染まってしまって今では奇妙なグラデーションを帯びているようにも視えた。黒くなっているのはまだ栞全体の半分ほどだが、和紙っぽい紙質の栞を徐々に侵食しているような、じわじわと黒さが強くなっているような感じがしてそれが「普通ではない」のは嫌でもわかる。
「黒い廊下……」
「え?」
「黒い廊下が視えました……多分、鷹羽、さんが今居る、ところ」
「どこの廊下なんだろう?」
「……多分職場だろうね。ここからすぐ近くのマンションだ」
でも、と、マスターが躊躇するように口を閉じる。
その躊躇の源は犬飼にもわかった。
もし本当に今鷹羽が黒い部屋に閉じ込められてしまっているとして、自分たちには何が出来るのだろうか。すぐ近くのマンションの位置が分かっていても、そこへ自分たちから飛び込んで何が出来るのだろうか。
まして、この栞と同じように腕が黒く染まり始めているキクを連れて行って何かが怒ってしまったならどうすればいいのか。
情報が足りなさすぎて、いま自分たちがどう動くべきかが分からない。
そもそも何故、鷹羽は黒い部屋に入ってしまったのだろうか。黒い部屋の調査をしていた鷹羽なら、黒い扉を開いてはいけないという事も、その危険性も知っていたはずなのに、何故?
「仕方ない……出来る事なら分断は避けたかったんだけど」
「マスター?」
「犬飼くん、君はキクさんと学校に戻ってキクさんの部活周りを調べるんだ。そこで、なんでもいいからキクさんが"危ない"と思うものを見つけて、この紙を貼り付けて」
「が、学校ですか?」
「なんで……学校?」
「いいかい。呪いというのはまず、かける人間と呪う対象がいて初めて成立するものなんだ」
マスターの言葉に、キクと犬飼が口を閉ざす。
どうしてか、さっきまで聞こえていた外のざわめきや車の音まで聞こえなくなってしまったような、そんな錯覚を覚えた。
「呪いは人間がかけるもの。憎い者、殺したい者――つまりは害したい者が居て初めて成立するものだ。つまり、黒い部屋に侵食されているキクさんは誰かから呪われていて、呪っている者はキクさんを黒い部屋に入れてしまいたいと思っている。そしてそのために、黒い部屋の噂を周囲に認知させて都市伝説にする事に決めたんだ」
噂、都市伝説――認知。犬飼はハッとして口元に手を当てた。
つまりマスターが言いたいのは、そうやってキクを害したい人間はキクの周囲に居るはずだという事……そして、黒い部屋の噂が学生を中心に広まっていたという事は、広めた側も学生なのだろうということだ。
そもそもが、学生でなければキクを呪おうなんてしなかったかもしれない。呪いたい理由があるから、呪っているのだから。
最初の頃はキクにはそんなものは効かなかったんだろう。でも、今は……
「黒い部屋は、恐らく呪った本人が意図するよりも遥かに広く拡大されてしまった。それこそ、学生よりもずっと広くに広まって、SNSによってもっと遠くまで行ってしまったんだろう。ならもうそれは、我々の手には負えない」
「え、じゃあ」
「鷹羽さんは……?」
「鷹羽くんは助ける。今ならまだ間に合う。この栞が燃え尽きる前までなら、ギリギリね」
でも、我々が知らない人間の事はどうしようもない。
マスターの言葉は酷く薄情にも聞こえるが、しかしどうしようもない現実を噛みしめるかのような音を帯びていた。
今現在、犬飼も、キクも、マスターも、この黒い部屋の噂がどこまで広がっているのかも、誰がその犠牲になっているのかも知らない。この噂が広まり始めてどこまで広まっているのかも、わからない。
そんな状況で他人を気にしている余裕はないのだと、今は鷹羽とキクを助ける事しか出来ないのだという事を、マスターは言っているのだ。
「鷹羽くんの黒い部屋は、恐らくはキクさんの黒い部屋の余波だ。だから今なら、キクさんの根源を絶てばなんとかなるかもしれない」
「な、何を探せばっ」
「キクさんが近づきたくないと思うもの、嫌だと思うものを探すんだ。そしてそれが人の形をしていれば、恐らくはそれが根源のはず。それに、これを」
「この紙は……?」
「もし正解なら何らかの反応があるはずだ。もし何も反応しなければ、それは違うという事になる」
タイムリミットまで残された時間は、そう長くはない。
鷹羽の現在の状況は分からないし、自分たちが出来る事がどこまで黒い部屋に対処できるものなのかも、わからない。
だから、急がなくてはいけない。
犬飼とキクは、マスターが差し出してきた教科書くらいの大きさの和紙を手に取るとお互いに顔を見合わせて、頷いた。