その光景は明らかにおかしかった。
廊下は、廊下だ。エレベーターから真っ直ぐ続く人が3人くらいならギリギリ横に並べそうなくらいの、廊下。
だがその風景はいつもの風景ではなく、ただただ黒い。暗くはないのが不思議だが、うっすらとではあるが電気がまだついているのと、真っ黒くなっている壁に貼り付いているように見える血管のようなうねうねとした赤いラインのようなものがほんの少しではあるが明滅しているように見えるから真っ暗ではないのかもしれない。
コレが黒い部屋なのか? 鷹羽は、普段通りの明るいままのエレベーターの壁に背中を押し付けて少しでもその黒い廊下から逃れるように動きながら、何度も別の階数のボタンを押し続ける。
最悪の場合を想定して緊急ボタンも押したが、ボタンは点灯こそするが反応はない。
これは、エレベーターが黒い部屋に入ってしまったのか、それともエレベーターの扉がそもそも黒い部屋の扉になってしまっていたのか。
鷹羽はドクンドクンと激しく鼓動を打つ心臓の上をぎゅっと握りながらゆっくりと呼吸をするように心がけた。
今まで鷹羽の遭遇してきた「不思議なもの」はいつも鷹羽に一瞥を与えてから何事もなかったように過ぎ去っていくものばかりだったのだ。
街中で明らかに「生きていない」ものが居た時も無視をすればあちらもコチラを見る事はなかった。
この間の電車のようなものは稀で、あんなものは滅多に遭遇するものじゃないと当たり前のように思っていたのに。
なのに、なんで?
なんで、黒い部屋はオレの眼の前に出現したんだ?
混乱する鷹羽を更に追い詰めるように、じわじわとエレベーターの床が、壁が黒く変色していくのに気付く。ボタンの操作盤もまるでカビが生えてくる時のように徐々に黒さが広がっていき、床なんかはもう鷹羽の足先まで黒さが到達しようとしている。
黒だけじゃない、赤い血管のようなものも、だ。
それを見て、鷹羽は思い切って廊下に飛び出す覚悟を決めた。
少なくとも廊下の床には赤い血管はなく、血管が蔓延っているのは天井と壁だけだ。それなら、エレベーターの中であの血管に触れられるよりも血管を避けて黒いだけの廊下に出た方がまだマシな、ハズ。
分からない。そう判断するしかない。
幸いにして廊下の質感はちゃんといつも通りの質感だ。これで床がブニブニしていたりなんかしたらゾッとするどころではないのでそこは安心する。
が、飛び出したエレベーターの方はすでに「いつも通り」ではなくなってしまっていた。
さっきまでギリギリ残っていた唯一の「いつも通り」であったエレベーターはすでに真っ黒になり、血管が走り、何かが脈打つようにうっすらと明滅している。
その様はまるで心臓のようで、鷹羽はゾッとしながらジリジリとエレベーターから距離をとった。
そうしてようやくじっくり眺めた廊下はあくまでも廊下のまま、分岐部分も部屋の扉も全てが一応「存在」しているようでここはまだあのビルの中なのだとわかる。
だが、当然ながらお菓子の自販機も、飲み物の自販機も、廊下に設置されているウォーターサーバーさえも全てが真っ黒で触る気にはなれない。自販機の光っている部分はわかるのに、表面がうっすら黒く膜が掛かっているように見えるのが余計に不気味だった。
「なんだよこれ……」
ボソリと呟いても返事をしてくれる者は居ない。
携帯を何度開いても通信は圏外で、マスターに助けを求めることも当然だが出来ない。
どうすればいいのかと考えながら一先ず同じ場所に留まらずにちょっとずつちょっとずつ、歩を進める。
確かマスターはこの黒い部屋を「呪い」だと言っていた。だが鷹羽は呪われる心当たりなんかはないし、丑の刻参りが流行っていたのは80年から90年代くらいだとか聞いた気がするので遠い過去の話だ。
それにしたって日本人にとっては「呪い」は身近なようで実際にはちっとも身近なものではない。
現代においても南米においては黒魔術だとかそれに類する呪詛なんかはあるようだが、これが南米に由来するものかどうかなんていうのは勿論鷹羽には分からない。
そもそも黒い部屋は、学生たちの噂から広まったただの都市伝説だったんじゃないのだろうか。確かに昨夜から急激にSNSで広まっているのは鷹羽も見ていたけれど、だからって何故……?
『心霊スポットや心霊現象は、ほとんどが噂を発端にしています。誰かがこんなことがあった、あんな事があったと語った事で徐々に”本当にそこにある”事になってしまうんです。例えそこに何もなくても、誰かが噂を流したら心霊スポットになっていた……なんてことは、最近よくありますよね』
マスターの言葉を思い出しながら、さっき送られてきているのに気付いた「あらすじ」を思い返す。
「……あ?」
さっき何度も読み込んだあらすじをもう一度思い返した時、鷹羽は僅かな違和感に足を止めた。
『オレにはキクくんの手の黒さは見えてないんですよ』
マスターはそう言っていて、だからこそ鷹羽に協力を求めてきていた。何故か当然のようにマスターは
【人々の笑い声の影で、黒き部屋は飲み込んでいく。人の願い、執着、欲望――人間が必ず持つそれらを黒い扉は飲み込んでいき、末路は肉体を求め彷徨う。失った肉体は肉塊となり、魂は人形となる。その前に手に入れなければいけない。開ける者を、視える者を、欲ある者を】
「視える、者……?」
そっと己の目元に手をやって、もう一度周囲を見る。
なんでだろうか、徐々に廊下が狭くなっているような気がする。鷹羽は背筋にゾワッと走る何かに気付かなかったフリをしてまた前に進み始めた。
開ける者。これを、扉を開こうとしたキクに当てはめられやしないだろうか。実際には犬飼に止められて開ききる事は出来なかったらしいけれど、少なくともキクは明確にドアノブか何かを握ったはずだ。だからキクの手は、あんなに黒かったのだろうし。
視える者。これを、マスターには視えなかったものを視た鷹羽だと当てはめた場合には、2名が埋まる事にならないだろうか。少なくとも、黒い部屋の中身をこんなにもハッキリ視ているのは今、鷹羽だけだ。
では、欲ある者とは一体誰の事だろうか? マスターは視えていなかったし扉を開いてもいないが、欲が強い人にも思えない。猫たちは論外だし、千百合もまだそんな年齢には当てはまらないだろう。
だとすると……犬飼?
いやそもそも「あらすじ」と合致する部分を探さなくったっていいのかもしれない。早足で廊下を歩きながら、鷹羽は乾いた笑いをたてながら何度もチラチラとスマートフォンの画面を見る。
廊下をどこまで進んでも、電波は圏外のままだ。そもそもこの廊下はこんなに長くはなかったはずだし、こんなに狭くもなかったはず。
どんどんと嫌な汗が吹き出してきて、鷹羽は酷く喉が乾いてきているのを感じていた。振り返れば、あれだけ急いで歩いたはずなのに背後にはまだ自販機がほんの数メートル戻ったあたりの場所にある。
その違和感には蓋をして、自販機に金を突っ込みたい気分になるものの薄くなりつつある理性で必死に乾きを我慢した。
だが、何回かチラチラと自販機を視た時――気付いてしまった。
廊下が狭くなってきているのには気付いていた。気付いていたけれど、それが何なにかは考えていなくって、気にしないようにもしていて……
だがそれが、人型の影だと気付いた時、鷹羽は反射的に廊下を真っ直ぐに走り出していた。
狭くなっていた廊下の正体は、その壁にある黒い何かは、全部人影だ。血管のようなものを全身に、特に頭部と胸部に沢山貼り付けた人間の、影だけになってしまった痕跡のような何か、だ。
人型のそれらはじわじわと黒い壁から腕を伸ばし、身体を伸ばし、少しずつ少しずつ、鷹羽に近づいて来ようとしている。
鷹羽を捕まえようと、手に入れようと、している。
「~~~~~っ!!」
悲鳴はもう、声にならなかった。ゾワゾワと凄まじい悪寒が背中を走って思考がめちゃくちゃになって、とにかく壁がまだ広い方向に向けて走り出す。
しかし向かう先どの壁も徐々に狭くなっていくのは変わらなくって、鷹羽の数メートル後方に自販機が立っているのもずっと、どれだけ走っても、変わる事はなかった。