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第16話 開通

「あ、鷹羽さんおはよーっす」

「おぅ、おはよう」

「ねぇねぇ鷹羽さん、黒い部屋って知ってます?」

 どうにも寝不足感が拭えないまま出社した鷹羽は、出社早々に途中で購入してきたエネルギードリンクを落としそうになってノートパソコンを派手に椅子にぶつけてしまった。

 書類だとか色々入っているので本体にダメージはないだろうが、微妙嫌な音がして思わず「うっ」と声が出てしまう。もう型式は古いタイプのものだが、大事に使っていた個人用の相棒だというのに。

「なに、大丈夫ですかぁ?」

「大丈夫……つか、何? 赤い部屋の亜種?」

「違いますよぉ。なんか最近学生の間で話題になってるみたいで」

「小金井、今何歳だっけ?」

「あー、セクハラ!」

 正面の席の小金井女史はケラケラと笑いながら眼の前のデスクだったり隣のデスクだったりの女性陣とワイワイやっているが、鷹羽としてはニコニコ出来るような状況ではない。

 最近話題になっている、なんてことはないはずだ。その「最近」が昨日からの話であるんだとしたらそれはその通りだろうが、昨日の今日でこんな風に一気に話題が広がるとは思えない。

 元々投稿作品の選別を行うことの多いこの部署の人間は耳聡い者が多いけれど、まさかこんなに早く職場で黒い部屋の話を聞くことになるとは思わなかった。

 鷹羽は今朝寝起きに朝イチでマスターには調べたものを共有しておいたが、この噂は驚くほどの速度で浸透していっているのかもしれない。

 それこそ、「今までも噂だった」かのような錯覚すら覚えてしまう程に着実に、水面下から足元までにじり寄ったものなのかも。

 ゾッとする。

 デスクに座って仕事用のノートパソコンにログインしつつ、エネルギードリンクのフタを開ける。正直この類のものは無駄に炭酸が強かったり甘ったるかったりで好きではないのだけれど、以前アメリカ出張で飲んだ時一晩眠れなくなった実績のあるドリンクをあえて買ってきて一口飲む。

 日本版のものはアメリカのものよりも成分が弱いというからまぁ大丈夫だろうと楽観視して、もう一口。

 けれど更にもう一口は、ログインしてすぐに手が止まって飲むことが出来なかった。


【人々の笑い声の影で、黒き部屋は飲み込んでいく。人の願い、執着、欲望――人間が必ず持つそれらを黒い扉は飲み込んでいき、末路は肉体を求め彷徨う。失った肉体は肉塊となり、魂は人形となる。その前に手に入れなければいけない。開ける者を、視える者を、欲ある者を】


 即座に鷹羽は表示されたそれを携帯で撮影し、マスターの携帯に送った。

 また小金井女史が「編集室ではカメラ禁止~」なんて言ってくるが、「はーい」と適当に答えるだけで相手にはしなかった。

 この画面を撮影していたと知られれば情報漏洩だの何だの言われたかもしれないが、幸いにしてモニターを撮影している所は誰にも見られなかったようで安心する。

 どうせこの「あらすじ」のことは誰に説明したって分からないだろうし、この内容のことだって誰にも分からないだろうから話をするだけ無駄なのだ。

 しかしまさかここで「あらすじ」が更新されるとは思わなかった。

 ここ数日一切動きのなかった「あらすじ」が不意に更新されたことにも驚いたが、やはりその内容にも驚いてしまう。

 これは、この「あらすじ」は、確実に現在の鷹羽の状況を知った上で更新されているようだ。一体誰が? と考えても今更のことだが、本当に「誰か」が向こう側に居るものだとも思えなくなってくる。

 何しろこの「あらすじ」を送ってきている存在の痕跡は一度も残されていないし、このパソコンに誰かが触れた痕跡もない。

 どこからか送られてきているのだとしたら必ずIPアドレスなどが残されるはずなのにそれもないし、メールアドレスの類も一切表示されていないのだ。

 愉快犯なのだろうかと一瞬思って、それは即座に否定する。

 愉快犯ではない。少なくとも、鷹羽にとっては。

 だってこれは、ある種の予言だ。

 今現在のことであることを考えると予知とは言えないのかもしれないけれど、その今現在の事象のことに関して鷹羽の知らないヒントのようなものも隠れているから、予言ではないと言い切ることも出来ない。

「末路……」

 無言でこの「あらすじ」を2枚ほどプリントアウトして一枚をバッグに押し込んだ鷹羽は、ペンで気になる所にチェックを入れ始める。

 こんな短い文章の中にも気になる所がこんなにあるだなんて。どうせ誰に聞くことも応えてくれることもないというのに。

 末路とは一体何のことだろうか。

 今朝マスターに送った情報の中に【血管に絡み取られれば、身体の全てを抜き取られる】という一文があったけれど、その抜き取られた先のことを言っているのだろうか?

 だがそうだとすれば【末路は肉体を求め彷徨う。失った肉体は肉塊となり、魂は人形となる】の文章とはイマイチ繋がりがないように思える。

 末路、という言葉は、そのままの意味で言えば「道の果て」だとか「人生の最後」だとかいう意味だけれど、その末路が【肉体を求め彷徨う】というのは、つまりはゾンビ的な何かだということだろうか。

(身体の全てを抜き取られて、その結果抜き取られた何かが末路となり、その末路は失った身体を探している……とか?)

 思いついたことを走り書きで残しておくけれど、やはりその前後が合わない気もする。末路が求めている肉体は肉塊となってしまうというのも、何となく意味深だけれど意味はわからないままだ。

 何より、鷹羽の認識として【身体の全てを抜き取られ】た後に残ったのは魂的なものだと思っていたのだが、【魂は人形となる】ということは魂とも違うということなのだろうし。

 もう、わからない。頭痛がしてくる。

「おう鷹羽ー、前回の冬季賞の資料どこやったっけかー」

「冬季のは多分2階の……あー、いやオレが取ってきますよ」

「お、悪いな」

「いーえー」

 いつもだったら2階の資料室に行くのは面倒で仕方がないのだが、今は頭を整理したかったのでちょうどよかった。

 鷹羽は頭を使う時にはつい歩き回ってしまうクセがある。歩いている時ほどいいネタが浮かんでくるというか、他にすることもないのでそれに集中出来るのだろう。

 そう自分で結論づけて、鍵棚から資料室のものを取り出して貸出ボードに名前を書くと、携帯だけをポケットに押し込んで廊下に出る。

 2階に行くと言ってもエレベーターは眼の前だし、資料室こそ廊下の端だが途中にお菓子の自販機もあるので何か物色するのも丁度いいだろう。

 普段はわざわざ別フロアになんか行かないから、これはちょっとしたご褒美かもしれない。尻のポケットにいつも押し込んでいる財布があるのを確認してから、エレベーターに乗り込んで2階のボタンを押す。

 それから、つくまでの僅かな時間の間にマスターからの返信があるかどうかを確認しようと携帯を取り出して視線を落とした。

 だが、エレベーターが動き出した瞬間に今まで普通に繋がっていた社用Wi-Fiが切断されモバイル回線だけに切り替わり、その直後にモバイル回線もまた切断されて通信が圏外へと変わってしまった。

 なんだ、と思った瞬間に、エレベーターは到着する。


 ギシギシ、ギシギシ、


 普段だったら絶対にしないような、軋んだ音をたててエレベーターのドアが左右にゆっくりと広がっていく。

 その軋みは床にまで振動を及ぼして、エレベーター自体が左右に振られて鷹羽の足元も揺れて、よろけて――眼の前に広がっている一面が真っ黒な壁に赤い血管が貼り付いているような光景もまた、ゆらりと揺れた。

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