「やっぱりお兄さんも見えるんですね、コレ……」
「い、いや見えるっていうか……え?」
「コイツのコレ……見えてる人と見えてない人がいるんです」
キクの手を握る犬飼の手にグッと強い力がこもったのが、その手の震えでわかった。
キクの手は、まるで炭化でもしてしまったのではないかと思ってしまうくらいに真っ黒だった。
一応確認をしてから触れさせてもらうと、きちんと手の感触はあるのでただ色が変わってしまっているだけなのだろうという事はわかるのだけれど、あまりにも真っ黒すぎて人間の手とはまるで思えない。
体温もどこか低いように感じるが、それはキクの元々のものなのか、それともこの黒い何かのせいなのかは鷹羽には判断がつけられなかった。
「痛みますか?」
マスターもじっくりとキクの手を見てから問いかける。
キクは少しだけ考えるような素振りをしてから「時々」と小さな声で言った。
「時々……疼くみたいに、苦しくなる」
「これはいつから?」
「……」
「……それは僕から、説明します」
再び黙り込んだキクに変わって、犬飼が神妙な面持ちで口を開いた。
思わず居住まいを正した鷹羽は会議のときのいつものクセで手帳を取り出し、ペンを握ってグッと口をへの字に曲げる。
犬飼の語った話は、鷹羽の理解には到底及ばない「意味のわからない」話だった。
この時期の学生特有の妄想か幻覚か何かか? と一瞬考えてしまった程に荒唐無稽で――ゾッとした。
もし犬飼が語った事が現実であったのだとしたら、それは、それはとんでもないことなのじゃないかと思って、淡々と語る犬飼の言葉を即座に受け入れる事が出来ない。
「黒い部屋という噂を、知っていますか」
「黒い部屋……?」
「はい。黒い部屋は、唐突に路地の一角に扉が出現するんだって噂になっているんです」
犬飼の話のはじまりは、昼に聞いた言葉によく似ていた。違うのは、語り主だけだ。
黒い部屋というのは最近高校生の間で話題になっている怪談話で、ある日路地の一角に黒い扉が出現し、その中に入ると自分も真っ黒になって死んでしまうのだという、どこにでもありそうな怪談話だった。
なんなら学校の七不思議あたりにもありそうな話に、鷹羽はちょっとだけ眉間を揉んでしまう。
「えぇと、君たちはその黒い部屋に入っちゃった……とか?」
「いいえ……」
「え、でもその手は?」
「これは……僕が黒い部屋に入ろうとしたのを、コイツが、止めてくれたから……」
犬飼の言葉を聞いて、鷹羽は小さく「あ」とつぶやきながらマスターを見た。
マスターはいつもと変わらぬ無表情で犬飼たちを見ていて、しかし鷹羽の視線に気付くと緩く口角を上げる。
犬飼が語った『助けてくれる場所』と『黒い部屋』の話はまるで逆のものだったけれど、共通点がある。
『いえ、路地裏に入ってこういう事があれば入れるカフェがある、っていう感じの噂が結構前からあって……本当に困っている人の事を助けてくれるって、聞いて』
『黒い部屋は、唐突に路地の一角に扉が出現するんだって噂になっているんです』
どちらも路地で、噂で、いつでもあるものではないという事だ。
1つ目がこの喫茶店の事を言っているのであれば、同時期に黒い部屋が出現していた場合には「もしかして」と扉を開いてしまわないとも限らない。
ただ違うのは、喫茶店には四匹の黒猫が出没して案内をしてくれる、という事だ。
でも【路地裏】に【見知らぬ扉】が出現していたならば、そしてこの喫茶店をよく知らない人間ならば、黒い部屋との見分けもつかずに開けてしまっても無理はない、かもしれない。
それにしても本当に真逆の話だ。
1つ目の噂は「本当に困っている人を助けてくれる」扉で、2つ目の噂は「中に入ったら人を呪い殺す」噂。
本当にこの喫茶店が1つ目の噂の場所なのかは鷹羽にはまだ判断がつかないが、犬飼がここに辿り着いたのは実は奇跡なんじゃないか? と思ってしまう程の確率だ。
「噂……噂、かぁ」
噂。コレに関しては、鷹羽はつい最近マスターから話を聞いたばかりだった。
先日鷹羽が遭遇した妄執霊。その発端になったものこそが噂であり、その噂は誰かによって語り継がれ、撒き散らされた結果発現したものなのだ。
もし黒い部屋もまた同じ性質を持っているものであったのなら、高校生たちの間で噂になっているというのは大きなキーになっているような気がする。
もし本当にあればの、話だが。
「その扉を……君は見たって事でいいのかな」
「……多分」
「多分?」
「自分では、わからなかったんです。ただ眼の前にある扉を開けようとしたら、コイツが」
コイツ、と肘で示されたキクはまだ猫を抱っこしたままこちらには興味なさそうな表情でどこか違う場所を見ている。
腕は本当に痛いのかブラブラと触られないようにしていて、その手のまま猫にも触れないように気をつけているようだった。
犬飼が開こうとした扉を、キクが制止したのだかで黒い扉に触れてしまった、という事だろう。
2人がどういう関係かは知らないが、少なくとも同じ高校なのだろう事はわかるし犬飼を止めようとする程度にはキクは犬飼と親しいのだろう。
「2人は……じゃあ、なんか幽霊とかそういうのが見える体質って事でいいのかな」
「まさか。そんなもの見えたことないです」
「あれ? じゃあ、キクちゃんは?」
「……ちょっとだけ」
キクちゃん、で良かったんだろうか。キクくん、かもしれないけど、訂正されないからまぁそれでいいか、と思いながら手帳にもう一つメモを追加する。
犬飼は本人が言う所によると幽霊は見えない体質。
キクは本人が言う所によると幽霊はちょっとだけ見える体質。
だが、黒い扉を開けようとしたのは犬飼で、キクはそれを止めた方だ。キクは今まで黒い部屋を無視をしていという可能性もあるけれど、犬飼はなんで黒い部屋の扉を開けようとしたのだろう。
開けようと、出来たのだろう。
「うーん。その噂の中に黒い部屋はどういう条件で出てくるとか、そういうのはあった?」
「いえ。ある日突然眼の前に現れる、とは言われていましたけど……」
「それじゃあわかんないよなぁ。犬飼くんは幽霊見えないのに黒い部屋に入れそうだったんでしょ?」
「そう、ですね……」
「なんだろう。オレはそういう扉見たことないし……何か別の条件があるのかな」
考えたことなかった、と言いたげに目を瞬かせる犬飼はやはりちょっとまだ考えの浅い若さみたいなものがある。
彼が扉に触れようとした前後の話とかもあればもう少しわかるのかもしれないけれど、それも期待は出来ないだろう。
……ていうか、なんでオレがこんなインタビューしてるんだろう?
ふと我に返った鷹羽がマスターを見ると、マスターは軽く顎を引いて肯くような素振りを見せてから
「なんで君の前に現れたかと言えばね、黒い部屋は呪いだから、だろうね」
なんて、鷹羽も想定していなかった一言をアッサリと言い放った。