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第12話 学生

 コーヒーを飲む気にもなれず甘ったるいジュースを飲みながらなんとか午後の仕事を終わらせた鷹羽は、今日も今日とて残業を言い渡される前に素早く会社を飛び出した。

 勿論新たに届いた「あらすじ」もプリントアウトして、栞の挟まっている手帳もバッグの中にしっかりと押し込んである。

 夜にあの喫茶店に行くなんて、余程疲れ切った夜以外にはあまりない事だ。

 何時に店が閉まるかわからないというのもあるけれど、やはりいちばん大きな理由は財布の問題。

 ランチプレートは1000円ちょっとで頂けるが、夜のグランドメニューともなるとやはり昼よりもお値段がかかるので昼の安寧を守るためにも疲れ切った日以外には給料日やボーナスが出た日くらいしか足を運んだことはない。

 なのでちょっとばかり浮かれている自分が居るのも本当で、危うく裏口のある路地を通り過ぎそうになってしまって慌てて少しだけ路地を戻る。

 その路地は相変わらず薄暗く、街灯もあるし近くにはビルや大通りだってあるのにどうしてか静まり返っているのを見るとこの時間だというのにちょっとした異界感があった。

 鷹羽の地元にも何故かいつもひっそりと人気のない路地なんかはあったけれど、ここはまた別格かなと思ってしまう。

 ここで遭った酷いメと、この先にある店がそう感じさせるのかもしれないけれども。

【黒猫茶屋裏口古書店】

 堂々とそう書かれているシャッターの前に立ち、マスターに貰った栞を手にする。

 今気づいたが、栞についているリボンは赤色をしていてなんだかマスターの飼っている猫の首輪を思わせた。

 なんでこんなに目立つものに全然気付かなかったのだろう。今更不思議に思いつつ栞から顔を上げるとシャッターがガラガラと派手な音をたてて開いた。

 しかしそこには誰も居らず、赤い首輪をした黒猫がちょこんと座って「にゃあん」と可愛らしい声で鷹羽を出迎えた。

「えっと……入っていいって事かな?」

「にゃぁん」

「お邪魔します」

「にゃぁ」

 猫というのはどうしてこう鳴き声も姿形も可愛いのだろうか。

 一人暮らしの鷹羽はペットを飼うことを諦めているので、こうして喫茶店で猫に出会えるときゅんきゅんしてしまう。

 勝手に開いたシャッターだとかは無視だ、無視。気にしてはいけない。

 そういえば、この古書店は【黒猫茶屋裏口古書店】なのだから、喫茶店の方は【黒猫茶屋】という事だろうか。

 不思議な話だが、鷹羽は今日になるまであの喫茶店の名前を気にしたことがなかった。ただ日常の中に存在し、いつの間にか好きになり、いつの間にか常連になっていた。

 あんなにも好きな場所なのに、なんで店の名前が気にならなかったのだろう。

 それに……マスターの名前は、そういえば、聞いたこともない、ような?

「にゃあ」

「あ、ご、ごめんよ。今入るね」

「にゃあ」

 古書店に入る前に思考の波に飲まれそうになった鷹羽は、猫の声で慌てて古書店の敷居をまたいだ。

 感覚的には、「現実」と「古書店」の間を飛び越えた感覚だろうか。どちらも現実だというのになんだってこんな事を思うのだろう。不思議な気持ちだ。

 古書店自体は、実に普通の店だった。

 人一人が通れるくらいの細い通路を残して木製の店がぎゅうぎゅうに設置され、本棚の中にはこれもまたぎゅうぎゅうに本が詰め込まれている。

 普通に最近の本の古本なのだろう店もあれば、背表紙に一切タイトルの書かれていない棚もあって、つい興味深くひとつひとつの棚を見てしまう。

 それから、背表紙にタイトルが書かれていない棚には「貸本」と書かれている事に気がついた。

 振り返って市販の本の棚を見てみると値段が書かれているものもあるから、どうやらここだけ売り物ではない、らしい。

 面白いな。普通に営業していればオレ絶対常連になるのに。

 なんて考えつつ、足元にスリスリと身体をこすりつけてから進む赤い首輪の黒猫の後について歩く。


「いらっしゃい、鷹羽さん。お待ちしていました」


 そうして進んだ先には、喫茶店があった。

 どうやらすでに待っていたらしいマスターがトレーにアイスのグリーンティーなのだろうグラスをいくつか乗せていて、鷹羽に背を向ける位置の椅子に座っている人影がふたつある。

 そこで鷹羽は「おや」と思ってしまった。

 以前この家の中に入れてもらった時、古書店と喫茶店の間には住居部分に入るための、なんと言えばいいのか、通路のようなものがあったのだ。

 一段高くなっていて、カーテンやドアで区切られていて、上への階段がある廊下。そういう所があって「なるほどそうやって区切られていたのかー」なんて思った記憶があったのに、今ここまで来た時にはそういうのはなかった、ような。

 ……まぁ、今更驚く事ではないのかも、しれないが。

「どうぞ、こっちの席へ」

「あははーもう何が起きても驚かなくなってきました」

「順応性が高い人好きですよオレ」

「あははやったー」

 マスターは今日は珍しく洋装で、なんだかカフェのギャルソンみたいだ。

 いやここは喫茶店なのだけれども。なんだかもう脳がバグってきてどうでもよくなってきているような気がする。

 頭がバグを起こしたまま赤い首輪の黒猫と共にマスターに示された席につくと、そこは先にこの店に来ていた客人?の真向かいだった。

 つまりは、マスターの席の隣だ。

 えぇ、こっちですか……なんて思いつつも少し躊躇した鷹羽は、しかし逃さぬぞとばかりにササッとアイスグリーンティーとくず餅を出されたので何も言えなくなってしまう。

 ここでくず餅は卑怯だ。

「こちらのお二人が相談があるらしくて。鷹羽さんにも聞いてもらおうかなと思いまして」

「なんでオレなんです……?」

「無関係じゃないかな、と思いまして」

 自分も席につきながら微笑むマスターに、ちょっとだけ鷹羽はギクリとしてしまった。

 鷹羽のバッグの中にはまた増えた「あらすじ」をプリントアウトしたものがしっかりと収まっている。昼休み後に来ていたものだからマスターは勿論知らないはずなのに、何でもお見通しなのではと、ちょっと思って、しまった。

「えぇと、このお二人は?」

 なので、あえてにっこり笑顔のまま話題を切り替えてやった。

 マスターはにっこり笑顔だし猫たちも可愛らしい表情のままだが、眼の前に座っている2人の顔には明るい色はまったくない。

 どちらかが制服でも着ていてくれれば高校生か中学生かくらいは判断がつきそうなものだったが、どちらも私服のようなのでどうにも判断はつかない。

 ただ2人ともそこそこ背が高いのでスポーツをやっているのかもしれないなと、自分の学生時代を思い返しつつ鷹羽は思う。

「……犬飼景一朗いぬかいけいいちろうです。高校1年です」

「背、高いね。スポーツやってる?」

「水泳を……」

 あぁなるほど、だからこの犬飼くんという子の髪の色はちょっと茶色っぽいというか赤茶っぽい色をしているのか、と納得する。

 鷹羽自身は水泳部に所属をしていた事はないが、陸上だとか水泳をしている人の髪の色は徐々に抜けていきやすい、とかなんとか聞いたことがある。

 そのせいで染髪禁止の学校では地毛の証明書がいるとかなんとか。

「……キク」

「へ?」

「おい……」

「それだけ。別に、いいでしょ」

 犬飼が自己紹介をした事で自分もしなければならないと思ったのか、鷹羽からは斜め前になる位置に座っているもう一人の子の方がぽつりと呟いた。

 名前とも思えないその単語に慌てて犬飼が肘で自称キクちゃんをつついたけれど、本人はいつの間にか青い首輪の黒猫を抱いたまま視線を上げる事もなく黙り込んでしまった。

 キク。菊、だろうか。ふむ、と顎を撫でつつつマスターを見ると、いつの間にかマスターはノートのようなものを取り出してそこに何かメモをとっている。

 あ、そうか、こういう場面ではそうするべきなのか。

 編集者にあるまじき醜態にちょっと慌てたが、鷹羽の視線に気付いたマスターに促されて若者たちを見ると、犬飼はもうキクの口を開かせるのを諦めたのか溜息を吐いて「すみません」とだけ言った。

 水泳をしているという犬飼と比べてみると、キクは小柄で華奢だ。

 犬飼が高1という事だからキクの方もそうなのだろうが、こんな時間にこんな場所にいて大丈夫なのだろうか。

「それで、あの……ここには何を?」

「昨日、キクを連れてもう一度来いと、言われたので」

「昨日?」

 ちらりとマスターを見ると、マスターはまた笑顔だけで返してくる。

 なんでだかは知らないが、口を挟むつもりはないらしい。犬飼もキクも神妙な表情をしているというのに、彼だけは妙に余裕っぽくて一人だけ別の場所に居るかのようだ。

「その、ちょっと困っている事があって……そういう時にやってみるといいっていうおまじないをSNSで見て、やってみたらここに来たんです」

「お、おまじない?」

「はい」


【ひとつ、そこに行って黒猫に出会ったらお前はおかしなものを見ている】

【ひとつ、2匹目の黒猫が出てきたらお前は疲れている】

【ひとつ、3匹目の黒猫が出てきたら、お前は追い詰められている】

【最後に、4匹目の黒猫はお前をそこに導くだろう】


 犬飼が語った言葉の中身に、鷹羽は思わず仰け反って驚いていた。

 思わずマスターの方を見ると、マスターも興味深そうな顔はしているもののそれ以上の反応は見せていない。

「こ、この噂でここに……?」

「いえ、路地裏に入ってこういう事があれば入れるカフェがある、っていう感じの噂が結構前からあって……本当に困っている人の事を助けてくれるって、聞いて」

「へ、へぇ……?」

 路地裏、四匹の黒猫、カフェ。

 それぞれがこの喫茶店に合致しているし、なんならそれぞれのシチュエーションに関してもあの時鷹羽が遭遇していたシチュエーションを模しているのではと思えるくらいに似ている話だ。

 でも鷹羽はこんな噂は知らなかったし、そもそも喫茶店の常連だったので助けを求めてここに来たとかそういう感じではなかった。

 もしこの噂が本当にこの喫茶店の話なのだとしたらその微妙に噛み合わない所が気になるし、本当にこの喫茶店の話なのかも気になってしまう。

 いつからこんな噂が流れていたんだろうか。SNSは結構色々やっているつもりだったが、鷹羽はまったく知らなかった。

「つまり」

 話を聞きながら考え込む鷹羽の隣でノートをとっていたマスターが、不意にノートを閉じてテーブルの上に乗せる。

 その目は眼の前に座っているキクをじっと見つめていて、話をしている犬飼の方は見ていなかった。

「君たちは、”本当に困っている”という事で間違いはないかな」

「あっ」

「…………」

「はい……」

 あ、と思わず声を出してしまった口をパッと手で閉じて、鷹羽は黙り込んだままのキクとキクの手を取って頷く犬飼の方を見た。

 キクの着ているのは学校指定のジャージなのだろうかよく見ると学校名が書いてあって、しかしサイズが合っていないようで指先まですっぽりと隠されてしまっている。

 そのせいでキクが男の子なのか女の子なのかわからなくなって、それがキクのミステリアスさを強めているような感覚になって鷹羽は口に当てていた手をソロソロと下ろしながら犬飼が差し出し、ゆっくりと袖をまくられていくキクの手を見る。


「見て下さい」  


 そしてまた、「あっ」と、声をあげてしまっていた。

 キクの指は何かスポーツをしているような胼胝たこのあるしっかりした指で、けれど手のひらは犬飼と比べるとどうしても小さい。

 しかしそれよりも、そんな事よりも。

 キクの手が爪の先から肘にかけて真っ黒に変色しているのを見て、先日電車でみたあの真っ黒い怪異を思い出して背筋に怖気がたった。

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