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第8話 古書

「鷹羽さん」

「う、わっ!」

「立てますか? 千百合が騒いでいる間に、店の中にどうぞ」

 ぎゅーっと耳に手を押し付けて必死に音を聞かないようにしていた鷹羽は、しかしまたもや予期せぬ声に驚いて飛び上がってしまった。

 冷静に考えればあれだけシャッターを叩き続けていたのだから音に気付いた人が出てきてもおかしくはないのだが、外の情報をシャットアウトしていた鷹羽にはあの怪異くらいに驚く事だったのだ。

 あんなものがもう一人増えてしまったら?

 想像したくもない。

「ま、マスター……?」

 叩き続けていたシャッターはいつの間にか開いていて、その前に立っているのは喫茶店の方でもよく見る色の濃い着物を来て黒猫を連れたマスターだった。

 マスターはちらりと千百合の方を見はするが、それ以上は特に何もせずにへたり込んでいる鷹羽の腕を掴んで無理矢理に立たせようとする。

 しかし鷹羽は完全に腰が抜けてしまっているのか、一度立ったもののすぐに身体がぐにゃりとへたり込んでしまう。

 全身尋常ではない汗でびっしょり濡れていて、手だけではなく歯の根すら合わずにカチカチと音をたてていた。

 それを見てかマスターは軽く溜息を吐くと鷹羽の脇の下に腕を回してズルズルと建物の中に引きずっていく。

 マスターを手伝おうというのか、猫たちが袖やズボンの裾を噛んで引っ張ってくれているのがなんとなく可笑しかった。

 だがその間にも、外からはパキパキと音がするし、ぽたぽたと何かが落ちていくような音は段々と近付いてきている、ような気がする。

 思わずまた耳を塞ぐと、マスターは近くにあった何かを手にとると床に座り込んでいる鷹羽をヒョイと跨いで外に出ていった。

「千百合。程々でいいよ」

「うーん……」

「ちゃんと、お片付けはしておくからね」

 マスターが手に持っているのは、一冊の本だった。

 鷹羽は耳を塞ぎながらもどうしてもその本から目を離せずに視線だけをマスターに送り、しかしその先に居るあの黒い影が視界に入ってくるとどうしても目をぎゅっと閉じてしまう。

 恐ろしい、を越えて、ただただ嫌だ、と思ってしまった。

 あの謎の黒い影がとにかく嫌で、音も聞きたくなくて、身体を丸く小さくして縮こまってしまう。

 そんな鷹羽の姿を横目にしたマスターは、熱を持つアスファルトを雪駄で踏みしめて黒い影に近付いていく。

 黒い影は、何かを叫んでいる。

 だがその声にはならない声ははマスターに聞こえることはなく、まるで何かの壁に体当たりでもしているかのように何も無い眼の前の空間に必死に歯を立てていた。

 縦に長く開いた口の中には明らかに人間のものなのだろう歯が並んでおり、しかしそれは一列ではなく何列も……言ってしまえば一列に並んでいたものがぐちゃぐちゃにズレてしまったような有り様だった。

 その奥は真っ暗で何も見えなくって、見えるのは恐らく頭頂部に開いているのだろう穴から見えるこの怪異の向こう側に居る千百合の姿だけだ。

 黒い怪異はこの穴から延々と何かを垂れ流し続けていて、その液体は千百合だけを避けて徐々に地面を侵食しつつある。

 こういったモノにおいての黒い色は、悪霊に転化しつつある危ないものだ。

 この怪異に関しては最早転化しきってしまっていると言ってもいいだろう。

 恐らくは、”気付いた”鷹羽に対する執着のせいだ。

 気付いて欲しい。

 この苦しみを知ってほしい。

 自分を――弔って欲しい。

 そんな思いから”気付く”者に取り憑く者は多い。この怪異へと転化してしまっている幽霊も下はただの地縛霊であったり浮遊霊であったりしたものだろうが、鷹羽が”気付いた”ことで心に残っていた僅かな執着心が一気に爆発してこうなってしまったのだろうか。

 だとしたら哀れなことだ。

 この怪異も、鷹羽も。

 どんなに叫んでもこの怪異の声は鷹羽に届くことはないし、鷹羽はただただ恐ろしいだけだろう。

「なに、心配することはないよ」

 ジャリ、と音をたててもう一歩怪異に向けて進む。

 足元にあった黒い液体は、まるでマスターを避けるようにススッと奥に引いた。

 怪異の黒い体液を追うように真っ直ぐ進むマスターは、怪異が再びガンガンと見えない壁に体当たりをし始めたのも意に介さずに持っていた本をペラリとめくる。

 本文は最初に数ページしかない、真っ白な本。

 作りは古風で、まるで古い時代に手作りされたもののようにも見えるその本は、マスターの手の中で風もないのにパラパラとページを繰っていく。

 ギョロリと、黒い怪異の、恐らく目だろう部位がその本を見た。

 見たと言っても、顔が半分以上捻じ曲がっているような有り様だから目の状態もお察しで空洞になっているそこから覗いているのは眼球の残骸なのか、それとも視神経が残ったものなのか。

 それでもハッキリとこちらを見て、大きく開いて見えない壁に齧りついていた歯を噛み締めて上へ下へとギリギリと鳴らし始める。

 物凄い力で閉じられ歯同士が擦り合わされる音に、見えない所に居る鷹羽もすぐ近くに居る千百合も耳を塞いだのがわかった。

 この音は不快だよなぁと軽く笑いながら、マスターはまた一歩前に出る。

 近付けば近付くだけ本のページは早く繰られ続け、怪異の歯軋りもまた強くなる。

 あまりにも強い力で繰り返される歯軋りに、徐々に歯が歯茎なのだろう場所に沈んでいくのが見えた。

 ブチブチと何が千切れているのかもわからない音と硬質なものが割れるような音がして、歯茎だろう場所から黒い液体が吹き出す。

 この怪異は喋れない。喉が潰されて、恐らく声帯と同じ役割をする場所が無くなっているからだ。

 だからこそこれが、この者の声なのだろう。そう、理解する。


「大丈夫さ。君のことはちゃんと記録される」


 ガヂュリッ

 怪異の歯がついに歯茎を突き破り、本来は顎となるべきなのだろう顔の脇を歯が突き破って黒い体液が後頭部からだけではなく顔面の左右からも吹き出した。

 飛び散ったそれを、マスターが下から掬うように手にした本を上に持ち上げてページに染み込ませていく。

 千百合にとっては見慣れた光景だ。

 真っ黒い液体がページに取り込まれて、うぞうぞと紙魚しみのようにうごめきながら千切れて、かすれて、文字になっていく。

 そうして沢山の黒い液体が本に染み込み終わった後には、真っ黒い怪異は居なくなっていた。

 後に残っているのは、千百合と、猫と、重そうに本を持つ和服の男だけ。

「お店に戻ろうか、千百合」

「うん!」

 そして2人は、何事もなかったように【黒猫茶屋裏口古書店】へ向かっていく。

 そこに座り込んでいる鷹羽が生々しい音についにやられて床に突っ伏しているのは、2人にとってはオマケのようなものだった。

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