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第7話 裏口

 昼休みを告げるチャイムをこんなに待ち遠しく感じたことはない。

 鷹羽はノートパソコンをログアウトさせて勢いよく立ち上がると、2種類のあらすじをプリントアウトした紙を手帳に挟んでいそいそと外に向かって駆け出していた。

 荷物は手帳とペンと財布くらいだが、金さえあれば昼飯は食えるので問題あるまい。

 途中で何か手土産でも買えればいいかもしれないが、お店をやっている人に食べ物を差し入れしても喜ばれない気がしてそれはやめておいた。

 今日すでに世話になっているしこれからも世話になることが確定している人に手土産もなしというのは社会人としてはモヤモヤするのだけれど、丁度いい手土産も浮かばないので今日のところは諦めて大人しく喫茶店までの道を歩く。

 ちょっと歩いた所にあるデパ地下なんかではいいお菓子でもあるかもしれないが、そこまで往復してから喫茶店で食事をとっていたらそれだけで昼休みが終わってしまいそうだ。

 それにしても、今日も暑い。

 朝に出版社を飛び出した時には暑さなんかを感じる余裕もなかったけれど、頭が冷静な状態で浴びる昼間の日差しは容赦なく鷹羽の身体を貫いた。

 そういえば日傘、最近は男の人でも持ってる人結構見るなぁ、なんて思いつつも自分が日傘をさしているビジュアルが中々シュールに思えて諦める。

 日傘にどういう種類があるのかも知らないし、そもそもどこで購入すればいいのかも分からない。

 こういう場合ネットで検索して買うのが一番かもしれないが実物を手にしないと良し悪しも分からなさそうだし、こういう事は女性に聞くのがいいのだろうか。

 だが、もう半月もすれば秋になるのに今更もう要らないような気もする。せめてあと一ヶ月前に思いつくべきだった。

 そんな事を考えつつ暑さに後頭部を焼かれながらダルダルと歩いていると、無意識に曲がる予定の道を間違えたことに曲がった瞬間に気付く。

 いやこれは、正しくは「分かっていた曲がった」のだ。

 ここは間違っていると、喫茶店の入口はあと一本道が先だとわかっていたのに、分かっているのに足が勝手に動いて進んでいた。

 まるで誰かに、この道を選ばされた、ような。

 ゾワッ、と、背筋に冷たいものが走る。この暑さの中で瞬間的に汗の意味が切り替わったような、そんな感覚。

 いやこれはただ少しボケていただけで別に特別な意味なんてない、なんて自分に言い聞かせてみても、それはただの逃避でしかないと自分でも分かっている。

 良くないものだ。

 これは、良くないものだ。

 なんとか路地を戻ろうと思っているのに、ほんの数メートルを戻る事が出来ない。

 どころか、【戻ってはいけない】とでも言いたげな圧を背中に感じてしまって、せめてその圧から少しでも逃れようとフラフラとしながら前に進む事しか出来ない。

 これがアレと関わりがあるのかは分からないが、本当に「昼頃まで」しか千百合の威嚇とやらは効果がなかったようだ。手土産を買うかどうか悩んだほんの僅かの時間をただただ悔いる。


パキッ……


 背中を押されるようにヨロヨロと一歩ずつ進みながら、額を流れる汗を必死に拭う。

 すぐ近くだからとハンカチの位置枚も持ってきていなかったことに、今気付いた。ハンドタオル、いつもは持ち歩いているのに。


パキ、パキパキッ……


 背後から聞こえてきている音から必死に意識をそらして、鷹羽は一歩ずつなんとか背後の気配から逃れようと試みた。

 だってあの音は――あの音は、電車で聞こえてきた音と、同じものだ。

 長い、長いあの首。

 長いというよりも無理に引き伸ばされたようなあの首が、時折ぐるんと周囲を見回すように不自然に動いてまるで鳥のもも肉のように筋肉と関節が別れて穴が空いているように見えたのを、まだ忘れられない。

 その僅かな空間にも皮膚のような薄っぺらいものや学生時代に教科書でみたような血管の痕跡を見てしまって、人間の関節だとか筋肉とは案外丈夫だなとか、そんな風に思ってしまった記憶が、こびりついて離れない。

 そんな事を考えている場合じゃなかったのに、どうしてか少し冷静な部分の頭が電車の中で目撃したあの姿を何度も何度も脳裏で再生し続ける。

 追ってきたんだ。

 朝に追ってきていたのは、喫茶店のドアを叩き続けていたのは本当にコイツだったんだ。

 納得をすると同時に、鷹羽はこのままコイツに好き勝手されるのはとても癪だと、初めて怒りが恐怖を上書きしていく。

 出来る事など何も無い。何もないのだけれど、何もないという事がひどく無力で、愚かだと思ったのだ。

 悔しい。

 震え続ける手を胸元で抱え込むようにして抱き込んで、フラつく足を悔しさという感情だけで支えてなんとか先に進む。

 背中を真っ直ぐに伸ばしてなんでもないフリをするのが、鷹羽に出来る唯一の対抗だった。

 お前なんかなんでもない。

 怖くもないし意識なんかしていないのだと、そう振る舞うのが今高場に出来るギリギリの事だった。

 しかしそんな態度は、足の震えからくるよろめきでアッサリと無意味なものになってしまう。

 ガシャン、と近くの店舗の閉じたシャッターに手ついた鷹羽は、いつもの喫茶店へ向かうのとは一本しか違わないはずの路地に見覚えのない看板がある事に気がついた。

 この辺の路地は、編集部に入社する際にあちこち探検してある程度把握していたつもりだったのだけれど、その店の名前は見た記憶がない。

 あの喫茶店も隠れ場的に路地裏でひっそりと運営していて見つけた瞬間は嬉しかったものだが、真裏にこんな名前の店があるとは知らなかった。

 今はシャッターが降りているがそのシャッターはそこそこ年季の入っていそうな古風な色合いで、達筆な書道家が記したかのような手書きっぽい筆文字には見覚えがない。

【黒猫茶屋裏口古書店】

 知らない店。

 なのにその名前には何となく既視感があって、鷹羽は震える膝をなんとか奮い立たせてその閉じられたシャッターにかじりついてバンッと強く数回叩いた。

 声が出ない。

 ヒュウヒュウと情けない呼気しか出てこない喉をなんとか引き絞って助けを求めようと思うのにそれも出来なくて、あまりの情けなさにまた強くシャッターを殴る。

 パキ、パキ、パキッ

 シャッターを殴る音の合間に聞こえてくる音に、ゾワッと背筋が粟立った。

 見てはいけない。てはいけないと自分でも分かっているのにあまりに異様な音につい背後を振り返ってしまって、鷹羽は自分がやらかしたそれにひどく後悔した。

 笑ったのだ。

 アイツが。

 電車の中でたものと寸分の違いもないその姿に一瞬肺が呼吸を忘れる。

 路地は薄暗いとはいえ真っ昼間のオフィス街であんなモノに遭遇するなんて。

 あんなモノに、出会うなんて。

 ソレは、やはり電車の中でたのと全く同じような速度でゆっくりゆっくり鷹羽に近付いてきていた。

 普通の人間の身体であれば両手と言えるだろう細長いものを左右にブラブラと揺らし、けれどその両手らしきものは途中でちぎれたり折れて変な方向に曲がっていたりといびつで。

 あぁ、あぁちゃんとてはいけないと分かっているのに、目が追うのをやめられない。

 アイツの身体は、おかしかった。おかしくない所なんかなかった。

 何かに轢き潰されたような首は未だパキパキと音をさせてそれでも必ず目が、恐らく目なのだろう落ち窪んだそれは鷹羽を見ていて、捻じ曲げられ縦方向に裂けているように見える口は今確かに――笑っている。

「ア……ァ……ッ」

 バンバンッ、とまた、シャッターを叩く。もう必死で、近所迷惑なんかは考えてもいられなかった。

 アイツがこんなにもゆっくり歩いているのは、腰が逆方向についているからだ。

 腰が、腰から下が、上半身とは逆方向を向いているのだ。

 上半身は鷹羽の方を見ているのに、腰から捻じ曲がっているのか鷹羽からえるその足はかかとが前に来ている。

 つまりはアイツが遅いのは、下半身だけが反対を向いているせいで後ろ歩きのような格好になっているから遅いだけだったのだ。

 もしあの腰が何かの拍子で元の方向に戻ったりなんかしたら確実に、鷹羽はもっと早く、あの電車の中でアイツに捕まっていただろう。

 いや、何故捕まると、思ったのだろう?

 わからない。わからないけれど、アイツは鷹羽を捕まえようとしている。

 わからない。わからないけど!


にゃぁぁん……


 バンッ!

 もう一度強くシャッターを殴った時、どこからともなく聞こえてきた猫の声に動きを止める。

 猫の声は二度三度、最初の猫の声に呼応でもしているかのように続いては止まり、また応じるように鳴く。

 その声を嫌ったのかそれとも猫を探そうとでもしているのか、アイツは更に忙しなく首をあちこちに向けてパキパキどころではなくバキバキと、今にも首が折れてしまいそうな音を立てて暴れている。

 両手をブンブンと振り回して、折れている腕は見ているこちらが哀れになるほどに無惨に揺れていた。

 猫の声は、止まらない。

 にゃぁんにゃあんと。人間が聞いている限りには可愛らしい声で鳴き続けるその声は、しかしどこから聞こえてきているのかはサッパリ分からない。

 だが今立っている場所が場所なだけにきっとあの子たちなのだろうという確信が鷹羽にはあった。

 あの4色の首輪の黒猫たち。あの子たちが、近くにいる。

 ここに居るのは、間違いじゃあない。


「だめなんだよー」


 いや、それだけじゃない。一体いつそこに居たのかは分からないが、アイツの後ろに、アイツの背後に、麦わら帽子をかぶり白いリュックの肩紐を両手で握っている少女が、そこに居た。

 千百合。そしてその足元には、二匹の黒猫。

 いつの間に、という気持ちと、助かった、という気持ちとで安堵で身体から力が抜けてその場に座り込んでしまう。

「いいひといじめしちゃ、だめなんだよー」

 バキバキバキッ

 千百合が近付くと、アイツが全身を振り回して何か抵抗でもしようというのか暴れまわり始める。

 折れかけていた腕はついに千切れて地面に落ち、さっきまで笑みを浮かべていた口は大きく開かれて喉の奥から呻くような、音の低い金管楽器のような音がし始めている。

 その音も、どうしてか猫の声には勝てずに鷹羽にはうまく届かないのだけれど。

 アイツの動きは捻じ曲がった腰が邪魔しているのか、鷹羽の方にも千百合の方にも、どちらにも動けていない。

 ただジタバタと同じ場所で暴れるソイツを見る千百合の目は、年齢にそぐわないほどに冷ややかだった。

 千百合の言葉はまるでその怪異を諭すかのようなものなのに表情がそれに合っていないような……怪異がただ過敏に反応しているからそう感じるだけなのか、鷹羽にももうよくわからなくなっていた。

「ついてきちゃ、だめっ」 

 にゃぁぁんっ

 千百合と猫が呼応するように声をあげると、今度は怪異の動きがピタリと止まる。

 そういえば、コイツの足音は一切しないのが不気味だった。身体の関節だとかそういうものが動く音はするのだが、ジタバタと動いている足が地面を叩く音はしない。

 鷹羽はそれがまた酷く嫌だと感じて反射的に耳を両手で塞ぐ。

 足音はしないのに、目を閉じてしまえばこの光景から自分をシャットアウトすることだって出来るのに、どうしてかそれが出来ない。

 逃げればいい。それだけなのに足が動かずに、ただ耳を塞ぐ事だけが今の鷹羽に出来た唯一の行動だった。

 しかしどうしてか耳を塞いでも音は響き続け、パキパキという音が耳の奥なのか頭の奥なのかわからないが意識のどこかで響き続けているかのようだ。

 猫の声も、千百合も、ここに居るはずなのに。

 鷹羽は、今にも座り込んでしまいそうなほどに足の力が抜けてきているのを感じながらも額から流れ落ちる汗を手で拭いながら、千百合の声がする方へ意識を向けた。

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