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第6話 認識

『彼はね、貴方に”認知”された事で貴方に執着してしまっているんですよ。あぁいう存在は、普通は”認知”も”認識”もされないものです。でも、貴方はアレを見て、アレに恐怖してしまった。だからアレは、貴方にもっと自分を識ってほしくて仕方がないんです』

 頭の中でマスターの話していた事を反芻しながらノロノロと編集部に戻った鷹羽は、ガシャン、と少々やかましく崩折れるように椅子に座ると、そのままデスクにノートパソコンを置く勢いで倒れ込んだ。

 まだ混乱していて、何が起きたのかまったく整理がつかない。

 さっき何があったんだ? と、一体何度自問自答した事だろうか。

 そんなに何度も自分に聞いた所で返って来る応えなんかありはしないし、何か言葉が返ってきたとしても解決策にもならない「何があったんだろうね?」という、結局はただ呆然としているだけの言葉でしかないだろう。

 そのくらいに、ワケがわからなかった。

『貴方は彼の姿を見た。つまりは、”認知”したんです。彼がここに居るという事を認めてしまった。そして彼もまた貴方が自分を”認知”した事に気付いてしまった……そうなれば、あぁいう類の連中は今度は”認識”してほしくって直接的な手を使ってくる事が多いんです』

 認知。認識。

 鷹羽は編集者だ。勿論言葉としては知っている。

 では具体的にその言葉の違いは? と聞かれると一瞬言葉が詰まってしまうけれど、似たような言葉でありながら明確な違いがあるのは分かっているのだ。

 認知というのは簡単に言えば、「何かがそこにあると認める」という事だ。マスターの言葉を借りるなら、鷹羽は電車の中であの理由のわからない存在をてしまった。

 あの存在に気付いて、恐怖して……それはつまり、アイツが「居る」という事を認めてしまったという事にほかならない。

 迂闊だった。子供の頃は無視する事だってちゃんと出来ていたのに、久しぶりすぎて無視する事が出来なかった。

 そして認識とは「何かの本質を認め、理解すること」だと思っていいだろう。

 この状況であれば、アイツは鷹羽に「自分という存在を理解して欲しい」と思っていた、ということだろうか。

 いやわからんわからん。

 ノートパソコンに頭をグリグリと押し付けながら、鷹羽は「うーん」とひとつ唸った。

 隣の席の同僚女史がチラリと視線を寄越してきたが、彼女もやはり忙しいのか一瞥をくれるだけで何も言わずにまたモニターに視線を戻してしまう。

 まるで見てはいけないものを見てしまったかのような反応だが、今の忙しい時期に一人でうだうだ唸っている男の同僚に対する態度なんてまぁそんなものだろう。

 これで何か突っ込んで聞かれたとしても返答なんか出来そうにはなかったのでそれはそれでいいのだが、今この場所にアイツが出現したらと思うと背筋がゾッとしてしまう。

 マスターは

「少しの間なら千百合の威嚇が効いてると思うので大丈夫でしょうが、出来れば今日もランチはウチでとってください」

 と言っていたし、お昼はまたあの喫茶店で決定だろう。

 千百合の威嚇、という言葉は気になるけれど、実際千百合が現れた途端にあの謎の音は聞こえなくなったのだから、千百合がなにかしてくれたということだろう。

 千百合は一見した限りではただの可愛い女の子だ。

 年齢だって小学校に上がっているか上がっていないか……ラジオ体操と言っていたからもしかしたら上がったばかりかもしれないが、とにかくそんな小さい女の子が威嚇をして逃げる幽霊というのも何か可笑しい気がしてしまう。

 そもそも幽霊、でいいのだろうか。分からない。

 人身事故で停まった電車。

 何かに轢き潰されたような身体。

 身体から滴り落ちていくどろりとした液体。

 それらを総合して考えてみればどういう存在なのかは実に簡単な話なのだが、それを受け入れるかどうかは別の話だ。

 マスターは「貴方が見つけたから相手が気付いた」ということだったが、鷹羽が電車に乗ったのはアレが初めてであるわけでもない。

 なんなら出社する時にだって電車に乗っているのに、朝にはそんなものには遭遇しなかった。

 それどころか今日の朝にだって遭遇していないのだから、その出没条件がサッパリ分からない。

 なんで電車ではなくて喫茶店に現れたのだろうか。

 なんで喫茶店の中には入ってこなかったのだろうか。

 多分それらの疑問はマスターに普通に聞けば普通に返答されそうなものではあるけれど、昼飯の時間になるまでの時間が遠すぎて悶々とするしかない。

 朝イチで外に逃げ出して喫茶店でアレに遭遇して「もう大丈夫だから」と会社に戻されて、今だ。

 昼休みまではまだ3時間はある。

 その間も悶々としていろというのだろうか。

 だとしたらあのマスターもそこそこ鬼だ。あんな優しそうなのに、もうちょっと説明してくれてもいいんじゃなかろうか。

「いや……それは甘え、か……」

 はぁーと突っ伏した状態のまま溜息を吐いて、のそのそとノートパソコンに充電ケーブルを繋いで開く。

 閉じてもただスリープに入るだけのノートなので起動はすぐで、閉じられていたモニターを開けばすぐにパッと編集アプリのログイン画面が表示された。

 そうだった、あの謎の「あらすじ」については全然相談出来てないんだった。

 軽く白目を剥いて、またノートパソコンを閉じそうになる手を必死に留めてログインIDとパスワードを入力する。

 あのあらすじは、まだ残っていた。

 はぁーと溜息を吐きかけて、落ち着けと自分に言い聞かせる。


【いつもと変わらぬ帰り道だったはずだった。いつもの満員電車。いつものしっとりした電車内の空気。夏の暑さに冷房が負けて汗が流れる夜の車内で、彼はいつもとは違うものと遭遇する。それは、今まで一度も見たことがないもの。だが彼は本能的に、それは見てはいけないものであるという事に気が付いた――】


 このあらすじは、よく読めば昨日の事をまるで予言したかのようなあらすじだ。

 「いつもの満員電車」「いつもと違うものに遭遇する」「それは見てはいけないものであると気付いた」

 ここだけを抜いても、昨日の電車での話に間違いはない。

 つまりは、このあらすじの中に居る「彼」は鷹羽のことで間違いがないだろう。


【いつもと変わらぬ日常だったはずだった。見てはいけないものからは目をそらし、変化のない日常の中に小さな楽しみを見つけながら生きていく自分に満足もしていた。だというのに、ソレは着実に近くに居る。見てはいけない、視てはイケナイのだと分かっていても、知らないフリをすることはもはや、出来なかった――】


 じゃあこの2つ目のあらすじもまた、今日か明日か、少なくともそう遠い未来に鷹羽に起こることなのだろうか。

 だって、あらすじを読んだのは出社してすぐだったし初めて読んだ時には気付かなかったが、これだって明確に鷹羽個人の事を書いている。

 電車についてのあらすじの続きなのだろうことは読んですぐに思いついていた。

 そして現在の鷹羽の状況に即しているということにだって、気付いてはいた。

 でもまさか【鷹羽個人】のことであるとは、想像したくもなかったのだ。

 このあらすじと電車の中で出会ったアイツと何の関係があるのかは分からないが、他の編集者のパソコンに来ていないのはまず間違いがない。


『恐らく送られてきたあらすじというのもそうでしょう。貴方だからえた。貴方だから気付いた。だから、続いて送られてくる』


「冗談じゃねぇっつの……」

 マスターの言葉を思い出して、肘を立てて頭を抱える。

 マスターの言葉を思い出してみよう。あの時は結構パニックだったけれど、一応話は聞いていたはずだ。

 思い出せ、オレの脳。

 そう念じながら引き出しの中から付箋を取り出しデスクの上に放りだしていたペンを手に取ると、鷹羽はマスターの話していた事をひとつずつ書き出してみる事にした。

 えていると認識されているのは恐らく鷹羽だけ、だ。

 マスターは鷹羽が「つかれている」と気付いて後を追っていたというが、少なくとも彼はあの電車の怪異に目はつけられていないはず。

 何しろ鷹羽だってマスターが居る事に気付いていなかったのだから、同じ車両に居たかどうかも怪しい。

 このあらすじもまた、電車の怪異と同じで鷹羽をターゲットにしたもので、恐らくは電車の怪異と同じく鷹羽に認識されたがっている――

 なんでだ?

 なんで、てしまったというだけでそんなに鷹羽に執着をしているのだろうか。

 確かにあの電車の中で気付いたのは鷹羽だけだったようだし、あらすじの存在に気付いている編集者もまた気付いていないはず。

 だから、まぁ、気付いた人間を追いかけてくるという幽霊だか怪異だかの性質はなんとなくわかる。

 たまに見る本当にあった怖い話、だとかでも幽霊や怪異というのはそういう存在だからだ。

 でも、そういうお話は大体最後に追いかけられていた人間が取り憑かれたりして死んでいるパターンがほとんど。

 じゃあオレも死ぬのか? と、わずかに寒気を覚える。

 鷹羽が自分の命の心配をしたのは、夏場にうっかり悪くなっていた豆腐を食べてしまった数時間後くらいもので、こんな風に誰かに悪意をぶつけられるような感覚になるのは初めての事だ。

 今よりももっとハッキリとえていた幼い頃にも感じたことのない悪意の塊を飲み込まされているような感覚。

 吐きそうだ。

『少しの間なら千百合の威嚇が効いてると思うので大丈夫でしょうが、出来れば今日もランチはウチでとってください』

「あぁ、くっそ……」

 まともに会話をした回数は片手ほど。

 それだって会計の際に一言二言話した程度でしかなく会話と言っていいのかも分からないものでしかない。

 ただ自分が気に入って通っていた喫茶店のマスターであるというだけで名前すらも知らない男の言葉だというのに、戻って来る直前にかけられたソレを思い出すだけで、胸の中に穴をあけていた不安感が払拭されていくのを感じる。


 少なくとも今の自分にはこの不安を聞いて、理解して、否定しないでくれる人が居る。

 それがどんなに大きな事であるのかを、幼い頃の自分に教えてやりたいと、鷹羽は思っていた。

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