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第5話 認知

 あの時の着信音だ。

 気付いた鷹羽が思わずバッと顔を上げると、赤色のスマートフォンを片手にしているマスターがわずかに口角を上げながらその画面を見ている。

 彼のスマートフォンからの音、じゃない。

 でも、じゃあ、どこから?

『はーい! ちゆです!』

「準備は出来たかい、お姫様」

『んー、もうちょっと!』

「出来たら戻っておいで。Bボタンも忘れずにね」

『びーちゃん、わいちゃんとどっかいっちゃった!』

 着信音が止まってから聞こえてきたのは、元気のいい千百合の声、だった。

 あまりにも元気がいいせいで、スピーカーモードにされているスマートフォンからだけではなく店の奥から生声まで聞こえてきてしまっている。

 ということは、今の着信音は千百合の携帯の音だったのだろうか。

 でも、だとしたら、なんで昨日、あんな時間の電車の中で音がしたのだろうか?

 あ、いやでも、あのくらいの年齢の子が持っているとなると見守りスマートフォン? とかそういう類のやつだろうから普通のスマートフォンとは多分違う、はずだ。

 ぐるぐると考える鷹羽は、うまく言葉が出てこなくて、言葉が思いつかなくて、ただただマスターを見つめたまま口をパクパクとさせてしまう。

 その様子を真っ先に見に来たのは、赤い首輪をした黒猫だった。

 ぴょんっとテーブルの上に乗ってきた赤い首輪の猫は、冷や汗をかいている鷹羽の額をペロペロと舐めている。

 人間を恐れたり嫌ったりしていないどころかその様子はまるで子供をいたわる親のようで、緊張でスプーンをぎゅっと握り締めていた鷹羽の手から徐々に力が抜けていく。


「昨日あの場所に、偶然我々も居合わせましてね」


 スマートフォンを置く音が、やけにハッキリと聞こえる。

 恐る恐る顔を上げると赤い首輪の黒猫が鷹羽の顔に身体をこすりつけ、その様子をマスターが穏やかな表情で見守っているようだった。

「あの場所って……電車、ですか?」

「えぇ。少し、気になったので」

「気になった?」

「貴方の様子がね」

 何か面白いものとつけてると思っていたんですよ、だなんて。

 面白いもの、だなんて、そんな、「つけてる」の文字はそれ絶対、付着してるとかそういうアレじゃないだろう。

 つい職業病みたいなものを考えながら「ハハハ」と乾いた笑いを漏らした鷹羽は、マスターがただふざけているだけなのか、それとも本気でそんな事を言っているのかを伺ってしまう。

 マスターはいつもの通りにイケメンだ。

 いつものスンとしているようでいて穏やかな笑顔を浮かべているようにも見える笑顔で、ふざけているような様子は決して見えない。

 彼は、彼も、つまりは自分と同じタイプの人なのだろうか?

 鷹羽が何も言えないで居ると、黄色い首輪の黒猫がマスターの膝の上にぴょんと飛び乗ってこちらをじっと見つめてくる。

 本当にそっくりな猫たちだ。

 違うのは首輪の色だけ、だろうか。

 人間にもよく慣れているようだし、未だに鷹羽の頬を舐めている赤い首輪の黒猫は本当にこちらを心配しているようで。

 それにしても猫の舌ってザラザラしててちょっと舐められ続けていると痛いかも、なんて思い始めた時、不意に赤い首輪の猫が舐めるのをやめ、黄色の首輪の猫がテーブルの上に乗った。

 マスターは、何も言わない。

 テーブルの上に置いたスマートフォンを指先で突付くだけで、他には、何も、


 バンッ


 無意識にマスターの次の言葉を待っていた鷹羽は、突然聞こえてきた音に座ったまま飛び上がるほどに驚いていた。

 何の音かと周囲を見回すが、今この建物の中に居るのは鷹羽と猫たちと、マスターと千百合だけのはず。

 このメンバーでこんな大きな音を出すような人が居るとは、思えないのだが――


バンバンバンバンバンバンバンバンッ


「……は?」

 だから、近所のどこかで何かが落ちた音だろうと自己完結しようとした鷹羽は、しかし視線の先にある喫茶店の入口を見て固まってしまった。

 何かが居る。

 入口。まだOPENの看板すら出ていない落ち着いた色合いの木とガラスの扉の向こうに、何かが、居る。

 それがドアをずっと叩き続けて、いる。

 その手の後は赤く黒くガラスに痕をつけていき、視線の高さに空いているガラスの小窓が割れてしまわないのが不思議になってしまうくらいにドアが歪んでいる。

 それだけじゃない。

 窓が、外からの明かりを入れるための大きなガラスの窓にもドンドンと手の跡が散っていき、その手の跡はなんだか、塊混じりの黒いドロドロとした液体、のようで。

 それはまるで、あの電車の中で見たアレの、体液のような。

「うっ……、」

 悲鳴は最早出てこない。

 電車の中でもそうだったように声が喉の奥に引っかかってしまったかのように出てきてくれなくて、呼吸がおかしくて頭の奥が痺れるような錯覚にまで陥った。

 あいつだ。

 あいつが居る。

 それは分かるのに、何も出来ない。


バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ


 ドアを激しく叩いているかと思っていた音が、突然別の音に切り替わって反射的に己の口を両手で覆ってしまう。

 何か、何かかじりついているような、歯で削ろうとしているかのような音だ。

 あの縦方向に割れた口で、何本あるのかも分からない歯で、木製のドアを齧っている。

 齧っているせいだろうか、中にまで響いてくるビリビリとした振動はテーブルの上のお茶の水面に小さな波紋を生じさせ、猫たちの背の毛が徐々に逆だっていくのが見える。

 猫たちはさっきからずっと、ドアを見つめている。

 鷹羽に向けていた穏やかな可愛い目とはまるで違う、瞳孔が細くなった獣の目でドアを見つめているのだ。

 吐きそうだ。

 なんで今、こんな?

「思ったより、厄介なものに憑かれてらっしゃる」

 そんな状況だと言うのに、マスターは実に平然としている。

 ドアが、ドアが壊されようとしているんですよ? なんて言おうとしても、喉の奥から出てくるのはおかしな呼吸で言葉は出てきてくれない。

 今ヘタな事を言えば吐いてしまいそうで、流石に飲食店でそれは出来なくて、口元を抑えて黙り込む事しか出来ない。

 なんなんだなんなんだなんなんだ。

 なんで俺は今、こんなメにあっているんだ?

「彼はね、貴方に認知された事で貴方に執着してしまっているんですよ」

「へ……?」

「あぁいう存在は、普通は認知も認識もされないものです。でも、貴方はアレを見て、アレに恐怖してしまった。だからアレは、貴方にもっと自分を識ってほしくて仕方がないんです」

 認知だの認識だの、今話す会話なのだろうかと混乱してしまう。

 だが少なくともマスターは今凄く重要な話をしている、気がする。

 認知も、認識も、その違いはイマイチよく分からないけれど、自分があの謎の存在に何かをしてしまったのではというのは、流石に分かる。

 でも何をしたのかというそれ自体は、サッパリわからないけれど。

「恐らく送られてきたあらすじというのもそうでしょう。貴方だからえた。貴方だから気付いた。だから、続いて送られてくる」

「そんなの希望してないんですが!」

「関係ないんですよ、向こうには」

 バギッ!

 叫んだ瞬間に今までよりも一際強い音がして、鷹羽はまた口を塞いで身体を丸める。

 【消えないあらすじ】と【電車の中で出会ったモノ】は違うものだと、マスターはそう言いたいのだろうか?

 わからない。わからないが、ぶわっと額に浮かぶ汗は床に滴るほどで、吐き気もまたリンパに痛みを感じるほどに強くなっている。

 どうすればいいのか、わからない。

 なんでマスターがこんなに冷静なのかも、わからない。


「あー、なんかうるさいとおもったー」


 最早身体が震える事もなくじっと縮こまっていると、奥からトトトっとちいさな足音をさせて可愛らしい猫のリュックを背負った千百合がやってきた。

 足元には青と緑の首輪の黒猫が居て、その黒猫たちも背中の毛が逆だっている。

 うるさい? という事は、千百合もこの音は聞こえているというのだろうか。

「ち、ゆりちゃん……この音、聞こえてるの?」

「うん! うるさいのはバイバイしていいんだよね?」

「あぁ構わないよ。好きにおし、千百合」

「うん!」

「え? ……うん?」

 うるさいのはバイバイ?

 父子の会話の意味が分からず呆然としつつ眼の前に居る赤い首輪の黒猫の背中をモフモフとやっていた鷹羽は、また千百合が可愛らしい足音をたててテーブルの横を通り過ぎるのを黙って見守るしかなかった。

 だが、たったそれだけで。

 千百合がドアに近付いただけの事で変わった事が、ひとつある。

 音がしない。

 さっきまで耳を壊してしまいそうなほどにうるさかったドアを叩く音が、まったく聞こえなくなったのだ。

 千百合がやってきたからこその変化。

 それは、もしかして昨日鷹羽の後をつけていたというマスターが千百合の携帯を鳴らしたのと何か関係あるのだろうか。


「おいたは、だめなんだよー」


 ガァンッ!

 千百合の何気ない言葉。子供だからこそハッキリと言い放ったその一言に怒りを示すように何処かが、この建物の何処かが凄い音をたてて――

 しかしそれきり音はしなくなり、真っ黒の手形だらけだったドアの小窓も、謎の液体だらけだった窓も、全てスッキリさっぱり、何事もなかったかのように掃除された後のように綺麗になっていた。

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