マスターに誘われるままに喫茶店の入口まで行くと、まるで出迎えるように黒猫が二匹ドアの前で待っていた。
ダラッと寝ているわけでもなくシャンと座っているその姿は、まるで狛犬のようにドア自体を守っているようにも見える。
「お好きな席にどうぞ。今電気をつけますね」
「あ、すみません」
「ただいまぁ!」
マスターが鍵を開けてドアを隠すカーテンを開きながら鷹羽と娘を中に促すと、最後の4匹目の黒猫が「にゃあん」と声をあげて出迎えてきた。
これで四匹の黒猫勢揃いだ。
外まで迎えに来ていた黒猫も、ドアを守っていた黒猫もスルスルと人間の足元を縫って部屋の中に入ってきている。
可愛い。
小さな後頭部を見ているだけでも何故かきゅんとしてしまって、四匹の黒猫が互いにスリスリし合っているのをほっこりする。
さっきまで緊張しきっていた身体がどんどんほぐれていくような気がして、鷹羽はほとんど無意識にいつも座っている席に腰掛けた。
いつもの席は、店の少し奥まった所にあるテーブル席だ。
たまに窓際の席に行ったりもするが夏場はブラインドがあっても窓辺は暑いし、ゆっくりしている所を通行人に見られるのも嫌なので大体は店の奥の方をキープする事に決めている。
カウンターでマスターの仕事を眺めている事も考えたが、しかしこうして座るとやはりテーブル席の方が落ち着く。
この奥まった席は2人座れそうな長椅子が向かい合わせになっているお陰でちょっとした個室感もあるし、本当にくつろぐにはちょうどいい。
ノートパソコンを椅子に置いて「はぁ~」と溜息を吐きながらテーブルに突っ伏すと、マスターが鷹羽の座っている席周辺の明かりだけつけたのがわかった。
ノロノロと頭を上げると、娘ちゃんが氷水の入ったグラスをヨタヨタとちょっと危なっかしく持ってきてくれている。
彼女の足元は黒猫二匹が守っているようで、猫たちも心配そうに見上げているのがやっぱりほっこりとしてしまって無意識に笑顔が浮かんだ。
「おみず! です!」
「ありがとう。のどが渇いていたので、とっても嬉しいよ」
「えへへっ。おかわりじゆうです!」
あぁ、癒やされる……
可愛い女の子と可愛い黒猫の優しさに、鷹羽は心がさらに癒やされていくのを感じていた。
さっきまではノートパソコンを持った形のままガチガチに固まっていた手もようやく握り込む事が出来るようになり、何度か握っては開き、開いては握るを繰り返す。
なんであんなに焦っていたのだろう、と思ってしまうくらいの自分の変化に自分でも笑ってしまいそうな心地だった。
「どうぞ。まだコーヒー動かしてないので水出しの緑茶ですみませんが」
「いえそんな、逆にすみませんっ」
「ちゆり、アサちゃんのおうちに行く準備しなくてもいいのかい」
「あ! あさちゃんのおうち、いくよっ!」
「準備しておいで」
「してくる!」
それから少しして、トレーに水出し中のお茶のボトルを乗せたマスターが戻ってきて鷹羽にグラスを差し出してくれた。
水のグラスとは違う、いつもジュースなんかをお店で出す時に使われているグラスだったのでなんだか恐縮してしまう。
いつもはお金を出して頂いているようなお茶なのに。
「え、えっと。娘さんちゆりちゃんって言うんですね」
「えぇ。千の百合と書いて千百合といいます」
「いい名前ですね」
「ありがとうございます」
黒猫の一匹と共にパタパタと店の奥に消えていく千百合の後ろ姿を見送りながら、マスターの目がいつになく穏やかに緩んだように見えて、鷹羽も少しだけ身体の力が抜ける。
イケメンで背が高くてコーヒーを淹れる姿も様になっている完璧超人みたいなマスターにもこういう面があるのだなと知ると、なんだかより身近に感じられて嬉しかった。
まぁあの可愛い娘ちゃんを前にしてはこうなるよなぁ、と鷹羽は一人でうんうんと頷く。
自分だってあんな可愛い娘が居たらデレデレになる自信がある。
しかもこんなに可愛い猫までいっぱい居るのだ。幸せに決まってるじゃないか。
「ところで、今日は一体何をされていたんですか?」
「あ、あ、いやーその……情けない話なんです」
「本人が嫌なことであれば、どんな事でも情けなくなんかはないでしょう」
お茶を自分と鷹羽の前に置いたマスターは、トレーの上に置いていたらしいいつもの真っ白なバニラアイスを乗せたわらび餅まで鷹羽に差し出してくれた。
昨日食べそこねたわらび餅!!
大好物の出現に思わずマスターとわらび餅を交互に見てしまうと、マスターは少しだけ口角を上げながら「どうぞ」と促してくれる。
いつもよりもゆるやかに溶け始めているバニラアイスはすでにわらび餅に絡み始めてて実に旨そうで、トレーに乗せられているきな粉と黒蜜まで「お好きにどうぞ」とされたらもう鷹羽には抗う術はない。
ありがたく頂くために両手をパチンと合わせて感謝をしてから、きな粉と黒蜜をタップリかけて少しだけバニラアイスを混ぜて、一口。
素朴な甘みのわらび餅に絡む濃密な黒蜜と香ばしいきな粉の味に、バニラというよりも最早ミルクに近いようにも思える冷たいアイスのまろやかさがマッチしていて実に旨い。
そうだ、ここはアイスがそもそも旨いのだ。
大好物を一口、二口と頂いていると完全にさっきまでの非現実的なものが嘘だったのじゃないかと思えてきてしまって、さっきまでうなじがチリチリしていたのにそれも治ってきているような気がする。
鷹羽は、なんとなくうなじを擦りながらもう一口わらび餅を頂いて、そこでようやく目の前のマスターを放置して食べていたことに気づいた。
「す、すみません! つい!」
「いえいえ。いつも美味しそうに食べて頂けるので、こちらはとても嬉しいんですよ」
「本当に旨いんですよ! オレ、ここに来るまではわらび餅なんか味のしないもんだとばかり思ってたくらいで……」
「それは嬉しいですね」
マスターは話を完全に止めてわらび餅に夢中になっていた鷹羽は、餅を食い切った所でふと現実に戻ったような気がして食べる手を止める。
アイスは溶け出して黒蜜ときな粉と混ざり出し出していて、それはそれで旨そうなのだが白と黒がマーブルを描くように混ざっていくのはなんだか不思議な感じがした。
「ソフトのエラーかもしれないんですけど、何度消しても戻って来る文書があるんです」
唐突に話し始めたのは、そのマーブルをスプーンでぐちゃぐちゃにしてから、だった。
マスターもお茶を飲む手を止めてテーブルの上で手を組んで、黒蜜を見つめている鷹羽を見つめているのが分かる。
どこまで理解してもらえるかは分からないが、鷹羽は語った。
「あらすじ」だけの投稿があった事。
その「あらすじ」はすぐに削除したが、一度戻ってきていた事。
翌日になってよく考えればその「あらすじ」と同じ事が昨日の帰路で起きていた事。
今日出勤したらまたその「あらすじ」が戻ってきていた事。
そしてまた、予言のように新たな「あらすじ」が表示されていた、事。
ただ「あらすじ」だなんて言った所で彼にどこまで通じるかは分からないが、とにかくゾッとしたことを淡々と語る。
問題のノートパソコンは今手元にあるが、いつの間にかテーブルの真ん中に行っていてどちらかと言えばマスターの方に近いような気もする。
なんだか、まるで彼が引き離してくれている、ような。
「それで?」
「え? それで、って……」
「それだけじゃない、んじゃないですか」
マスターの長い指が、トントンとテーブルを叩く。
それだけじゃない、とは、どういう事だろう。
そんな事を一瞬考えた鷹羽は、突然思い出された昨日の【アレ】の姿が頭をよぎって全身の毛穴が開いたような、そこから汗が滲み出しているような、そんな錯覚を覚えた。
いや、実際に汗が吹き出していたかもしれない。
昨日、電車の中で鷹羽の見た【アレ】。
どこからか聞こえてきた携帯のアラームがなければ捕まっていたかもしれない【アレ】を思い出して、手からスプーンが離れた。
カランカラン
軽い音を立ててスプーンがガラスの器を叩いて、落ちる。
なんでそれを? と聞く余裕もなかった。思い出した途端に吐きそうになるほどの不気味なそれに、顔を上げている事が出来ない。
あれを、【アレ】を、彼に何と言って説明をすればいいんだ?
そもそも、言ったとして信じてもらえる、のか?
ピリリリリリリリ。
ぐるぐると混乱し始めた鷹羽の思考を、聞き覚えのある着信音が切り裂いた。