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第3話 黒猫

 結局鷹羽はその日あまり良く眠れずに、折角早くに帰れたと言うのに翌日も妙な疲れがとれる事はなくぐったりとした身体を引きずって出勤することになってしまった。

 眠ろうと思って何度まぶたを閉じても【アレ】の姿が脳裏に蘇ってしまって眠れることが出来ずに起き出してしまうのだ。

 アレは一体何だったのだろうか。

 考えても考えても、当たり前だがどこからか返答が戻ってくる事はないし、自分が今まで生きてきた知識の中であんな生物は存在していない。

 もしかしてアレは……と思うものはあるけれど、知りたくもないしそう判じたくもないと何度も首を振って意識から切り離す。

 鷹羽は「生きていないもの」に関しては出来るだけ避けたいタイプの人間だ。

 とにかく絶対に嫌だと拒否するような方ではないが、遭遇しないでいられるならそれに越したことはないではないか。

 というのも、鷹羽は幼い頃には比較的【える】方の人間だったのだ。

 幼い頃にはそれが「生きている」か「死んでいる」かの判断は出来なかった。

 幼い鷹羽にとっては生きていても死んでいても等しくその場に「存在している」のだから、その違いなんかありはしなかったのだ。

 子供時代特有のそれは歳を重ねるごとに消えていってしまったので思春期を過ぎた頃にはすっかり忘れてしまっていたのだが、まさかこんな所で思い出させられるとは思わなかった。

 しかもあんなにハッキリと視るだなんて……

 はぁー、と深い溜息を吐き出した鷹羽は、電車に乗るのにも無意味に二本か三本見送ってしまってから意を決して乗り込んだ。

 最初はタクシーに乗って行ってもいいかな、とも思ったけれど、職場までの往復をタクシーに頼るのは安月給のサラリーマンには流石に出費がデカすぎる。

 そんな金があるのなら毎日あのカフェに行ってお菓子をいただく方に使いたい鷹羽だ。

 だって、それがせめてもの心の支えなのだから。

 幸いにして何事もなく職場の最寄り駅に辿り着いた鷹羽は、無意味にカチカチに緊張していた身体を太陽の熱気で解しながら職場の扉を開いた。

 途端に漂ってくる冷気にホッとして、この時間にすでにこんなにも冷えている職場の出勤事情に頭痛がしてしまう。

 今日はしっかりと作業をしなければ自分もいつこの出勤時間が崩れてしまうかもわからないから、出来るだけ作業に集中しようと心に誓う。

 昼はあの喫茶店に行こう。

 財布の都合があるので連日行くのは初めてだが、昨日のわらび餅の礼を兼ねて行くことにすれば問題はないだろう。

 残念ながらあのわらび餅は、家に帰宅した時にはまるで最初から水であったかのようにさらっさらになってしまっていたので淋しく黒蜜ときなこだけを頂くことにして、正しく味わってはいないのだけれども。

 だが昼にもあの喫茶店に行くと決めたら心がウキウキとし始めて鷹羽は今日もいくつかのお菓子を職場のボックスから頂くと途中で買ってきたストレートティのペットボトルをドンとデスクに置いて仕事の準備を始めた。

 考えたくないことがある時には仕事をするに限る。

 誰がそう言ったのかはわからないが、鷹羽もそれには大賛成だった。

 しかし、いつものように編集ソフトを立ち上げた時に、鷹羽はマウスを動かす手をピタリと止める。

 眉間にギューッと深いシワが刻まれ、無言で動く手の速度は今まで投稿作品を処理していく中で一番の速さだったかもしれないと自画自賛に入れそうだった。

 だがマウスを無言で握り締めたまま椅子に座らずにいた鷹羽は、少ししてから無言で席について溜息を吐く。

 ギシリと音を立てる椅子の背が沿ってしまうほどに身体を仰け反らせてからまたモニターを睨みつけるまでにかかった時間は、5分ほどのことだった。



【いつもと変わらぬ帰り道だったはずだった。いつもの満員電車。いつものしっとりした電車内の空気。夏の暑さに冷房が負けて汗が流れる夜の車内で、彼はいつもとは違うものと遭遇する。それは、今まで一度も見たことがないもの。だが彼は本能的に、それは見てはいけないものであるという事に気が付いた――】



 しばし考えて、削除した作品の並ぶページの中からそのあらすじを開き、睨みつける。

 どうしてかまた応募一覧の中に復帰していたそのあらすじが、昨日までのような「ただ不気味なもの」だけには思えなくなっていたのだ。

 初めて目にした昨日の朝と、昼飯を終えて戻った昼過ぎ。

 そして今日、この短いあらすじは鷹羽が何の操作もしていないのに鷹羽が最も見る可能性のある一覧の中に戻ってきていた。

 他の人間が戻したのか? と一瞬訝しんだが、ログイン履歴を見てみても当然鷹羽の作業領域には他者がログインした痕跡はない。

 セキュリティの問題で席を立つ時には編集ソフトからはログアウトすることが決まりになっているので鷹羽が居ない間に悪戯をした人間だって居ないだろうし、ログイン履歴を見ても鷹羽のログイン以外の痕跡はやはり無い。

 それに、鷹羽の眉間のシワを深めたのはもうひとつ、理由があった。



【いつもと変わらぬ日常だったはずだった。見てはいけないものからは目をそらし、変化のない日常の中に小さな楽しみを見つけながら生きていく自分に満足もしていた。だというのに、ソレは着実に近くに居る。見てはいけない、視てはイケナイのだと分かっていても、知らないフリをすることはもはや、出来なかった――】



 もう一つ、知らない「あらすじ」が増えている。

 応募作品には作品ナンバーが振られているので鷹羽は確認した作品のナンバーを控えておくことにしているのだが、その「あらすじ」に番号はない。

 よく見れば、昨日見たほうのあらすじにも、番号はなかった。

 しかも嫌なことに「昨日のあらすじ」は、昨日の帰宅時の鷹羽の状況に嫌なくらい沿っていた。

 初めてチェックしたのは昨日の朝方であるはずなのにまるで予言のように一文字も変わらずにそこにあるのだ。

 そして増えている方の「今日のあらすじ」。

 これもまた、さっきまでの鷹羽の心境に即していて嫌になる。

 もしこれが昨日のように実現するのだとすれば、鷹羽はまた「アレ」を目撃することになるのだろうか?

 冗談じゃない。

 額に嫌な汗をかきながら、鷹羽はガタリとやかましい音をたてて立ち上がると、ログアウトするのも面倒になってノートパソコンを充電ケーブルから引っこ抜いて財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込み、

「すみません今日は外で作業します」

 と逃げるように編集部から逃げ出していた。

 幸いにして、鷹羽の会社では仕事に支障がなくセキュリティ面でも問題がなければ外での作業も許可されている。

 勿論それは仕事用のノートパソコンをそのまま持ち出すとかそういう事前提ではなく打ち合わせだとかそういう場合の話なのだが、編集長も同僚たちも鷹羽の様子がよほどだったのか軽い了承の言葉だけで鷹羽を見送ってくれた。

 どうせ回線がなければノートパソコンだって編集ソフトには接続出来ない。だから大丈夫だ。

 本当はいけないことなのに、鷹羽は酷く焦りながら廊下を駆け抜け灼熱のオフィス街に飛び出した。

 会社を出た事には特に意味はない。

 ただ、昨日の電車の中での事を思うと「アレ」が同僚たちに触れるかもしれないとわかったから、外に出なければいけないと思ったのだ。

 いや、わからない。

 実際には「アレ」が何なのかも、このあらすじが誰かの悪戯でないはないかという事も、何も、何も分かっていない。

 分かっていないけれど、その場でノートパソコンを破壊してしまいたい衝動を抑えるためには外に逃げ出すという方法しか鷹羽にとれる選択肢が存在していなかった。

 なんでだ。

 なんでこんな事になっている?

 落ち着け、落ち着け。

 ドクドクと跳ね回る心臓はやかましくて、気温の高さとは関係のなさそうな汗が額だけでなく全身に滲み出して寒さすら覚えた。

 足が無意識に動いて、ヨロヨロと人気のない場所を求めて進んでいく。

 汗が目に入って眼の前がぼんやりとして、何度も何度も無意味に目を瞬かせた。


「おや」


 そのままヨロヨロと進んでいると、聞き馴染んだ誰かの声が聞こえてピタリと足が止まる。

 気付けば随分と歩いていたのか、会社のビルから少し離れた所にある川の近くにまで足を運んでいたようだ。

 この川はオフィス街の真ん中にありながらも水量がそこそこにあり、雨の時なんかは氾濫しないか心配になってしまうくらいの高さにまで水位が来る川で、川を望める近所の公園は会社員たちの憩いの場にもなっていた。

 気付かなかった。

 涼しい所を求めてこんな所まで来ていたのだろうか?

「こんな所で、珍しいですね。お仕事のお時間では?」

「え、あ……あ、マスター……?」

「おはようございます」

 そんな所で声をかけてきたのは昼に見る洋服姿とは違う和服姿のあの喫茶店のマスターだった。

 なんでこんな所に、と一瞬思ったが、この川は喫茶店からはそう遠い場所ではない。

 きっちりとした和服を身に着けてはいるがどこかラフに感じるのは、まだ開店時間ではないからだろうか。

 見知った人物の登場に突然現実に引き戻されたような心地になった鷹羽は、ぎゅうと抱き締めていたノートパソコンを掴んでいる手の力を緩めて大きく息を吐く。

 頭がズキズキしていて、酷く喉が乾いていた。

 ここまでどうやって来たのかも、そもそも何で飛び出したのかも、今はもうわからない。

 遠くの大通りから聞こえてくる車の音や人の声が、やけに恐ろしく感じた。

「おともだち?」

「いいや、よく来てくれるお客さんだよ」

「おきゃくさん!」

 はぁ、と深い息を何度も吐き出す鷹羽は、視線も下に落とした時に目に入った小さな姿に今度こそ心臓が飛び出るくらいに驚いて仰け反ってしまった。

 いらっしゃいませ! と元気よく声をかけてくれたのは、小さな女の子だった。

 可愛い。

 真っ黒なクセのない髪に真っ黒い瞳はお人形さんのようで、朗らかな笑顔に無意識に頬が緩んだ。

「娘です。ラジオ体操のあと、外で食事をとってまして」

「あ、あぁ娘さん……娘さんん!?」

「ぱぱです! おせわになってます!」

 おしゃまににっこり笑顔で元気よく挨拶してくれた女の子は、小学校に入るよりも小さいくらいの子だろうか。

 大きな麦わら帽子に可愛らしく肩がふくらんでいるワンピースを着ているものの、確かにこの真っ黒い髪と真っ黒い瞳にはマスターの面影がある。

 まさか子持ちだったとは。

 意味不明な衝撃を受けつつ、鷹羽は数回マスターと少女を交互に見てからさらにショックを受ける。

 年齢はそう変わらないと思っていたのだが、彼の方がずっとリア充だったようだと顔面偏差値の違いに唇を噛むしか無い。

 この女の子の顔立ちからして、奥さんもきっと相当な美人さんだろう。

「お時間あるようなら、店にいかがですか。準備中なので、大したものはありませんが」

「え、で、でも」

「ややこしいものに絡まれているようですし、今の状態で一人にしておくのもこちらとしては心配ですので」

 ややこしいものに絡まれている。

 マスターの言葉に、一瞬心臓がぎゅっと掴まれたような心地になって言葉が止まる。

 彼はきっと何の気もなしに発したのだろうが、その言葉は今の鷹羽にはとても、とても意味のある言葉だった。

 いや、本当に彼は「なんの気もなしに」そんな事を言ったのか……?


「どうぞ。邪魔をする者は誰も、入れませんから」


 気付けば、彼の足元に一匹の黒猫が居る。

 あの喫茶店に居る猫たちの一匹だろうか、マスターの足元にくるくると絡んではその頭を何回か足にぶつけて小さく「にゃぁん」と鳴いている。

 その声は小さく愛らしいはずなのに、鷹羽にはまるでこの場に反響するかのように沢山、何度も何度も繰り返し鳴いているように聞こえてしまった。

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