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第2話 遭遇

 今日もじっくりと仕事を終えた鷹羽は、今日こそは残業しないで早く帰るぞと上司に止められる前にいそいそとバッグに荷物と共有冷蔵庫に入れておいたわらび餅とアップルパイの小箱を持って職場を後にした。

 鷹羽も制作に関わっている雑誌の編集長はどうしてかいつも就業時間の直前に追加の仕事を持ってくる事があり、そういう時に被害を被るのは一見すれば「ただ投稿作品を読んでいる」だけの鷹羽たちの部署ばかりなのだ。

 なので、終業の少し前に片付けを行って終業のベルと共に即座に席を立つ。それが部署のお約束になっていた。

 ベルは他の会社の邪魔にならないよう、編集部の入っているビルの一角で静かに終業を告げてくる。

 その瞬間に一部署だけでなはくほとんどの部署の人間が立ち上がる光景は中々にシュールではあるものの、夏の間は「余計な仕事はしたくない」とばかりに速攻で逃げるのもまたお約束なのだった。

 それに鷹羽には今日は楽しみが2つもある。

 小箱の中の保冷剤がまだ冷たさを残していることを確認すると、鷹羽は昼間よりも湿気の増えたように感じる夕方の帰路を最寄り駅に向けて悠々と歩いていた。

 あのカフェの中でも特段に旨いわらび餅とアップルパイ。

 時間が経ってしまっているから生クリームは残念なことになってしまっているかもしれないが、ほんのり残るクリーム感があるだけでもしっとり旨いので何の問題もない。

 あの喫茶店のわらび餅はいつもきなこと黒蜜が付属してくるが、夏に店で食べる時はバニラアイスも追加でついてくるのがたまらない。

 家にあるコンビニのアイスでそれの再現は難しいだろうが、やはりあのわらび餅にはバニラアイスも追加していただきたい。

 ひんやりぷるぷるのわらび餅に、香ばしいきな粉と甘ったるい黒蜜とまったりしているものではなくサッパリしゃくしゃくのバニラアイスは疲れ切った脳みそを即座に回復させてくれるに違いない。

 家に日本茶の茶葉は残っていただろうか。

 アップルパイに緑茶はアンバランスかもしれないのでアップルパイ用には作り置きしているアイスコーヒーをつけるとして、やはりわらび餅には日本茶だろう。

 そうなるとやはり、食べる順番が問題だ。

 夕食の後か、風呂から出た後か……

 夕方の帰宅ラッシュでぎゅうぎゅうの社内でもしっかりとアップルパイとわらび餅を胸に抱えてひんやりとした感触を味わった鷹羽は、時折社内のモニターを見て自宅最寄り駅まで後何駅かとワクワクしながら待っていた。

 が、鷹羽の人生の中でそうそう「いい事」ばかりは続かないのはいつもの事だった。


【この先の駅で人身事故が発生いたしました。運転再開時間は未定です。大変ご迷惑をおかけいたしますが、再開まで今しばらくお待ち下さい】


 ラッシュ時に人が沢山降りていく駅を何とか通過して少しだけ立ち方に余裕が出来た頃にアナウンスされたのは、折角のウキウキ気分を塗り替えてしまうそんな内容だった。

 車内放送ではぼかされていたが、すぐにスマートフォンを取り出して確認してみれば2駅先で人身事故が発生したのだという事はすぐに分かってしまう。

 しかもそこに書かれている情報は「現在救助中」という文字で、これはつまり、交通の暗喩的な意味では【回収】に時間のかかる類のやつだ。

 車内のあちこちから落胆の溜息が漏れ出し、少しでもエアコンの下に移動しようと人がぽつぽつと移動をし始める。

 鷹羽は最初からエアコンの風の出る近くをキープ出来たので幸いだったが、位置的につり革にも手すりにも掴まれない位置なのが妙な不安を誘った。

 折角のわらび餅があたたまってしまう。

 これは、わらび餅を風呂の後に回すしかなさそうだ。

 いただいたお土産を少しでも美味しくいただく方法を再び考え始めながら、鷹羽はエアコンの風を後頭部に当てつつうんざりとした溜息を吐き出した。

 ヘタをすれば、エアコンの効いている社内での残業よりも疲れてしまうかもしれないこの状況を誰かどうにかしてくれと、そんな事を言いたい気分だ。

 勿論、人身事故という事だから事故にあった人が悪いわけでも、その人と運悪く接触してしまった電車が悪いわけでもない。

 強いて言うならいつも残業を言いつけてくる編集長が悪いのだ。そうに違いない。

 大きな責任転嫁をして、鷹羽は少しでも楽な場所に移動出来ないものかと周囲を見回した。

 あとどのくらいこのまま耐えなければいけないのだろうと思うと、座っている人が勝ち組に見える。

 それにしても暑い。

 少しは減ったとはいえただでさえ乗車率が高いのにこの蒸し暑さは拷問のようだ。

 窓を開けたい。

 いや、そんな事をしたら折角のこのエアコンの冷風もどこかに行ってしまいそうなので、それだけは駄目か。

 夏場はどうしてか電車やバスの中も息苦しく感じるのだから本当に嫌いだ。

 夏の空だけは好きだけれど、年々暑くなっていく気温だけにはどうにも適応出来そうにない。

 と、不意にどこからか視線を感じて身体に対して平行に視線をずらし、止める。

 左肩の方。

 やけに強い視線を見返して、直視してしまって、とてもとても、後悔した。

 ソレは、明らかにおかしかった。

 首を定期的に、痙攣するようにパキパキと音をさせて揺らしているソレは、まばらな髪と落ち窪み空洞のように見える目で、こちらを見ていた。

 おかしいのは、その人の……人なのかもわからないソレの口が、まるで顔面が割れているように顔を縦断するように縦についている事と、歯が抜けて、いること。

 いや、抜けているのだろうか?

 それともそもそも歯なんか存在しないのだろうか?

 ただの真っ暗な空洞のようになっている細長いその空洞の奥は、何もわからない。

 人間だってこんな明るい電車の中では口の中くらいわかるのに、なんで。

 それから、パキパキと音をたてている首が、何かに踏みつけられたように一直線にぺたんこになっていて、やけに、長い。

 長いというよりも、無理に引き伸ばされたようなソレは時折ぐるんと周囲を見回すように不自然に動き、そのときにまるで鳥のもも肉のように筋肉と関節が分かれているように見えて、穴が空いているように見えて、小さく「ヒッ」と息を呑んだ。

 まるで首を重い重いなにかで踏んで潰されたようなその有様に、その姿に、めまいがした。

 電車、人身事故。

 その現実から導き出される何かに、気付きたくなくても気付いてしまった、ようで。

 パキパキと揺れる首。

 多分頭だと思われる部分からは、何かが溢れて落ちている。

 透明じゃない、なにか、ドス黒い液体。

 部分的には後頭部、だろうか。

 塊のような何かが一度肩だろう部分にべとりと落ちて、そこから伝って床にも落ちていく。

 その液体は、【ソレ】が首を振るたびに車両の壁だとか床だとかに付着していてねっとりとした液体が所々塊になって落ちていくのも見える。

 なのに、誰も何も気にしていない。

 アレを見ているのは自分しかいないのだろうか。

 だとしたら、目をそらさないといけない。見続けてはいけない。

 気付かれては、いけない。

 そんな事はわかっているのに、【ソレ】に向けた視線は少しもそらせなくって、おかしな具合に首に力が入った。

 動くのは、瞼くらいのものだ。

 それだって引きつったように痙攣しながらゆっくりと瞬くのが限界で、しかもそれは、瞬きのたびにゆっくり、ゆっくりと、こちらに近づいてきている。

 人混みの中、ほんの少しの間をぬってこちらに――鷹羽の方に、近付いてきている。

 スマートフォンを見ている女性の長い髪が巻き込まれて、女性が不快そうに髪を撫でてかばった。気付いていない。

 男性の出っ張ったリュックを巻き込んで、男性が慌ててリュックを腹に抱える。気付いていない。

 新聞を半分の半分に折って窮屈そうに読んでいた会社員も新聞を持っていかれそうになりながらも慌てて取り返して、なのに、気付かない。

 仲良さそうに愚痴を言い合っている女子高生の間を通った瞬間に彼女たちは一瞬言葉を止めたのに、気付かない。

 気付いているのは、今、目があっている、自分だけ。

 鷹羽は、酷く跳ね上がる心臓の音に自分でも恐ろしいくらいに身体をこわばらせていた。

 段々と呼吸が細く忙しくなって、ガチガチと歯の根が合わなくなる。

 あんなに暑かったのに全身が冷たくなって、まるで自分の身体ではないかのようだった。

 アレはいけないものだ。

 本能がそう言っているのに目が離せなくて、声を出す事も出来なくて、額におもったるい汗が浮かんできて流れるのを、止められない。

 近づいてくる。

 近づいてくる。

 生臭い匂いが、こちらに、向かってきている。

 みんな触られているのが分かっているのに、アレのことには、全然、気付いていない。

 なんで。

 なんで?

 気付いてくれ、という鷹羽の願いは勿論誰にも聞こえる事はなく、ただただ見つめ合ったまま、距離が近くなっていく。

 段々と荒くなっていく呼吸とガチガチと鳴る歯が鷹羽の身体が必死に逃げようとしているのを現していて、けれどやはりどうにも、出来ない。

 寒い。

 こんなに暑いのに。寒くて、たまらない。


ピリリリリリリリ。


 不意に、どこからか聞こえてきた甲高い携帯の着信音に慌ててそちらを見た。

 何かを意識してとった行動ではなく、ただ何となく、その音に気を取られてそちらに意識が向いたのだ。

 誰かがマナーモードにし忘れたのか、その音は数回続いてからプツリと切れて、聞こえなくなる。

 よかった。

 よかった。

 【アレ】から視線を外す事が出来た事に酷く安堵して、ようやく動けるようになった身体を急いで擦る。

 ガシャガシャと音をたてるビニール袋の中身が心配になったけれど、それ以上気にかけている余裕なんかはなかった。

 そうしてやっと手のひらの温度が腕に移り身体があたたまってきた頃、恐る恐る視線を向けるとあいつはもう見えなくなっていた。

 あのドス黒い液体の痕跡も何もなく、まるで最初からそこには何も居なかったかのようにただただ混雑している電車内の光景が、そこにある。

 いつの間に。

 気付かなくって、でもホッとして、溜息はいつもより震えていたと思う。

 気がつけば、時間はもう電車が止まってから30分。

 気付かなかった。

 いつの間にこんなに経っていたんだ。

 それでも、効いているエアコンにほっとして、そろそろ動くというアナウンスにもまたほっとする。

 現実だ。

 さっきのよくわからない空間から、自分は戻ってきたんだ。

 どうしてか分からないがそんな気がして、そんな風に思った自分に少し驚いた。

 あんなもの、よくわからないもの、幻覚だと切って捨ててしまえばいいだけなのになんで受け入れてしまっているんだろう。

 わからない。

 わからないが、終わった事だ。

 ゴゴン、と重々しい音を立ててエアコンの風が更に強くなったのを感じて、鷹羽はさらに自分が現実に戻ってきたという事をまた実感した。

 よかった、帰れる。

 鷹羽は、身体中汗だくだというのに冷え切っている身体を何度も擦って熱を戻そうと頑張りながら、ひんやりとしているお土産の小箱をぎゅうと抱きしめた。

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