華やかなパーティー会場から遠ざかった月明かりに浮かぶ白亜の廊下。
そこに横たわる血濡れの美しい女性の姿。鮮血が広がりを見せるごとに失われていく瞳の光りと、抱えた腕に増していく重み。
――レイシア、母さんを頼む。
紙のように白い女性の横顔に、あの日の兄の顔が重なった。
レイシアがダニアやグオンとの鍛錬を終えて執務室を訪れると、ラナベルが書類を手にどこか楽しそうに微笑んでいた。
「なにを見てるんだ?」
「お母様から手紙が届いたんです」
こちらへ向けてくれた紙に目を通す。相手は今年の春先に領地の別邸に移ったラナベルの母――ラシナからのもので、要約すると「平穏に暮らしている」という近況報告だ。
彼女がこの王都の邸を出て早数ヶ月。文面を見るに、随分穏やかな心持ちで生活出来ているようだ。
(あれだけラナベルに当たっていたのにな……)
レイシアのなかでラシナの印象は決して良いものではない。その姿を見る前からラナベルの身辺調査でラシナが心を病んでいることは知っていたが、実際に目にした彼女はあまりに母に似たやつれかたで、けれどレイシアを見ないイーレアとは反対に自身の娘によりきつく当たるような態度だった。
この邸の中で会ったとき、まだラナベルとレイシアはただの協力関係であったが、それでも見ていて怒りが湧くような傍若無人っぷりであった。
無抵抗に頬を叩かれたラナベルの姿を思い出し、今になってもむかむかと腹が立つ。
けれど、手紙をみるラナベルの瞳は記念日を前にした子どものようで、その横顔にどうにか溜飲を下げた。
「母とこんなふうにシエルの話が出来るとは思っていませんでした」
感慨深いとでもいう彼女の言葉に、レイシアは再び文面を見る。たしかに後半の部分で幼くして亡くなったラナベルの妹――シエルの思い出話が書かれている。
曰く、病床に伏せたシエルはよく家族でピクニックに行きたいと願っていたようで、ラシナはそれを思い出して近くの平原に遊びに行ったらしい。
――風がとても気持ちよくて、たまには外で食事をするのも悪くはなかったわ。きっとあの子がいたら、すごくはしゃいでいたでしょう。
文章だけでも分かるほど、浮かれているように見えた。死んだ娘との思い出を偲ぶだけでなく、ラナベルと共有することを楽しんでいるようだ。
もっと早くこうしてくれていれば――そう思う気持ちがないわけではない。
ラナベルにとっての苦しみの大半は、シエルの喪失によるものだ。亡くした当初に母であるラシナがラナベルにこうして穏やかに接することが出来ていれば、彼女の人生はもっと苦しみの少ないものであったんじゃないか思う。
一緒に手を取り合って妹の死を嘆き、悲しむことが出来ていれば、なにかが違っていたんじゃないかと思ってしまうのだ。
だが、そんなラナベルだからこそ成人を過ぎてレイシアと出会うまで、公爵家でありながら婚約者や恋人もいなかったのだと思えば、なんとも複雑な気持ちになる。
スレア村での出来事を経て、自身の誇りや生きがいを再び見いだしたラナベルは、レイシアが思っていたよりもずっと精力的で、そして周囲に明るさをわけ与えるような太陽の女性だった。
憂いも心配もいらない。そんな安心させるような笑みで手を差し伸べられ、そんな女性が自分のために白い肌を切り裂き、その血を与えてくれたなら。
なるほど。聖女と呼ばれるのも納得がいく。
昔のように毎日でなくとも、今もラナベルは神殿で治癒活動をしている。
その白魚のようなしなやかな手には包帯を巻いていることが多く、それを見る度にレイシアは辞めさせたい衝動と戦う羽目になるのだ。
「レイ? なんだかぼうっとしてますが、どうかしましたか?」
ついその手を睨むように見てしまっていて、慌てて取り繕う。なんでもないと座る彼女に抱きつけば、クスクス笑いながら慰めるように撫でられた。
「ピクニックなら俺たちも行けばいい。ダニアやグオンは護衛で、それにアメリーやほかのみんなも連れて行こう」
本当は二人きりがいいけれど、ラナベルはそうじゃないだろう。彼女は誰かの笑顔が好きな人だから。周りで幸せな顔をしている人が一人でも多い方が彼女も嬉しいだろう。
「本当ですか? それじゃあ私の領地視察もかねて都外に出るときに途中で寄りましょうか? あ、でもレイシアのほうはどうでしょう」
「俺のほうは王太子殿下殿に言っていくらでも融通してもらうさ。スレアの件や関連の医療施設との兼ね合いでずいぶん走り回されたからな。これぐらいは聞いてもらわないと割に合わない」
「あまり無理を言ってはいけませんよ?」
「分かってる。それにナシアスとローランがいれが大概のことはどうにかなる。あっちは俺がいなくても平気だ」
だが、セインルージュ家として家族でピクニックに行くというのなら、レイシアを欠かすことは出来ない。
ラナベルにもその意図はしっかり伝わったようで、微苦笑しながらも彼女は嬉しそうに頬を染めた。
(ああ……かわいいなあ、ラナベル)
ますます強く抱きついて柔らかな金髪に頬を寄せる。
ラナベルは困ったとばかりに呼びかけてきたが、強く押しのけるようなことはしないのできっと今は急ぎの仕事はないのだろう。そう判断したレイシアは母親に甘える子どもみたいにぎゅうと細い身体を抱きしめていると、不意にラナベルが息を詰めた。
「ごめんなさい、レイ。もしかしてイーレア様のことを思い出させてしまいましたか?」
パチリと目を瞬く。腕の力を緩めれば、ラナベルは座ったままレイシアを見上げてきた。
痛みを孕んだように揺れる瞳に、レイシアの胸が熱く疼いた。
「大丈夫だ。お前がそんな顔をしなくていい。ただラナベルと出かけられるのが楽しみなだけだから」
以前から、ラナベルは自分だけが母親との関係が修復されていることを後ろめたく思っている様子があった。今回もそうだろう。
たしかに、レイシアの中で母との記憶は淋しく苦しいもののほうがずっと多い。けれど、最後に一度だけ母は今のレイシアを見てくれた。彼女、ラナベルの命を糧にしたおかげで。
グオンに呼ばれるまま王宮に戻って冷たくなった母を前に、涙も出ずに眺めているしか出来なったとき。不意に時が戻った瞬間の湧き上がった感情は、筆舌に尽くしがたい。
また母に会える喜びとそんな自分への自己嫌悪。なぜ巻き戻ったというラナベルへの疑念と失望。そして、感謝。言葉では名状できないほどぐちゃぐちゃで、本当はその身体を傷つけただろう彼女の元へ行きたかったのに、身体は勝手に母の部屋へと辿り着いていた。
イーレアは窓辺で腰かけていた。微睡んでいるのか、その瞳は閉ざされてこくりこくりと舟を漕いでいる。
グオンも含めて使用人は全員下げ、穏やかな空気が流れる部屋の中でレイシアは足音を忍ばせて母に近づいた。
そっと床に膝をつき、母が座る椅子の肘掛けに手をついてその上に顔を預けた。
見上げる母の顔は陽差しのおかげもあってか、随分と血色が良く見えた。
やつれて頬は痩けているのに母の顔があまりに穏やかで、脳裏に焼き付いた死に顔を思い出しては「ああ、母はきっと苦しまずにいったのだ」と安堵で涙が出た。
はらはらと無抵抗に涙を流した。拭う暇があれば、その分母の顔を目に焼き付けておきたかったのだ。
「……母上、あなたは幸せでしたか」
兄がいなくなってから、母は泣いてばかりだった。泣いて、怒って、絶望して……そして幸せだった頃に囚われてしまった。
頼むと、兄がそう言い残してくれたのに……。きっとレイシアがイシティアのような頼りになる男であれば、母は昔に囚われることもなく不安をさらけ出して前を向けたのではないか。そう、何度も頭を過った。生き残ったのがレイシアではなく、イシティアだったなら――と。
自分の無力さに打ちのめされそうになったとき、不意にイーレアの瞳はゆっくりと持ち上がった。
「レイシア?」
ぽつりと呟くと目だけで周囲を見て、そして手元で泣くレイシアをひたと見る。――その瞬間、たしかにイーレアはレイシアを
ぐずぐずに泣いた青年の顔に、くすりと笑みが作られる。重たそうに枯れ枝の腕が持ち上がり、その指先が涙をすくう。
久方ぶりに触れた母の手はひどくカサついていて、けれど温かかった。
「こんなに大きくなっても、泣き虫ねえ」
言葉のわりにその声音は優しかった。仕方のない子だと、そう言うように――昔と変わらない、にじみ出る温かな愛情がそこにあった。
「母上、母上」
余計に泣いてしまったレイシアの目許を拭いながら、母は鈴の転がるような声で笑いながら少しずつ静かに、ピタリと息を止めた。
力が抜けた手を必死に自分の頬に押し当てながら、レイシアは恥も外聞もなく泣き続けて泣き続けて、そうして日が暮れてようやく外にいる使用人に母の告げたのだ。
陽差しの温もりに包まれながら目が合ったあの瞬間、たしかにレイシアの長年の葛藤は解けて報われたのだ。
今もあのときの感動を思い出すと目頭が熱くなる。それを隠すように、レイシアは努めて落ち着いた声で吐き出した。
「本当に大丈夫なんだ」
ラナベルが大丈夫にしてくれたのだ。
細い首筋に指を這わせる。脳裏に浮かぶのは、倒れた彼女の首から滴る鮮血たち。
レイシアはその傷を塞ぐように今の彼女の首にピタリと手のひらを当て、その上からそっとキスを落とした。
(ありがとう、ラナベル)
何度思ったかしれない言葉を、再び胸中で呟く。
髪が触れてこそばゆかったのか、肩を震わせた彼女が振り向く。そのときにはレイシアは手を離してなんでもない顔で笑った。
手を介した一瞬の触れあいがラナベルに気づかれたことはない。
今でもレイシアは、ラナベルと初めて会ったときのことを夢に見ては飛び起きることがある。
その度に明かりも持たずにラナベルの部屋に押しかけ、同じ布団に潜り込んでその健やかな吐息と温もりを感じなければ安心できない。
ラナベルには本当の理由は伝えていない。王妃に連れ去られたせいで不安なんだと告げれば、彼女は簡単に信じ込んだ。
レイシアが恐れているのはそばにいない間に連れ去られることではない。知らぬ間に彼女が自らの命にとどめを刺すことだ。
「良かったらアメリーに頼んで外にティーセットを用意してもらおう」
今日は少し風が強いが、少しお茶をするぐらいなら大丈夫だろう。
ぎゅっと背後から抱きついて、それでじゃれるように頬にキスをした。
「いいですね。みんなも誘ってお茶にしましょう」
ラナベルが振り向き、そっと啄むようなキスが返された。綻ぶような笑みが広がって、彼女のそんな表情にレイシアは胸が熱くなった。
(ラナベル、お前はよく俺に穏やかな日常を送って欲しいと言うけれど――)
本当は俺のほうがそう願っている。
お前がなんの憂いもなく、死を過らせることもなく幸福だけに包まれていて欲しいと思う。
(ラナベル。どうか笑っていてくれ。幸せでいてくれ)
もう二度と、その首に刃を突き刺せたりはしないから――そう自分の胸に誓い、レイシアはラナベルの手をとって部屋を出た。