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第91話


 音を立てないようにそろりと扉を開けて中を覗く。

 思った通り、ラシナはちょうど奥の祭壇の前に膝をついて祈りを捧げていた。

「……お母様」

「ラナベル」

 すくと立ち上がったラシナは、毛先の動きまで計算されたような優美さで振り返った。

 いつもは梳かしただけの髪は綺麗にまとめ上げられ、部屋着も今日は外行きのドレスだ。服が少し大きく見えるのは痩せ衰えたせいだろう。やはり手足は細すぎるし、頬は痩けている。それでも一縷の隙もなく佇む姿や身のうちから出る品が彼女を美しく見せていた。

「本当に領地にお戻りになるのですか?」

「ええ。レイシア殿下が臣籍降下してセインルージュ家に入るというのなら、私がここにいては新たな当主たちの妨げになります」

「そんなことは! レイシア殿下だってお母様と住むことは構わないとおっしゃっていますし……」

 言いながらも、ラシナの決意は変わらないだろうことが分かってしまって尻すぼみになる。

 これはもう散々言ったあとなのだから。

 今日、ラシナは王都の邸を出てセインルージュが所有する領地内の別荘に移り住む。

 ラシナが領地に行ったとしても領地の統治は今まで通り男爵家が行い、それは後々新当主であるラナベルへと引き継ぎを進めていくことになっていた。

 実質、ラシナは社交界やセインルージュ家とは一切の距離をおいて隠居するということだ。

 これはレイシアとラナベルの婚姻の儀の日取りが決まってからラシナが言い出したことである。

 ラナベルもレイシアも追い出すような真似はしたくなかった。何度も止めたし、気にするなと伝えたがラシナは一人で移り住む手はずを整えてしまった。

「本当にここを――この邸を離れるのですか? ここはお父様とお母様がいた場所で、シエルが生きていた場所です」

「……忘れられないからこそ、離れるのよ」

 ふとラシナが微笑んだ。郷愁に浸るような切ない笑みだ。けれど、その眼差しは過去ではなくて今目の前にいるラナベルに向けられていた。子どものように同じことばかり繰り返すラナベルを、ぬるま湯のような目が見つめる。

「あの人と結婚したときに一つ約束をしたの」

「約束、ですか?」

「ええ。必ず、インゴールの祝福を受けた子どもを産むと」

 ハッと息が詰まった。

 まさにラナベルは祝福の後継者という点においては、まさに類を見ないほど優秀であっただろう。

「あなたはその約束のための子どもだったわ。この家のための子どもで、セインルージュの後継者であって、私の……子どもではない。だから、私がただただ愛することの出来る子が欲しかった」

 シエルはなんの重荷もしがらみもなく生むことが出来た子どもだった。そう語る彼女の目は、慈愛がふんだんに宿っていて、シエルをどれだけ愛していたのかが分かった。

 そんな眼差しを前に湧き上がる嫉妬も悲しみも、ラナベルにはもう遠いものになってしまった。そのことが少しだけ惜しいと思える。

「あの人が死んで、シエルまでいなくなって……あなたと二人だけになって急に怖くなったわ。あなたにとって私は良い人ではなかったし、追い出されるかもと思った。ちゃんと愛せた記憶もなければ、放っておいた引け目も負い目もあった。それが牙を剥くんじゃないかって、怖かったのよ」

 ごめんなさい、とラシナが真摯に頭を下げた。

 そんな彼女を前に、自分は今なにを思っているのだろう……とラナベルは自問した。

 泣きたいようでもあったし、少しは私を気にかけてくれていたのかと嬉しくもなった。ただ、はっきりと言葉には出来なくて、だからラナベルは自分の感情は余所に置いておき、とりあえず事実だけを述べることにした。

「私はお母様に罵られようが叩かれようが、あなたを見捨てる選択だけは浮かんできませんでした」

 例え母からの愛情を求めることを諦めても、自分から突き放してやろうと思いはしなかった。

 ラシナはさらに後悔するように顔を歪めて今度こそ泣き出してしまった。

「ごめんなさい、ラナベル……あなただって、私たちの子どもだったのに愛せなくてごめんなさい」

(愛せなくてごめんだなんて、なんてひどい言葉)

 そんなひどい言葉が、どうしてか愛情のように切ない温かさをもって聞こえた。

 顔を覆うラシナに近づいてラナベルはその頼りない背中を撫でた。

 落ち着いたところで二人で祈りの間を出て、ラシナとは邸の裏口で別れる。今日の見送りはいらないと言われてしまった。

「ラナベル、たしかに私はずっとあなたが怖かったわ。でも、不幸になって欲しいと望んだことはないわ」

 母はなにを言いたいのだろう。意図を図りかねていれば、赤くなった目許が柔らかくなった。

「幸せになりなさい」

 結婚おめでとう。そう言い置いて、ラシナは今度こそラナベルに背を向けて行ってしまった。



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