それからあっという間に一ヶ月が経ち、人々はすっかり回復して村には活気が戻った。
周辺の環境も整備して衛生状況に配慮したので、以前よりは幾分もマシになったはずだ。食料や物資についても定期的な騎士の訪問があるので、冬であろうと、村の人が飢餓に苦しむようなことはないだろう。
亡くなった人を偲ぶ声はあれど、みんなが救われた命を精一杯生きようと前を向く姿はラナベルのほうこそ救われる思いだった。
すでに役目を終えたラナベルたちは、少数の医療者を残して今日の午後に出立する予定だった。
初めてスレアに来たのが二ヶ月半は前のことだ。
すでにすっかり馴染んでしまったせいか、ここを離れるのは少し淋しい。
アメリーたちとともに日課になった朝の洗濯をしていると、不意に子どもがラナベルのもとに駆け寄った。
「みんな今日帰っちゃうって本当?」
「ええ。私は今日帰るけれど、お医者様や騎士の人たちは残るから大丈夫よ」
てっきり不安なのかとも思ったが、少女はまるで拗ねたように口先を尖らせて落ち着きなく身体を揺らしている。
どうしたのと訊こうとしたとき、ずいと幼い両手が前に――ラナベルへと突き出された。
「お花……?」
「あのね、騎士のお兄さんと一緒なら外に出てもいいって言われて……それで小っちゃいけどお花見つけたの」
あげる。そう言われて、ラナベルは潰してしまわないように指先でそうっと茎を摘まんだ。
小指の爪ほどの淡い藍色の花弁が可愛らしい花だ。
「あのね、聖女様が私たちの苦しいの治してくれたんでしょう?」
「聖女様なんて……誰から聞いたの?」
「あの小っちゃいお姉さん。でも騎士の人たちもそうだって言ってた」
子どもの指さした方角には、食事の準備に携わるシュティの姿があった。どうやら会う人会う人から聖女様の呼称で呼ばれるのは彼女が発端らしい。
(そんな立派な人じゃないのに……)
けれど、キラキラした目で見てくる子ども相手に撤回するのも悪い気がした。夢を壊してしまうようだ。
結局ラナベルは「ありがとう」と微笑んで少女の頭を撫でてやると、嬉しそうにはしゃいだ声をあげた少女は母親と思しき女性のもとに走って戻っていった。
「本当に、元気になってよかった」
「それも全部聖女様のおかげですよ」
「グレラスさん」
洗濯桶を抱えたグレラスを振り返る。彼は発症が遅かったからか比較的軽症で治癒を受けたおかげで回復も早かった。
今じゃ王都で会ったころと変わらないぐらい元気な様子だ。
「村が閉鎖されたときはもうダメだと思いました……まさかこうしてまた村に子どもの笑い声が響くなんて思いもしませんでした」
感慨深そうに村を見渡す彼を前に、ラナベルは深く息をした。彼に伝えなくてはならないことがあるのだ。
「私たちがここへ来られたのは王妃様のお声があったからです」
「……王妃様が?」
「はい。彼女に、あなたを救って欲しいと頼まれました」
息を飲む音が聞こえ、ラナベルは意図的に視線を遠い村人たちへ向けて沈黙を保った。
彼には飲み込む時間が必要だと思ったのだ。
「まだ、私なんかのことを、覚えていてくださったんですね……お嬢様」
戦慄いたグレラスの唇は震えた息を零し、そうして歓喜の滲む呻きが落とされた。
覚えているばかりか、彼女はまだあなたを愛している。
そう言えたらと思うけれど、王妃はこれからどんな処分を受けるか分からない。なにより、長くお互いだけを想ってきたこの人たちの想いを、第三者が口に出すことは阻まれた。
泣いているのか笑っているのか。肩を震わせる彼の横で、ラナベルはそっと見守るように立ち続けていた。
最後だからと村人や騎士たちみんなで昼食を終え、ラナベルたちは王都へと帰還した。
馬車の窓越しに慣れた街並みを遠く見つけると、ようやく一仕事追えたとほっと息がつけた。
そんなラナベルを微笑ましく見ていたレイシアと目が合う。恥ずかしいところを見られてしまった。
「久しぶりの王都だな」
「はい。邸を随分留守にしてしまったので心配です」
「俺が王都にいた頃は気にしてはいたんだが……そのあとはどうだろうな。念のためナシアスに言伝はしておいたんだが」
「ナシアス殿下にまでお願いしてくださったんですか!?」
「うん」
けろりとした顔で頷かれる。
ただでさえ忙しいところに拍車をかけてしまったかもしれない。思わず頭を抱えたくなったが、レイシアだってよかれと思ってやってくれたことだ。
「そこまで気にかけていただいて……ありがとうございます」
ナシアスにはあとでなにか贈っておこう。
そう考えていたとき、急に馬車の外が騒がしくなった。わっと歓声のような多数の声が重なり合って反響して聞こえる。
驚いた二人が窓から覗く。馬車は門をくぐって王都に入ったようだが、目抜き通りの両端に人が溢れかえっていた。人々は称えるように声をあげ、手を振っている。まるでラナベルたち一行が来ることを今か今かと待ち構えていたようだ。
「いったいこれはどういうことだ?」
レイシアにも分からないのか、困惑した様子だ。
すると、後方から急いだ様子のグオンがやって来た。
馬上からこそりと教えてくれた彼曰く、すでに流行病の終息は大々的に国内で報じられていて、それがインゴールの祝福を受けしラナベルのおかげであること。また、その婚約者であるレイシアが王子でありながら村民のために自ら出向いたという話が広まっているという。
「あの人は……! なんのために俺が村でナシアスの顔を立てて回ったんだか分からないじゃないか」
頭痛がすると言わんばかりにレイシアの眉間に皺が寄る。
「今回のこの出迎えは一応民衆が自主的にやっているそうですが、日時を伝搬したのは王太子殿下とのことです」
「あの人が先導してるようなものだろう!」
「しかしお二人が顔も出さずじまいというのは、その……あまりいい印象は与えません」
今も割れんばかりの歓声が響き、レイシアとラナベルの名が叫ばれている。
これを無視して通り過ぎてはたしかに民衆の反感を買いそうだ。
グオンの言うように、例え不本意であっても、英雄の顔をしたほうが懸命だろう。きっとナシアスもこうして二人が観念することを狙ったのだろうと思う。
「仕方ない。ラナベル、少し顔を出そう」
そっと手のひらを出されてラナベルも苦笑して重ねた。ここまでされるほどのことをした覚えはないが、仕方ないだろう。
「せっかくだからな。俺の婚約者を自慢しよう」
「レイシア殿下……」
「いいだろう。こんな表舞台に出ることはそうそうあったもんじゃない。それならその場を有効的に使うだけだ」
これだけの数の民衆の前に出てしまえば、今後お前が結婚を撤回することもないだろ?
悪戯な顔で言われてしまい、ラナベルは罰が悪く思いつつ苦笑した。
「……撤回なんてしませんよ」
「ラナベル・セインルージュはレイシア・ヴァンフランジェの伴侶だと、誰もが知るようにしたいんだ。そうしたら、お前が離れていく心配なんてしなくていいだろう?」
「もう、レイシア殿下」
反応に困るラナベルを見て、ふとレイシアは大きく笑った。
「すまない。ただ俺が見せびらかしたいだけだなんだ。これが俺の婚約者だって」
浮かれているんだ。
恥ずかしげもなく言う彼の表情は非常に晴れやかで、なんの憂いも影もないその姿に、ようやく過去のしがらみから解放されたのだなあとラナベルはしみじみ思って釣られて笑ってしまった。