「どうして、あなたがここに……」
王子が来てはいけないと、そう言い含めたはずだ。
思わず声をあげそうになったが、それを見越したレイシアが早口で言った。
「報告を受けてちゃんとここの現状を把握した上での判断だ。すでに事態が終息に向かっていることは知っている」
「……ですが、まだ患者はいますから。なにかあっては」
「もしなにかあっても、俺一人ぐらいならお前が助けてくれるだろう?」
帰る気なんてさらさらないだろうに、「ダメか?」とばかりに困り眉で訊かれると弱ってしまう。
言い淀んでいると、不意にレイシアがラナベルの頬に触れた。
きっと到着してそう経っていないのだろう。ずっと外にいるせいか彼の指先はひんやりとしている。けれど、壊れ物に触れるような手つきを、温かいと感じてしまった。胸の奥でなにかがほぐれていくのが分かる。
ふっとレイシアが笑んだ。微笑むような、苦いものを感じたような……そんな複雑そうな顔だ。
「一人でそんな顔をさせたくなかったんだ」
「……レイシア殿下」
「俺もここにいる。だから手伝わせてくれ、ラナベル」
柔らかく締めつけるように再び抱きしめられると、もうラナベルは首を振ることは出来なかった。
それから一週間ほどで、テントの中には誰もいなくなってしまった。
レイシアは最後までラナベルと一緒になって村人を看取ってくれただけでなく、彼らを積極的に弔ってもくれた。
ラナベルたちがそちらにかかりきりの間、ほかの村人たちはシュティの力もあってか随分と回復したようだ。
一通りの片付けを終えて村の中心部に戻ると、騎士に混ざって働く村人が大勢いた。
「あ、ラナベル様! おーいラナベル様がお戻りになったぞ!」
一人がラナベルに気づくと、我先にと人が集まって囲まれてしまった。
「見てください。もうこんなに動けるようになりました!」
「今はみんなで畑を整えていたんです」
「うちのおっかあも随分飯が食えるようになりました!」
嬉しそうに教えてくれる村人たちに微笑んで相づちを打っていると、騒ぎに気づいた騎士たちが間に入りこむ。
「ラナベル様は長期間の治癒でお疲れなんだから全員で囲むんじゃない」
こちらへ――と、ここまでの道中で護衛してくれていた騎士の一人に促される。
騎士の言い分に納得しつつも残念そうな村人を振り返り、「少しなら大丈夫よ」と口をつくと首を振られてしまった。
「お顔が真っ青ですからどうかお休みを。村人とはまた時間を取ってくだされば大丈夫です」
なんでもラナベル用に小さなテントを一つ空けておいてくれたらしい。だからゆっくり休んで欲しいと言われ、ありがたいが申し訳なくも思った。
「ラナベル。お前がそんな顔色じゃ、助けてもらった彼らも気に病む。元気になってからまた顔をみせてあげればいい」
宥めるようにレイシアに肩を撫でられ、こくりと頷く。
そのときになってようやく騎士はラナベルの隣に立つ男に怪訝そうな目を向けたが、特徴的な褐色肌と白髪に合点がいったのだろう。ぎょっとした様子で姿勢を正した。
「レ、レイシア殿下! ここまでご足労ありがとうございます!」
ハキハキとした通る声に、落ち着いていた村人が再び騒がしくなった――というよりも、畏れを含んだように及び腰でざわついている。
「殿下だって?」
「王子がここまで来てくれたのか?」
「レイシア殿下といえば末の王子様だろう」
ざわつく村人たちは王族と謁見したことなどないだろう。誰かがぽつりと「立ってるのは不敬じゃないか」と言い、焦った村民が地面に跪こうとしたのをレイシアが手で制する。
「王太子であるナシアス兄上の命のもと、物資を運んできた。俺のことは気にしなくていいので、まずは自分たちの身体のことを第一に動いてくれ。国はきみたちが健やかでいることを願っている」
凛とした声をあげれば、村人の顔にほっと血色がのぼる。
気を奮い立たせた様子の村人に最後に微笑みを一つ残し、レイシアはラナベルを連れたって休息用のテントへと向かった。
途中、席を外していたらしいアメリーとダニアが話を聞きつけたのか走ってやってきた。
二人ともラナベルが断固として重症者用テントには来させなかったので再会を喜んでくれたのも束の間、自身の主人の顔色の悪さに二人のほうが真っ青になってあれやこれやと世話をやいてくれた。
レイシアはというと、当然のようにラナベルと一緒にテントに入り隣でくつろいでいる。
アメリーたちも疑問には思わないようで、むしろ場を整え終わると「ゆっくりお休みください」と二人は出て行こうとするから慌てて呼び止める。
「安心してください! 出入り口は俺とグオン卿で見張っているので!」
「そうじゃなくて……休息用のテントはほかに空いてないの? それなら私はみんなと一緒でいいから殿下にここを使ってもらってもいいのだけれど……」
言葉尻がしぼんでいく。だってアメリーとダニアが二人揃って呆れを含んだ目をするものだから。
やれやれとばかりは二人は目配せし合うと、レイシアに頭を下げる。
「殿下、お嬢様をお願いします」
「なにかあればすぐにお声がけください!」
と言い残して二人はそそくさと出てしまったので、呼び止める暇もなかった。
静かになった天幕の下、ラナベルはそろそろとレイシアを窺う。
「……レイシア殿下もお疲れでは? どこか一人でお休みになられる場所を――あっ」
ひょいと軽い調子で抱えられ、用意されていた簡易ベッドに降ろされた。
「俺のことは気にせずに寝てくれ」
「ですが、殿下は」
遠慮がちな声に、ふと考えたレイシアはおもむろにマントを脱いで軽装になるとベッドに上がり込んだ。
「俺も一緒に休むから気にしないでいい。起きたら食事にしよう」
「……はい」
「ここに来るまで手前の街でも、隔離拠点でも民衆からお前の話を聞いた。みんなラナベルたちに感謝していたから……帰るときは顔をみせてあげるといい」
「でも、全員を救えたわけじゃありません」
亡くなった人の顔が頭の中に浮かんでは消えていく。ラナベルがここに着く前に亡くなった人だって大勢いた。
無力さに苦い思いを持っていると、レイシアは少し辿々しくラナベルの髪を撫でた。
ほとんと寝られず満足に食べられず看病に当たっていたから、髪はいつもの輝きや艶を失っているだろう。身なりなんて気にしている余裕はなかったが、今になってそんな姿でレイシアの前にいることに恥ずかしさを覚えた。
レイシアだっていつもの肌つやがなく隈が出来ているのだ。自分はもっとひどい顔をしているはずだ。
それなのに、暗闇の中すぐそばで瞬く赤い瞳は、ずいぶんと温もりで溢れて見えた。
「……ラナベルは神じゃない。救いたいと願うその心は尊いものだと思うが、背負いすぎるな。ラナベルがいなければ、きっともっと大勢の人が死んでいたから」
だから必要以上に苦しまないで欲しい。
レイシアのその願いを聞き届け、ラナベルはそっと目を閉じた。ほろりと一粒だけ涙が落ちたが、それは苦しみとか悲しみではなくて、今この人が隣にいてくれることへの感謝だった。