手のひらにはすでに幾重にも重なった切り傷があり、絶えず血が流れていた。
すでに疲労困憊で短刀で切りつける力も無くなってきたラナベルは、どうにか気力だけで治癒を続けて行く。
初めは自分の足で一人一人患者の元を渡り歩いていたのだが、立っているのも難しくなると、アメリーたちの進言によって各テントごとに座って治療に当たっていた。
スレアの現状はナシアスから聞いていた状況よりもさらに悪化していて、死者も増えていれば村人は大なり小なりなんらかの自覚症状があった。派遣されていた医療者たちも大半が不調を訴えるなか、ラナベルたち追加の人員でどうにか看病に当たっている。
が、今回の病の終息の要であるラナベルにも限界がある。
今はもう座ることすら覚束ず、滴る血をアメリーたちに受け取ってもらって患者の元まで運んでもらっている現状だ。それでもしっかり権能は発動しているのだから、自分の気持ちが折れてはいない証拠だと、力の入らない身体でラナベルは自分を奮起させる。
患者はまだまだ溢れている。
傷だらけの手を前に、さすがにこれ以上は無理かと思い、今度はもう一方の手に刃を滑らせようとしたところで短刀を取りこぼしてしまった。
傷に障らないようにうまく指先で掴まなくては。そう思っているのに、なぜか短刀が拾えない。
ぼんやりと白んできた頭を傾ける。
よく見ると、自分の手が震えていた。血色もなく、青いほどに真っ白だ。
(どうしたのかしら……?)
まともな判断もつかない頭でぼうっと手を見下ろしていると、戻ってきたアメリーがそんなラナベルの様子に悲鳴染みた声をあげて駆け寄ってくる。
「お嬢様今日はもう無理です! 死んでしまいます!」
「アメ、リー?」
膝をついて見上げてくる彼女は泣きそうな顔をしていた。咄嗟に慰めようと手を伸ばしかけ、血塗れなことに気づいて戻す。
上手く言葉が出てこずに浅く息をしていると、ふわりと抱き上げられた。
「ダニア……? どこに、行くの」
「ラナベル様が休めるところです」
「でも」
まだ、治せていない人が――そこまで言わずとも、ダニアには分かったみたいだ。
ぐったりと身を預けるラナベルをさらに強く固定して、ダニアは眉を寄せつつも安心させようと口許を緩めた。
「大丈夫ですよ。重症者のほとんどはすでにラナベル様の権能を受けましたから。だから休んで明日また頑張りましょう」
「……そう。それなら、少し寝ようかしら」
本当はずっと瞼が重たくて仕方なかったのだ。
ダニアの腕の中で押し寄せる眠気に身を任せる。
テントを出るときにふと患者の一人であった子どもと目が合った。
(良かった……起き上がれるぐらいにはもう回復したのね)
青白い顔にうっすらと儚い笑みでそっと手を振った。
子どもは美しい微笑みにハッと息を飲むと、高揚したようにぽっと頬を赤らめる。が、すぐに寝入ってしまったラナベルは、子どものどこかキラキラした目には気づかなかった。
その後も毎日ふらつくまで血を絞り出し続け、ラナベルは気絶するように寝入るの繰り返しだった。
一週間ほどでひとまず村人全員に権能を施すことが出来、そのタイミングでシュティがこちらに来てくれたこともあって幾分か負担も減った。
しかし、全ての村人が順調に回復しているわけでもなかった。
ラナベルはアメリーやほかの人にリハビリ中の患者を任せ、村の中でも離れた場所に位置する一つのテントに入る。
中には十人ほどの村人が今も床に臥せっている。苦しげな息の音がしきりに聞こえて来た。
簡易ながらも布を垂れ下げて個人のスペースを確保している。これはラナベルが騎士に頼んであとから設置してもらったものだ。
まずラナベルは手前にいる患者の傍らに膝をつき顔色を窺った。持ってきたお湯の入れた桶でタオルを温め、そろそろと声をかけると年配の女性はうっすらと目を開けた。
「ああ、ラナベル様……」
「おはようございます。汗を拭こうと思うのですが……少し身体を起こしてもいいですか?」
「毎日してくれなくてもいいんですよ……もう、自分じゃ満足に動けもしないんだから」
「ずっと同じ体勢だと皮膚が擦れて傷になりますから。ついでに身体もさっぱりしましょう」
ひと声かけて女性の前をくつろげてから仰向けの彼女をコロリと寝返りを打たせる。そうっと衣服を取り削いで、ラナベルは腕や背中を温めたタオルで拭った。
女性は声を出すのも億劫な様子だが、どことなく呼吸が和らいだのが分かった。
そのあともラナベルは同じように全員の汗を拭き、食事を与えた。
衰弱しきった村人はほとんど口にすることは出来なかったが、少量でも口に含むと「おいしいねえ」とか細い声で言って眠る。
簡単なことだが、それでも少しでも苦痛が減っているのなら嬉しい。
そう思う一方で、こんな一時しのぎしか出来ない自分が腹立たしいほどにもどかしかった。
ここに集められた人たちは、いわゆるラナベルの権能での治癒が出来なかった者だ。日を越えて何度か血を与えても回復する兆しはなく、今はこうして他の人への再感染を防ぐために一カ所に隔離されている。
ラナベルはセインルージュの祝福のおかげか昔からこういった病をもらったことはないため、ここに出入りしているのは今はラナベルだけだ。
彼らはシエルが亡くなったときと同じなのだと思う。
もう彼らには自分の身体を治すだけの元気が残っておらず、いくらラナベルの権能を用いてもダメなのだ。
彼らに待つのはすぐそこに迫った死のみ。
だからこそ、ラナベルはそれまでの苦痛をできる限り取り除きたいと願っているし、そのためならなんでもするつもりだ。
だが、自分の力が及ばないがゆえに死んでしまう人を見るのは、やはり苦しいものがあった。
テントを出て見上げた空は、半分ほど夜が広がっていて地平線の向こうに夕日の名残を見た。
なんとなしにすぐそばに腰かけて陽が沈んでいくのを眺めることにした。
(今日は何人夜を越せるかしら……)
昨日は二人亡くなった。夜が明ける前に様子を確認したときにはもう息をしていなかったから、ほかのみんなが目を覚ます前にダニアや騎士に頼んで運び出してもらったのだ。
ほかの村人たちも、テントの中が少しずつ人数を減らしていることには気づいているだろう。そして、自分の命が長くないことを把握している者は多い。
年配のものが多いからだろうか。彼ら彼女らは、みなすでに受け入れているような穏やかな顔でいつもラナベルを労ってくれる。
自分のほうが辛いだろうに、ラナベルにありがとうと毎回感謝の言葉を言ってくれるのだ。
(私にもっと力があれば……)
目の奥が熱い。こみ上げてきた悔し涙を堪えるように、ラナベルは俯いて目を固く閉じた。
泣いている場合ではないし、自分が泣いていいわけでもない。
気丈にしていなければと思いつつも心はギシギシと軋んでいた。陽が沈んで暗くなっていく世界に、幼いシエルの幻影を見て震えた息を吐き出したとき――。
「ラナベル?」
振ってきた言葉に――いや、声に弾かれたように顔を上げた。
夜と夕焼けが混ざった空を背景に、レイシアがその白髪をきらめかせていた。
「レイシア殿下……?」
どうしてここにと問いかけるよりも早く、彼はラナベルを見て「ひどい顔だ」と呟き、そうっと正面から抱きしめてくれた。
「やっぱり来て良かった」
耳許の囁きの意味は分からない。けれど、久しぶりのレイシアの温もりやかすかに香る花の匂いに、我知らずほっとしたラナベルの頬を一筋だけ涙がこぼれた。