二人の間を風の音だけがひゅうひゅうと吹き抜ける。
部屋着にショールを羽織っただけのラシナは身震いするように両手を抱き、しかし立ち去ろうとはしなかった。
ラシナには必ず二人は使用人をつけているが、その姿はない。今はこの邸の侍女長であるアメリーが出立の準備をしている。引き継ぎなどで使用人が慌ただしくしている隙をついて一人で出てきたのだろうか。
きっと祈りの間に用があるのだろう。
ならば、ラナベルは彼女を刺激しないようになにも言わずに道を譲るべきだ。
今日のラシナはいくらか理性的な目をしているが、いつそれが豹変するか分からない。忙しいアメリーや使用人の手を煩わせるような事態は起こすべきでない。
頭の中ではそう分かっているが、ラナベルはラシナと向き合ったまま距離を詰めていた。
近づいてくるラナベルに、ラシナがびくりと肩を揺らした。
だが、狂乱することはなく、むしろ戸惑うように居心地悪く視線を揺らすものだから、まるでシエルが存命だった頃の母を見ているようだ。
(ふふ、お母様はずっと私とどう接して良いのか戸惑っていたものね)
いつだって母と自分との間には明確な線が引かれていて、家族と言うには二人の繋がりは固いなにかに阻まれていた。
手放しの愛情をもらえなかった記憶ですら、今は痛みもなく懐かしく思える。
シエル亡き後のラナベルにはラシナしかいなかった。けれど、今はもう違うからだろう。
「しばらく邸を留守にします。使用人はアメリーと護衛の者だけ連れて行きますので、お母様は気にせずいつも通りお過ごしください」
「……どこへ行くの。この前も、どこかへ行っていたでしょう」
「先日はレイシア殿下のお仕事の付き添いで……今回は王宮からの要請で北東へ――スレアへ行ってきます」
王宮と小さな田舎村とが結びつかないのか、「スレア?」とラシナは首を傾げた。
頷きながら、ラナベルの頬に笑みが浮かぶ。
こうして真っ当に言葉を交わすのはいつぶりだろう。落ち着いた母の声が届く度に、なんだか子どもみたいに嬉しくなってしまう。例えラシナがラナベルに愛情を持っていなかったとしても。
「北東地域では今、流行病のせいで一部が閉鎖状態に追い込まれています。私はインゴールの祝福を授けられた者――治癒者として行ってまいります」
「でも、お前の権能は……」
「お母様。私は権能をなくしたわけではなかったのです。神の力にも及ばぬ事があるのだと、インゴール様が教えてくださいました」
ハッと目の前のラシナは息を飲んだ。
「セインルージュの名を背負う者として、自分に出来ることを精一杯努めてまいります」
一度だけ頭を下げ、ラナベルは悠然と微笑んで立ち竦むラシナを通り越した。
と、裏口の扉に手をかけたところで言い忘れていたことに気づいた。
「お母様! 私、レイシア殿下と結婚します!」
今まで粛々と言葉を交わすところしか見たことのなかったラシナは、ラナベルの弾けるような笑顔と喜びを含んだ声に目を疑っていた。
「あの方を愛してしまったんです!」
誰を愛することもないと思っていた。誰かに愛されることなどないと思っていた。けれど、それらは全て過去の話だ。
(もしかしてお母様もこんなふうにお父様を愛していましたか?)
思い出されるのは王妃の言葉だった。
身分違いな公爵相手に想いを寄せたという母の話。
きっとあれを聞いていなければ、ラナベルはこうして告げることは出来なかったと思う。
ラシナは目を奪われたようにラナベルと同じ色の瞳を見開いていた。ふと、口を開きかける。だが、それよりも早く背中を向けてしまったラナベルに言葉を向けることは出来ず、咄嗟に引き留めるように伸びた枯れ枝の腕を戻してしばらくの間消えた娘の面影を眺めていた。
アメリーやダニアはそうそうに支度を終えたらしく、玄関ホールには手の空いていた使用人たちが集まっていた。
その中でも幼いテトなんかは丸い目に涙を溜めて「気をつけてくださいね」とラナベルのスカートを掴んで姉にどやされている。
「しばらくは邸とお母様のことをお願いね。困ったことがあればレイシア殿下が力になってくれるから」
「はい。お任せください」
ぐずぐずと泣いたテトをラナベルから引き剥がしたリリーが元気よく答える。ほかの使用人にも挨拶を済ませて邸を出るところで、ちょうどよく王宮からの伝言係がやって来た。
「ナシアス王太子殿下からお言葉です。準備が完了したため、至急王宮までお越し頂きたいと」
王族の封蝋を押された手紙を受け取り、ラナベルは力強く答えた。
「ええ。すぐに向かいます」