「どこへでも連れて行きなさい」
決して逃げたりはしないと告げるような意志の強い声で、王妃はナシアスを見つめ返す。ナシアスも母の視線の強さに促され、そっとその両手を拘束した。
ほかの兵はすでに近衛兵たちによって連行されたようだ。
「父上にも話は通してあります」
連れられて温室を出る最中ナシアスが言うと、「そう」と王妃はなんの感慨もないように呟いた。
けれど、二人の姿を見送っていたラナベルは気づいてしまった。国王の話題によって彼女の瞳に痛みが走ったことを。
「お待ちください、王妃様!」
火花が散るような一瞬の怒りや恨めしさを目の当たりにしてしまい、つい呼び止めてしまった。
「どうしたのかしら」
振り返った王妃になにを言ったらいいのか分からず、あたふたと視線を巡らせる。そのとき、テーブルの上で唯一華やかに飾られていた造花が目にとまった。
「もしかして王妃様の言う彼というのは、その……グレラス、という方ですか?」
みるみる大きく見開かれていく瞳に、自分の推測は正しかったのだと確信した。
「どうして、その名を」
「以前、豊穣祭のときに街中でお会いしました。その方は、露店で自身の作った造花を売っていました」
テーブルにあるものは年代を感じさせて少しのくすみがみえるが、たしかにあれと同じ花だった。
天板の上で控えめに主張する花をみやると、気づいたナシアスやレイシアも息を飲む。
「その方はある方の姿を見るために、大きな催し物の際は王都にいらしているそうです」
「ある方……」
揺れる瞳が涙をまとって艶めく。くしゃりと歪んだその顔は、王妃ではなく、彼女の中に残っている少女の影だ。
泣き崩れて顔を覆う王妃に、ナシアスやレイシアは言葉を失って戸惑っていた。
彼らもあのとき露店で話を聞いていたのだ。この王妃の様子を見れば、大まかな事情は推測出来てしまっただろう。
「馬鹿……どうして、今も私などを……!」
慟哭する王妃に、レイシアとともに立ち上がったラナベルがそっと近づく。
王妃の背中に宥めるように手を置き、冷たい床から上体を起こさせる。
「彼は今、王都からは離れた村で暮らしています。スレアという北東地域の小さな村です」
「スレア……?」
グレラスから聞いていた地名を教えると、サッと王妃の顔から表情が抜け落ちて真っ青になった。指先がカタカタと震え出す。
急な変容にさすがのラナベルも驚いた。
「スレアと、今スレアと言った?」
「は、はい。そうです」
「スレアに、スレアに彼がいるのね?」
身を乗り出した王妃はラナベルの胸元を掴むような勢いで詰め寄る。
「お、王妃様落ち着いてください」
「スレアはこの前
――流行病。
その言葉に息を飲んだ。脳裏をちらつくのは、過去の記憶だ。
一晩かけてアメリーと二人で村人を埋葬したあの日。なにも出来なかったことへの無力感がまざまざと思い返される。
「お願い……彼を、グレラスを助けて!」
打って変わって恐怖と悲観で泣き出した王妃の叫びが、静まりかえった温室に響き渡った。
ナシアスの執務室で、ラナベルやレイシアたちは一つの机を囲んでいた。
机に広げられた地図の中、王都から離れた一点をナシアスが指さした。
「スレア村の隔離が決定されたのは三日前だ」
「人の出入りは完全に封鎖されているのですか?」
「ああ。思っていたよりも広がるのが早くてね……一番近い街でも発症者が出ていて、そちらの感染を食い止めるのに手一杯でスレア村まで手が回らないのが現状だ」
街での発症者もスレアへ向かう道中に拠点を築いて隔離しているという。
「……神官の派遣は」
「ラナベル。きみもよく知っているだろうけど、外傷はともかく病気にまで効き目のある権能を持つ者はほぼいないんだ」
つまり、今回の件について神官の派遣は見込めないということだろう。
ただでさえ治癒の権能を持つ者は希少だ。治せないと分かっていて、わざわざ流行病が広がる現場に向かわせはしないだろう。
「終息の見込みはあるのですか?」
ラナベルの問いに、地図を見下ろしたままナシアスは固い表情で首を振った。
「隔離拠点には現在十四名の患者がいて、スレア村の人口は二百足らず……すでに死者が十五人。最後に確認できた感染者は百を超えていたが、きっと今はそれ以上に増えていると思う」
医師も派遣してはいるが、対処療法しか出来ないためどうしても感染の広がりは止められないという。
(もう十五名も死者が……)
スレアにはもともと年配者が多くいたと聞く。体力がないため、症状の進行が早いのだろう。
聞けば聞くほど、ラナベルの中のある思いは大きくなっていった。
ナシアスに名乗りを上げようとしたとき、近衛兵に連れられたアメリーとダニアがやって来た。執務室へ移動する途中で走り書きの手紙を出したが、思ったよりも早く来てくれたようだ。
「お嬢様、ご無事だったんですね!」
「ダニア、心配させてしまってごめんなさい。――アメリーもありがとう。手紙を見てくれたのね」
アメリーの抱えた荷物に、ほっとラナベルは笑った。
「言われたとおり簡単に荷物をまとめました……ですが、これを一体どうされるつもりで……?」
困惑の目が向けられる。その瞳に、ふとあの夜のことを思い出した。
――お嬢様、どうか家族をお救いください。
あの日の懇願を、祈りを、ラナベルは果たすことは出来なかった。だから今度こそは必ず助けてみせる。
不安のせいかぎゅっと力強く荷物を持ったアメリーの手に自分のものを重ねる。
宥めるように手を握り、ラナベルは誓った。
「今度は、ちゃんと助けてみせるから」
届かなくてもいい独り言だ。アメリーの家族を救えなかった事実はなくならないが、どうしても彼女に誓いたかった。
「ラナベル、荷物ってどういうことだ?」
訝ったレイシアには微笑みだけで返し、ラナベルはナシアスに向き合った。
「ナシアス王太子殿下、私がスレアに行ってみなの治療にあたります」
片手を胸元に添えて膝をつきながら優雅に頭を下げる。すると、部屋の中は水を打ったように静まりかえった。
「……だが、きみの権能は」
「権能は一時的にコントロールを失っていただけで現在は問題ありません」
「治療が出来るのは助かる。けれど、きみにだけ頼るというのは……負担が大きすぎるだろう」
「この病は薬などでは根本的な解決にはなりません。なにより、病気の治癒が出来るのは現在私しかいません」
それでも、死者が出ている現状では救える人数には限りがあるだろう。それがひどく悔しい。
「危険だ」
「私は昔同じ病の広がった村へ向かい、無事でした。それは自身の権能が故です。いま、村に行けるのは私しかおりません」
そこまで言い切ると、ナシアスは二の句を告げられなくなった。彼だって出来ることなら救う道で事態を収束したいとは思っているのだ。
ナシアスとの会話で状況を察したアメリーの顔がみるみる青ざめていく。
嫌な記憶を思い出させてしまったかと、ラナベルがフォローに向かおうとしたとき。
強い力で手首を掴まれた。同じように顔を青ざめたレイシアが動揺の映る目で見つめている。
「俺も一緒に行く」
「ダメです。殿下を隔離施設の最中に連れて行くことなど出来ません」
「お前の権能があれば大丈夫だろう」
「万が一があったらどうするのですか」
「その万が一が! お前にあったらどうする!」
レイシアは王子だ。どうか安全な王都にいて欲しい。――そう願っての言葉だったが、ラナベルが答えるごとに彼の顔色は悪くなって、しまいには怒鳴るように言われてしまった。
骨が軋むほど掴まれた腕は当然のようにひどく痛む。気づいたダニアが引き剥がしにかかるのを止め、ラナベルは震えるレイシアの手を包んだ。
ナシアスに目配せで席を外すことを伝えると、彼は仕方ないというように肩を竦めて頷いてくれた。
「レイシア殿下、一度外に行きましょう」
小さく呼びかけて二人で執務室を出る。部屋の前にいた見張りの騎士から少し距離を取ったところでラナベルは俯いていた顔を覗き込んだ。
深紅の目は捨てられることを怖がる子どもみたいな絶望と悲しみが混在していた。
覗き込んだラナベルと目が合うと、そのまま彼の腕の中に引き寄せられる。胸板に顔が押しつけられて苦しい。
抜け出したいところ、息苦しさを耐えてそっと背中に腕を回した。
「レイシア殿下、お願いです。どうか私を行かせてください」
「いやだ……行くというのなら、俺も一緒に行く」
一人置いて行かれるのはもう嫌だと、掠れた泣き声が耳朶を打った。
顔を見ようと身じろぐと、逃げると思われたのかさらに強く抱きしめられてしまう。
「……レイ、顔を見せてください」
言うと、少しの逡巡の末、渋々と言いたげにゆっくり離れていく。それでも両手は腰に回ったままだ。
レイシアは泣いてはいなかったけれど、眉間には深い皺があって目許が赤らんでいた。じっと縋るような目を見つめ返して、ラナベルは微笑む。
「レイ。私もあなたのことを愛しています」
きょとりと瞬いた目に、クスクスと笑いが漏れた。
「だから絶対に帰ってきます。信じてください」
両頬を包んで鼻先を触れ合わせる。お願いとばかりにひたと見つめ続けていると、グッと渋い顔をしたレイシアガぐったりと身を預けてきた。
ずいぶんと深いため息が落ちる。
「もっと行かせたくなくなった」
拗ねた声に思わず笑い声が上がる。
「本当か?」
「本当です。……あなたが私なんかでいいと言ってくれるのなら、これからも一緒にいたいです」
「嘘で丸め込もうとしてないだろうな」
「してませんよ」
疑り深いと苦笑したが、その目に懐疑心はなく、どこか期待でうずうずして見えた。もしかして……と、彼の心情を推し量る。
「レイ」
「うん」
顔を上げたレイシアの唇を攫う。一瞬だけの触れあい。大きく見開かれた瞳を前に、もう一度愛の言葉を重ねる。
「本当に愛してます。……あなたこそ、まだ私を好きだと言ってくれますか」
ふと胸をよぎる自分の罪に泣きそうになった。刹那、潤みをみせた碧眼を見逃さずレイシアも顔を寄せてきた。
「ずっと言ってるだろ。お前じゃなきゃいやだ」
愛してると、吐息が触れてラナベルは呼吸を奪われた。