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第82話

 切実な祈りに応えるかのごとく、口づけと共にレイシアの身体を光の膜が包んだ。

 ゆらめくような淡い光に目を瞠っていると、やがてゆっくりと萎んでいって光は消えてしまった。

「レイシア殿下?」

 膝の上に横たわらせたレイシアを覗き込む。

 じっと見ていると青ざめていた顔に血色が戻っていくのが分かった。

 すうと長く息の吸い込む音がした束の間レイシアが咳き込んだ。

「ゴホッ、ガハッ……あれ、俺は……」

「レイシア殿下?」

「ラナベル……? 泣いてるのか?」

 ぐったりと身を預けながらもレイシアは重たそうに腕を持ち上げて涙を拭った。

「それより俺はどうして――」

 ハッとしたようにレイシアが腹筋を使って身軽に起き上がる。上衣を脱ぎ捨て、首を捻って自身の背中を覗き見ようと試みたが、上手くいかずにラナベルに見るよう頼んだ。

「痛みがない。怪我はどうなっている」

「怪我は……ないです」

 出血で赤く染まってはいるが、肌は綺麗なもので傷一つない。唖然としながら、ラナベルは我知らず手が伸びていた。触れて確認せずにはいられなかったのだ。

 滑らかな肌を指先で伝い、そして温もりを感じるように手のひらをピタリと触れ合わせる。

「本当に傷がない」

 熱心に触れているとピクリとレイシアの肩が揺れた。さっと逃げるように前のめりになったあと、咳払いとともに素早く上衣を羽織ってしまった。

「どうやらラナベルの祝福が作用したみたいだな」

「私の、祝福が……」

 両の手のひらを見落として呟く。本当なのだろうか。あまりに必死で覚えていない。だが、インゴールに祈ったことだけは覚えている。

 そういえば、神殿でインゴールは祈りが大事なのだと言っていた。もしかしたら、ラナベルの祈りが届いたのかもしれない。

 祝福の作用となる血の摂取は、切れた唇の少量でこと足りたのだろう。

「やっぱり必要な場面ではちゃんと使えたな。俺の言ったとおり心配する必要はなかっただろう?」

 さっきまで死にかけてくせに、レイシアは我がことにように喜んでいる。そんな姿にラナベルはやっと心の底から安心した。どっと崩れ落ちるように身体を丸くして深く息を吐き出す。

「ラ、ラナベル!? どうした、大丈夫か」

 肩に手を添えられ、ラナベルはゆっくりと顔を上げた。心配そうに自分を見るレイシアの頬におずおずと両手を伸ばして包み込む。

 伝わってくる体温に胸の奥が震えて、じわりと涙が盛り上がった。

「生きてる……生きてるっ!」

 額をすり合わせ、噛みしめるように何度も呟く。

 感極まったラナベルの喜びようにしばらく驚いていたレイシアもほんのりと顔を赤くして「生きてるよ」と喜びに浸った声で答えた。

「……本当に祝福は失ってなかったのね」

 二人の様子を離れたところで見ていた王妃は、目の前で起きた奇跡に思わず呟いた。

 さすがにレイシアまで殺す気はなかったので、ひとえに助かったという思いだった。だが、当初の目的であるラナベルのサインをもらっていない。

 レイシアがやって来たのは誤算だが、彼は今疲弊しきっている。

 この騒ぎだから近衛兵が駆けつけるのも時間の問題だ。今のうちにサインだけでももらっておかなければならない。

 サインさえ刻まれてしまえば、この契約は王妃とラナベル双方の同意がなければ破棄できなくなる。

 天板の上に放置されていた契約書を手に、二人に一歩近づいた。だが――。

「全員武器を捨てろ! その場で膝をつけ。抵抗の意思を見せたものから容赦なく斬り伏せる!」

 ナシアスを先頭に、近衛兵たちがやって来てしまった。

 王妃直属の兵たちはチラリと後方の自身の主を見やる。王妃は力なくゆるゆると首を振り、すると兵たちは武器を捨てて降伏を示した。

「二人とも大丈夫か? レイシア、怪我をしたのか?」

「もう回復しているので大丈夫です。それよりも兄上はあちらへ」

 レイシアが立ち尽くす王妃を見た。視線を追ったナシアスも続き、そうして目を合わせながら「母上」と小さく零す。

 そろりと踏み出された足が一歩ずつ母との距離を詰める。

 王妃は逃げる素振りもなかった。ただその場で諦念を滲ませつつ立ち尽くしているだけだ。

 息子が自分の元へ辿り着くのを見守るような、そんな慈愛に似た切ない目でナシアスを熱心に見据えていた。

 王と王妃の間に愛はなく貴族としての務めだったとしても、たしかに彼女は子どものことを愛しているのだと、ラナベルはその眼差しで気づいてしまった。

「母上、どうしてこんなことを……」

「こんなこと、ね……それは今回の件? それとも、イシティアのことかしら?」

 露悪的に微笑み首を傾げる王妃に、ナシアスは傷ついたように目を眇める。しかし、口調は冷静に問いを重ねていった。

「イシティアのことも含め、この一連の出来事に大してです。あなたがイシティアの暗殺に関わり、今回はこうしてラナベル嬢の誘拐に果たした……間違いはありませんか?」

「ええ。なにも間違っていないわ。私が指示を出してイシティアを殺し、彼女をここまで連れてきたわ……契約書にサインはもらえなかったけれどね」

 降参を示すべく、王妃は手の持っていた契約書とともに両手を挙げた。訝しんだナシアスが契約書を取って中身を検める。

「なっ! これはどういうつもりで」

「あなたのことだから私の責任を取って王太子の座を降りると思ったのよ。そんなことさせるわけにはいかない」

「母上、あなたはそこまでして私を王位に就けたいのですか? そこまで、権力や威光が大事なのですか?」

 怒りに震えるナシアスに、王妃はなにも答えなかった。

 聞いていたラナベルは、違うと思った。

 王妃はなにも自分の地位や権威が欲しくて事を起こしたわけではない。

 彼女の過去になにがあろうと他者を殺すなどあってはならない。だが、今回のラナベルの件は、ただナシアスが自責の念で後継者の地位を返上しないように布石を打とうとしただけだ。

「違います、殿下。王妃様はご自分の罪であなたまで巻き込むことがないように、私に契約を持ちかけたのです」

 それがなぜラナベルとの婚姻だったのかは分からない。だが、王妃自身の事情とともに、息子を巻き込まんとする思いがあったのは確かなのだ。

 それだけは誤解して欲しくなかった。

「……本当なのですか?」

「あなたのことだから、母の責任を取って――なんて言って市井にでも下りそうでしょう?」

「それは……たしかに考えていましたが」

 ほら。とでも言いたげに王妃は肩を竦めた。

 ラナベルやレイシアは、まさか本当に考えていたとも思わず驚いた。

「はあ……ナシアス兄上がいなくなって、一体だれがこの国を継承すると言うんですか? 言っておきますが俺は絶対にやりませんし、やりたくないです。それはローラン兄上やアノール兄上も一緒ですよ」

「レイシア……」

 ため息交じりのレイシアの言い分に、ナシアスは困った様子だ。迷子のような目が隣のラナベルに向かい、ラナベルもこくりと頷く。

「この国に、ナシアス殿下以上の後継者はいません」

「だが、私は……」

「兄上自身が罪を犯したわけでもあるまいに。なにを暗い顔で考えこんでいるんですか」

「いいのか、レイシア。私が……私のせいで……」

 狼狽えるナシアスがおどおどとレイシアの顔色を窺っている。そんな珍しい姿に、レイシアは口の端を大きく上げて皮肉げに言ってみせた。

「むしろ、勝手に王太子を返上されてどこかに行かれるほうが困ります」

 と、赤い瞳がスッと鋭く細くなり、ナシアスの向こうの王妃を見た。

「俺は、そこの王妃様が罪を認めてくださればそれでいいですよ」

 刃のような冷たい声に、ナシアスやラナベルの視線も王妃に集う。彼女はレイシアの眼差しにも臆することはなく、いっそ凛とした立ち姿のまま頷いた。

「認めましょう。イシティアの暗殺は私が企てたことよ」

 改めて、王妃はハッキリと自分の罪を認めた。



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