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第81話


「どうしてそこまでお母様のことを……」

 喘ぐような問いに、王妃はふっと鼻を鳴らした。

「言ったでしょう。これは私の勝手な恨みだって……ただの嫉妬よ。思い人と結ばれた彼女への」

「それは……」

 王妃は恋を諦めざるを得なかったということか。

(王妃様には恋人がいたの? 国王陛下との婚姻でそれが叶わず……?)

 だから息子を王位につけようと必死なのか。揃って来たパズルのピースに少しずつ状況が見えてきた。

「勘違いしないで欲しいのだけれど、彼のことを捨てたのは私の意志だったわ。王族との婚姻は自身の役目だと誇らしくさえ思ってた」

「なら、どうして」

「王族の結婚に愛や恋は求めるものでないわ。国王あのひとだって私を愛してたわけじゃない。でもお互いにそうだからなにも思わなかった」

 と、王妃の眉間に深い皺が刻まれる。

 ティーカップを持つ手に力が入り、そのせいで震えている。湧き上がる苛立ちや怒りを、懸命に鎮めているようだ。

「……それなのにあの男は、あろうことか異国の平民を迎え入れた! 惚れただなんてくだらない戯れ言で……!」

 ――ああ。そうか。

 深い怒りや恨みのこもったその言葉でラナベルは瞬時に察してしまった。

 王妃は今ものことを愛しているのだ。そして、その彼ではなく貴族としての婚姻を選んだことを後悔したくないがために、王との結婚に意味をもたせるために、なんとしても自分の息子を王位に就かせたいのだ。

 分かってしまうと、ラナベルの心に憐憫が湧いた。

 いつも王の隣で悠然と笑む王妃の仮面の下には、いつだって後悔に怯えたか弱い少女がいたのだ。

 きっとナシアスの婚姻相手を決めあぐねていたのも、自身の経験故に令嬢を選べなかったのではないかと思う。

 もしかしたらイシティアの暗殺を隠蔽した国王は、王妃が犯人だと気づいていて負い目があった故にそうしたのかもしれない。

 取り乱したことを恥じるように、王妃は咳払い一つでいつもの顔を取り戻した。そこに垣間見えた少女はいなくて、けれどもうラナベルは今までのように王妃を見ることは出来ないと思った。

 不憫で憐れで、可哀想だった。

 今の心からの叫びで、彼女が絶対に引くことはないと余計に理解してしまった。

 ラナベルは再び契約書と向き合う。

 ペンを手に取る。――だが、手は震え、固まって石のように動かない。

(私も、あんなふうに後悔するのかしら)

 ここまでくると、ラナベルはもう自分の気持ちに気づいていた。

 いつか愛情になると思って踏み潰した芽は、レイシアへの愛情そのものだったのだ。

 すでにラナベルは、レイシアのことを愛してしまっていた。

 いくら踏みつけて掘り返しても、こうして深く根を張ってなくなってはくれない。そんな愛を、彼に向けてしまっていたのだ。

 ここでその気持ちを見ない振りをしてナシアスと人生を共にして、自分もいつか王妃のように今日の選択を悔やむ日が来るのか。

 自分自身に問いかけ、そしていやと首を振った。

(私はきっと後悔はしない)

 悔やむのは、選ばなかった未来に幸せがあるからだ。

 ラナベルとレイシアが愛し合った先に幸福はあるか? いや、ないはずだ。大事な兄の命を奪ったラナベルと結ばれるなど、絶対にあってはならない。

 真相が明らかになった今、ラナベルは彼との人生を選ぶわけにはいかない。レイシアの幸せを望むのなら、この想いは打ち捨てねばならない。

 ――だから、これでいいのよ。

 のろのろと契約書を引き寄せ、ペン先を押し当てる。じわりとインクが染みを作る。

 震えた呼吸を一つ。息を止めて、署名をしようとしたとき――。

「――なにごとなの?」

 外がにわかに騒がしくなった。

 王妃の苛立ちまじりの問いに、周囲を囲っていたうちの騎士の一人が慌てて外に確認に出た。

 せっかくの決心を頓挫され、ラナベルも半ば呆然と騎士の背中を見送った。

 騎士たちの焦燥まじりの大きな声が聞こえた。どうやら誰かと争っているようだ。喧噪は遠いが、少しずつ近づいてきている。

 剣を交えた甲高い音が届き、まさかと一瞬ダニアの顔を浮かんだがすぐにかき消す。

 一介の公爵家の護衛騎士が、たった一人で王宮の……それも王妃の宮に来られるわけがない。

(……それなら、誰が)

 王宮内を行き来でき、ここまでやって来て騎士と争えるような人。

(もし……もしもダニアやアメリーが彼の元に駆け込んだとしたら……)

 ちかちかと脳裏に明滅する影は、ラナベルが勝手に生み出した幻想であって欲しい。一方で、心の片隅では本当にそうだったならと甘い期待がある。

 慌ただしく戻ってきた騎士はそろりと王妃に近づいて言付ける。

 ――レイシア殿下が……

「すぐに取り押さえてここには近づけないで」

「ハッ!」

 統率の取れた動きで温室内の騎士も外へと向かっていく。

 彼らの背中を、その向こうの温室のガラス越しの喧噪を、ラナベルは凝視する。そこにいるただ一人を思って。

(殿下が、ここに……?)

 トクリと心臓が甘やかに締めつけられた。期待と喜び――心地よい息苦しさで身体がいっぱいになって、泣きたい気持ちになった。

 そんなラナベルの横顔をみた王妃が失態だとばかりにため息をついた。それは計画の失敗を悟った顔だ。

 はやる思いのままラナベルが立ち上がりかけたとき、騎士が背中から倒れ込むように温室に入ってきた。そしてそれを剣で払い倒してであろうレイシアが肩で息をしながら立っている。

 不意に持ち上がった赤い瞳がラナベルを認めた。一瞬小さくなった瞳孔が、ハッキリとラナベルを見た途端に柔らかく安堵を示す。

「ラナベル」

 ――良かった。そう告げたレイシアに刹那の隙が生まれる。その束の間、遅れてやってきた一人の騎士の剣が、レイシアの背中を大きく切り裂いた。

「殿下ッ!」

 奥で、一緒に来ていたであろうグオンの慟哭が聞こえた。

「なにをしているの! 私は取り押さえろと言ったのよ! 王子を殺してどうするの!」

 立ち上がった王妃の真っ青な叱責よりも早く、ラナベルは駆け出していた。

 血を吹き出した身体が前のめりに倒れていく。彼が地面と衝突するよりも早く、なんとか滑り込んで正面から抱き留めて座りこんだ。

 切りつけた騎士は咄嗟のことだったのか、今さら現状を把握して狼狽えていたがラナベルの知ったことではない。

「殿下? レイシア殿下?」

 まだ追いつかない頭で、軽く身体を揺さぶって問いかける。しかし呻く声が聞こえるだけだ。

 ぬるりとした感覚に手元を見れば、べったりと赤くなった手のひらが映った。そして、真っ赤に染まって今も血の止まらないレイシアの背中が目に入る。

「あっ――」

 戻らなきゃ。

 反射的にレイシアの手から剣をすり抜こうとして、けれど彼が強い力で阻止するから思わず顔を覗き込んだ。

 顔色が悪い。唇が細い息を吐き出すだけの重傷者が、それでも渾身の力とばかりに剣だけは離さない。

 薄く開いた瞳が不意にラナベルを射抜く。その視線の強さに、彼にはなにをしようとしているかお見通しなのだと悟った。

「レイ、どうか剣を」

「ダメ、だ……それだけは、させない」

 もう二度と、お前に傷はつけさせない。

 途切れ途切れに伝えられ、ラナベルはあんまりにひどい言葉に泣きたくなった。

 だって今戻らないと彼が死んでしまう。大事な人が冷たくなっていく感覚など、もう二度と味わいたくなどないのだ。

 だが、レイシアはどうやっても力をゆるめてはくれなかった。傷に障ると思うと力いっぱいに引き抜くのも躊躇われる。

 結局ラナベルに出来たのは弱い力で奮闘しながら、懇願することだけだ。

「お願いします、レイ。お願い、剣を……」

 お願いだから死なせてもどらせて

 哀願する間にもドクドクと彼の身体からは命の血潮がふき出ていく。

 最初はラナベルが抱きしめていたはずが、いつの間にか逆転していた。だらりとラナベルに寄りかかるレイシア。しかし、その片腕はラナベルの後頭部を回り、強く自分の肩口に誘い込んでいる。

「いま、死んだっていい。どうせお前と生きる未来がないのなら、死んでいるのと同じだ」

「なにを、言って……」

「兄上とお前のどちらかなんて選べない……けど、兄上はもういないんだから、お前ぐらいはそばにいてくれ」

 なあ、ラナベル。もう一人はいやだ。

 その願いは、祈りは。あまりに寄る辺ないものであり、その強い想いをよく感じさせた。

(まだ私がそばにいることを望んでくださるのですか)

 気づくとラナベルはしきりに頷いていた。

「わかっ、分かりました。分かったから、どうか巻き戻りを――」

 と、言いかけとき、ふっとレイシアの身体から力が抜けるのが分かった。

「レイシア殿下……?」

 呆然と呼びかける。頭を抑えていた手が緩み、その身体がずり落ちてラナベルの膝に横たわった。

 あの真っ赤な虹彩は今は苦しげな瞼に閉じ込められ、息も細くなっている。いつの間にかレイシアを中心に赤い血の池が広っていた。

「いや……いや、いや! 殿下! レイシア殿下!」

 抱き起こし、顔を見る。頬に触れた手のひらに伝う温もりが薄く、ラナベルは半狂乱に呼びかけ続けた。

 絶望を前にしたラナベルにはもう巻き戻りもなにも吹き飛んで、目の前の愛する人の死に恐怖し、微かな命をつなぎ止めようと縋るしか出来なかった。

「おねがい、死なないで……おねがい……誰か」

 誰か彼を助けて。

 血で汚れるのも厭わずにレイシアを胸元に抱き寄せ、その頭を抱える。

 すこしでも体温をわけるように、ピタリと頬をくっつけるが溢れた涙のせいで上手くいかない。

(まだ、伝えてないのに)

 愛していると、言ってない。私も同じ気持ちなのだと伝えていない。

 歯の根が合わずガタガタと音が鳴った。その音が煩わしく聞こえ、ラナベルが強く唇を噛みしめた拍子にぷつりと皮膚が破れて血が流れた。

 血色をなくしていくレイシアの頬を撫でながら、ラナベルは祈った。

(お願いします、血の神インゴール……どうか、どうかこの人をお救いください)

 そのためならば私の命だって渡してもかまわない。

 己の命をわけ与えるように、ラナベルはそっとレイシアの冷たい唇に口づけた。




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