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第80話


 王妃の前であろうと辞さない二人に言い聞かせ、まだ納得のいかないダニアたちを半ば置き去りにするようにラナベルは王妃の馬車に乗り込んだ。

 すぐに馬車が動き出したが王妃は静かに窓の外に目を向けただけでラナベルを見ようとはしない。

 馬車ここで話をするつもりはないようだ。

 どこに連れて行かれるのだろう。心配になったが今さら馬車を降りるわけにもいかない。もちろんそうする気もなかったが。

 使用人の前で堂々と自分の顔を出して連れ去るぐらいだ。なにもこのまま殺されたりはしないだろう。

 殺すつもりだったなら、目撃者となるダニアやアメリーを置いていくことは許されなかったはずだ。

 そう考えて自分の内心を落ち着ける。

 デリンの村への道中に感じた恐怖を思い出しかけ、意識を逸らすためにチラリと王妃の横顔を見た。

 窓から見えた彼女はうっそりと微笑んでいたが、今はなんの感慨もないように静かなものだ。

 てっきりナシアスやレイシアが動き出したからこそ、こうしてラナベルに接触してきたと思ったのだが考え違いだったのだろうか。

 計画が露見したときのような焦りや不安、それに携わったラナベルたちへの怒りは見受けられない。

 むしろ、罪を吐き出しだ終えたデリンの雰囲気と似通って見えた。

(王妃様はどうして私を……)

 あくまでラナベルはレイシアの協力者であり、イシティアの件に関しては端役もいいところだ。

 ラナベルが捜査を取りやめることはできないし、王妃にとって利点があるとは思えない。

 揺れる馬車の中でぐるぐると考えを巡らせていると、そのうち馬車は王宮の裏門へと辿り着いた。



 レイシアの見舞いに訪れたときとは違う、けれど同じ造りの裏門を仰ぎつつラナベルは王妃のあとに続く。

 裏門付近は鬱蒼としていて見通しが悪かった。

 しばらく林道を歩いていくと開けた庭園に出た。その園路のさきには以前訪れた温室があり、王妃はその中へ足を進めた。

 一言も喋らない王妃のあとを静かに着いていきながら、随分騎士の数が多いなとラナベルは緊張を抱く。

 裏門はもちろん、通ってきた林道や庭園、そして温室などそこかしこに騎士の姿があった。胸元の腕章を見るに、王妃直属の護衛兵だ。

 ずいぶんと仰々しい姿だ。彼らの視線がまるで監視するように突き刺さるものだから、ラナベルは肌がひりつくような感覚を覚えてしまう。

 温室の中には以前も見たテーブルとチェアが並んでいて、あの日の再現のように王妃は同じ場所に腰かけてラナベルを見た。視線だけで座るように促され、こくりと息を飲んでから向かいに座る。

 茶菓子もお茶もなにもなく、真っ白な丸テーブルの上にはガラス瓶に刺さった造花だけ。

 それにどことなく身に覚えを感じていると、ようやく王妃が口を開いた。

「まさかこんなに大人しく着いてきてくれるとは思わなかったわ」

「……王妃様がお呼びであれば従うのがこの国の貴族としての役目かと」

「あなたもすでに知っているのでしょう? どうしてそんな平気な顔が出来るのかしら……それとも、仮初めの婚約者の兄の仇なんて、あなたからするとどうでもいいこと?」

 挑発するように細められた瞳に、カッと怒りがこみ上げて咄嗟に耐え忍んだ。

 表には欠片も出したつもりはなかったが、王妃はこちらを見透かしたように大きく口の端をあげて嗤う。

「ただの共犯だと思っていたのに……随分と情があるようね」

 不意に王妃が控えていた中年の侍女から書類を受け取ってラナベルの前に滑らせた。

「あなたに危害を加えるつもりはないわ。……ただ、これにサインをして欲しいのよ」

 それは契約書だった。しかも、契約の神トラゴースの権能を使ったものだ。

 一体なにを誓わせたいのかと中身に眼を通してラナベルは絶句した。

「これは、どういうことですか……」

 一つ、ラナベル・セインルージュはナシアス・ヴァンフランジェと婚姻を結ぶこと。

 二つ、ラナベル・セインルージュはすぐにでも自身の権能の復活を公表し、再び民草への医療奉仕活動を再開すること。

(どうして私がナシアス殿下と……)

 そもそもなぜ王妃はラナベルの権能のことを知っているのだ。

「あなたは随分とアンセル神官に慕われているのね……彼女、どうしても再びあなたのこと聖女として神殿に迎えて欲しいと他の大神官に頼み込んだらしいわ。その方が、親切にも私にあなたのことを教えてくれたのよ」

「……一体私になにをさせたいのですか? なぜナシアス殿下と私が婚姻を……?」

 この方はナシアスを王位に就かせたいはず。そのために今まで伴侶の座を空けて慎重にきたのだろう。それなのになぜラナベルなのだ?

「私はべつに罰を受けることも怖くはないし逃げることもないわ。けれど、ナシアスはだめ」

 あの子は絶対に王位に就くの。就かなければならない。

 歌うように滑らかだった口調が一変し、空気が低く震えるようだった。

 それはなにかに急き立てられたもののように焦燥や不安が見て取れる。

 驚きつつも、ミリアナが言っていたのはこのことかと納得した。

 ――母はなにかを怖がっているみたいだったわ。

 たしかに恐怖に駆り立てられたように見える。だが、ナシアスが王位に就かねば悔いてしまう過去とは一体なんのか、ラナベルには見当もつかない。

「あの子のことだから、母である私の責任を取ってと一緒に罪を被ることでしょう。それだけは避けなければならない」

 だから――と、王妃の細い指先が契約書を示す。

「あの子がそうできなくしてしまおうと思ってね」

「こんなことで、ですか?」

 どうして王位に縛り付けるための細工がラナベルなのだ。

じゃないとだめなのよ。ようやくあの子にも人並みに欲しいという感情が芽生えたみたいだからね。……そんな簡単に王太子の座を捨ててもらっては困るの」

「ですが、私には権能のコントロールが出来ません」

 きっと王妃は権能の復活でラナベルの地盤を固めてナシアスの後ろ盾とするつもりなのだ。聖女の座に返り咲き、しかも公爵家の一人娘。血統は申し分ない。

 どうにか諦めてはもらえないかと静かな表情の下で頭を動かし続ける。だが、王妃は無情にも首を振った。

「ダメよ。最悪権能がなくてもセインルージュの神聖なる血統で周囲にはいささか強引に納得してもらうわ」

 断固として譲る気配がない。ラナベルは契約書に目を落とし、そこにある今はまだ空白の著名欄を見た。

「拒んでも良いの。けれど、邸に残っている使用人たちが心配ではない? レイシアだって、さすがに騎士大勢相手に囲まれたらひとたまりもないでしょうね」

 今思い出したような軽やかさで続けられた言葉は、簡潔に言えば脅迫だった。逃げ道がない。

(サインするだけよ……)

 レイシアとの婚約は破棄するつもりでいた。必要な書類も準備が済んでいるし、そもそも彼が今も婚姻を望んでいるとは思わない。

 なら、躊躇することもないはずだ。

 そう分かっているのに、なぜか指先が痺れたように震えてペンが持てない。

 ここにサインをするだけでアメリーたちやレイシアの安全が保証されるのだ。王妃も自分は逃げるつもりがないと言っている。

 ナシアスには悪いと思う。ラナベルなんかが妻で可哀想だとは思うが、恨み言は王妃に言ってもらうしかない。

 だから、さっさとサインをするべきだ。

 いくらそう強く思っても、動けと念じても、理性とは別で心が叫んでいる。拒むように強く、悲鳴を上げるように鋭く、サインをしたくないと心が叫んでいる。

 真っ青になって契約書を見下ろすラナベルに、王妃は冷めた色の瞳を細くした。

「……やっぱりあなたで良かった。ちっとも心が痛まないもの」

 ひどい言葉のようで、けれど王妃自身が傷ついたような痛みを持った声だ。

 思わず顔を上げると、やはり彼女は傷を負ったみたいに歪んだ顔をしている。

「――ごめんなさいね。この感情に関してはあなたはなにも悪くないわ。ただ、私が勝手にラシナを恨んでいるだけだから」

「お母様を……?」

「ええ。身分差も気にせず公爵に近づき、押しかけて結婚した愚か者」

 そんなラシナの娘だから、ひどいことをしたって心が痛まないのだと、王妃は随分下手くそな笑い方で吐き捨てた。

 初めてお茶会に来たあの日、ラナベルへ向けられた冷え切った眼差しの理由がそこにあった。



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