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第79話


 前方から冷たい風が吹き抜けてきた。

 ラナベルは首を竦めてマフラーに顔を埋めて寒さをやり過ごす。隣を歩いていたアメリーが自分のマフラーをとって重ねてこようとしたので慌てて止めた。

 たしかにこの時期に外を歩くのはひどく冷える。けれど、冬は空がいつもより澄んで見える。

 ふと顔を上げながら、ラナベルは青い空の向こう側を見通すように遠く視線を投げた。

 はっと息が漏れると白く濁って溶けていく。

 レイシアたちとともにデリンの村を訪れた日からすでに一週間が経過していた。その間、ラナベルはずっと引きこもっていた。

 優しい使用人たちは見守ってくれていたが、心配を宿した視線は日に日に強くなる。耐えきれなくなったのはラナベルのほうだった。

 ハラハラした様子の彼女たちに心が痛み、今日はこうして気分転換に散歩に出てきたところだ。

「朝の空気は気持ちいいですね」

「寒いのもまた風情って感じでいいですよね」

 アメリーとダニアの和やかな会話に、思わず口許が緩む。二人もラナベルの表情の和らぎに気づき、そっと嬉しそうに安堵した。

 すっと身体に入り込む空気のおかげか、頭も心もどこかスッキリしていた。かといってレイシアへの罪悪感も自責の念もなくなりはしないが、蹲っているよりもしっかり抱え込んだ上で生きねばならないと割りきったような、そんな前進である。

 ラナベルを送り届けた翌日も、その次の日も、レイシアはセインルージュ家を訪れてくれていた。

 ラナベルは合わせる顔がなかった。

 主人の命に忠実なアメリーが、王子相手だろうと玄関口から一歩も中に入れることはせずに対応した。壁に背を預けながら、ラナベルは隠れて二人のやりとりを盗み聞いていただけだ。

 ――ラナベル! 俺と話をしてくれ!

 何度も、レイシアはそう声をあげていた。

 彼の懇願は、まるでラナベルが聞いていることを確信しているようでもあった。

 必死な叫びを思い出すと、今も胸が痛くなるほどだ。けれど、今回ばかりはラナベルはレイシアの望みを叶えてあげるわけにはいかない。

 幸運だったのは、レイシアの訪問が三日目でパタリと途絶えことだろう。そう経たずに王宮からはミリアナの歓迎パーティーが延長されると報せが届いた。

 きっとナシアスが本格的に動き始めたのだ。レイシアが姿を見せられないのもそのせいだろう。

 代わりとでも言うように手紙が届くようになったが、手紙は開けなければ苦しむことはない。

 あれ以上レイシアの懇願を聞いていると、いつか根負けしてしまいそうだったから良かった。

 机の上で静かに重ねられた手紙を思い返し、ふうとため息が出た。

 負けてはダメだと、心に刻み直す。

 なぜ、自分がこんなに苦労しているのかと冷静に思うときがある。

 罪を犯したのはラナベルだ。こちら側が縋り付いて許しを請うならいざ知らず、なぜ責め立てる資格をもったレイシアのほうが泣きそうになっているのかと。

 ――彼が望んでいるのなら、答えてしまえばいいんじゃないのか?

 甘い悪魔の囁きが過るのは何度目だろう。

 いけない。ラナベルはゆるゆると頭を振って思考をクリアにする。

 彼は優しい人だから、罰を与えてはくれないのだ。だからラナベルは、自分で自分を責め立てて罰しなくてはならない。

 イシティア殿下を……レイシアの大事な人を、自分は殺したのだと。そのことを、片時も忘れてはならないのだ。

 彼の手を取りたいなどと望んではならない。

 無心で歩いているうちに、随分遠くまで来てしまったらしい。

 朝食を終えてそうそうに外に出てきたが、ちらほらと人影が見え始めた。

 そろそろ帰りましょうか。後ろに付き従う二人を振り返ろうとしたとき、随分と急いだ様子の馬車が背後から迫ってきた。

 無意識に端へと避ける。――しかし。

「ラナベル様!」

 なにを思ったのかダニアがラナベルの腕を取って前に躍り出た。警戒したようにダニアが構えをとるすぐ近くに馬車が急停車する。

 その距離の近さに、ラナベルも遅れてその馬車の異質さに気づいた。

 アメリーもすかさず隣に来てその馬車の主にピリピリと攻撃的な目を向けていた。

 馬車には家紋が刻まれてはいなかった。

 一体誰かと思いきや、シンプルながらに上質な素材を使ったと分かるその構造に十中八九貴族だと確信を持つ。

 馬もずいぶんと丁寧に毛艶が整えられ、大事にされているのが分かった。

 御者の身なりから見ても随分と高位のものだ。

 瞬時に見抜いたラナベルが宥めるようにダニアの肩に手を添えた。

 こちらから攻撃的な態度を取って二人に処分が下ることは避けたい。

 なにより、このタイミングでの接触だ。ラナベルには半ば確信に近い予感があった。

 しばしの沈黙のあと、閉めきられていたカーテンが微かに持ち上げられた。嫋やかで傷一つにない指先だ。

 口許が露わになり、そして隙間からチラリと片目が覗く。

 キラリと光った黄金色の輝き。全容が見えずとも分かるその美しい面差しに、ラナベルの喉が緊張と恐怖で鳴った。

「……王妃様」

「久しぶり、セインルージュ嬢。少しあなたとお話がしたいの」

 その物騒な目をした使用人は下げてくださる?

 と、取り繕った笑顔さえない冷たい声と眼差しが、ラナベルたちに痛いほど突き刺さった。



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