王宮から帰宅した晩、ラナベルはなかなか寝付けずにいた。
寝る直前まで火をくべられた暖炉で温められていた部屋も、すっかり冷え切ってしまっている。布団の中で温まっていればそう気にもならないのだろうが、横になっている気分でもなく、いやに覚めた目でベッドから起き上がる。
冷たくなり始めた部屋の空気に身震いがした。冷たい床の上を早足で滑り、ソファにかけてあったガウンをいそいそと羽織る。
柔らかな素材に全身を包まれると、ようやく寒さもマシになる。ほっとひと息ついたラナベルは、暗がりの中でランタンに火を入れてそれを手に廊下へ出た。
みんなが寝静まった邸の中は冬の冷気もあって別世界のような静けさで満たされている。
手元を照らすランタンの小さい明かりを頼りに進んでいく。
とくに目的があって出てきた訳ではなかった。ただ暗い部屋の中でじっと横になっていることが出来なくて、つい出てきてしまっただけ。
適当に歩いたら部屋に戻るつもりだったのだが、窓から見上げた夜の空が綺麗なもので行き先を玄関ホールに変更した。
階段を下りてホールを突き抜ける。音を立てないようにゆっくり力を込めて玄関戸を開け、隙間から猫のように素早く外に出た。ハッと吐いた息が一瞬で白く濁る。
ランタンを持つもう一方の手でガウンの胸元をかき合わせながら屋根下からでると、チカチカと瞬く星空に迎え入れられた。
「……綺麗」
思わず感嘆がこぼれた。美しい星たちを前に、昼間から自分を苛んでいた悩みが束の間遠くへいってくれる。頬をなでるひんやりした風のおかげで頭もクリアになった。
「ラナベル様? お一人でどうされたんですか」
「ひゃあッ!」
突然の呼びかけに短い悲鳴が漏れた。手の内から滑り落ちたランタンが、けたたましい音を立てて地面に落ちる寸前、「おっと」と軽い声とともにダニアが受け止めてくれる。
「ダ、ダニア……まだ起きていたんですね」
「突然声をかけてすみません。ずいぶん驚かせてしまったみたいで」
お散歩ですか? なんて暢気な声にこくりと頷く。
すると、隣に並んだダニアは自分のジャケットを脱いでラナベルの肩にかけた。
「こんなに寒いんじゃガウンを着ても身体に悪いです」
「でも、これじゃあダニアが寒いでしょう」
「鍛えてるから大丈夫ですよ。それよりラナベル様が風邪なんてひいたら大変です」
ニッコリと笑う顔は人好きのするものだが、頑固として受け取らないだろう意志の強さが見え、渋々ラナベルはジャケットを借りることにした。
「少し外の空気を吸おうと思っただけなんです……だからすぐに返しますね」
「べつにラナベル様にならいくらだって貸しますけど。それよりこんな時間にどうしたんですか?」
「なかなか寝付けなくて……外の空気でも吸ったら気分も入れ替えられるかと思ったの」
「それなら俺が話し相手でもなりましょうか? けっこう聞き上手だと思いますよ」
歯を見せて笑うダニアにふとラナベルの身体の緊張も解ける。
玄関口からそう離れていないベンチに、二人は隣り合って座った。月明かりに照らされるなか、ラナベルは不意に語り出す。
「……自分の考えが及ばなくて相手の心情を気遣ってあげられなかったの。言い訳かもしれないけれど、他のことでちょっと頭がいっぱいになっていて」
「それってレイシア殿下のことですよね」
「んぐ、ええ……そうなのだけれど」
そんなに分かりやすかっただろうか。
「もしかして婚約やめようとか言われたんですか? まさか浮気とか!?」
「ち、違うわ。彼はそんな不誠実なことはしないわ」
いますぐにでも勇み足でレイシアの元に駆け出しそうなダニアを押しとどめる。
むしろその逆だから困っているのだ。
内心で悩ましく息をつく。
「ダニアは人を愛するときってどんなときだと思う?」
「誰かを愛するときですか?」
「ええ。例えば、家族や大事な人を亡くして弱った人が、頼れる人間に感じるのは愛だと思う?」
「それは愛なんじゃないですか? そういう弱ったときに寄りかかれるってことですよね」
「……けど、淋しいとかそういうので身近な人に錯覚することだってあるかもしれないじゃない? だって、愛してもらえるようなことをした覚えがないんだもの」
ここまで言ってしまえば、ラナベルの言う相手がレイシアだとダニアも気づいただろう。だが、彼はそのことに言及もせずに真剣に考えてくれた。
「そういうのって多分本人しか分からないものですよ。意図したものより、何気ない言葉とかその人の自然体が誰かを救い上げてくれることのほうがきっと多いですもん」
「……そういうものなのね」
「そういうものです」
なら、レイシアはいったいラナベルのどんなところに心を向けようと思ってくれたのだろう。なにが、彼の心に刺さったのだろうか。
ふと考えて、こうして考えるのも無駄なのだろうなと思い至る。ダニアの言うように、それはレイシア本人にしか分からない。
だが、それを受け入れるかどうかはラナベルの問題だ。
「誰かと生きるなんて考えたことなかったのに……」
白い息とともにこぼれた本音。
結婚なんて、自分の人生とは無縁のものだと思っていた。誰かに愛されることもそうだ。
自分とは関係ないと思っていたことが突然目の前に降ってきて、通せんぼされているような心地だ。
どうしたらいいのだろう。
夜空を見上げながら、そっと自分の手の甲をさすってみる。レイシアの懇願が落ちたその手を――。
弱々しいあの呟きを聞いてしまえば、無下に突き放すのも忍びなく思う。現にこうして自己嫌悪と心配で寝付けもしないのだ。
彼の告げてくれた愛の言葉が単にイーレアを亡くした孤独から出ただけでなく、真実ラナベルへ向ける愛情があるというのなら。
それなら、彼との未来を真剣に考えてみてもいいのだろうか。
決して同情心などではない。彼を愛しているかと訊かれれば戸惑ってしまうが、告げられた愛情を嬉しいと思えるのだ。それなら、前向きに考えてみたっていいのかもしれない。
白い息が夜空に溶けていく姿を眺めながら、ラナベルはそんなふうに思い直した。
そう長くいると風邪をひくからと、ダニアに促されてラナベルは屋内へと戻ることにした。
「上着をありがとう。寒かったでしょう?」
「言ったじゃないですか。鍛えてるから大丈夫ですよって。むしろラナベル様のほうこそ温かくして寝てくださいね」
自室まで見送られ、羽織を返すと大事なことだと言い聞かせられる。頷いたラナベルに就寝の挨拶を告げて引き返したダニアは、歩き始めたところであっと振り返った。
「一応お伝えしておきます。ハッキリとはしないのですが、最近妙な視線を感じるときがあります」
「視線?」
「はい。ラナベル様を……もしくはその周囲を観察しているのかと思います」
真剣な顔で顎を引いたダニアに、困惑と不安を覚えた。
「いったい誰が……」
「分かりません。俺の勘違いかもしれませんし、ラナベル様を狙ってと言うことも大いに考えられます。ですからどこに行くにも必ず俺を連れて行ってください」
今日みたいに留守番はいやですよ、とダニアはこちらの不安を和らげるためにか、茶化したように片目を瞑って笑って見せた。
「ええ、ごめんなさいね。もちろんもう置いていかないわ」
おやすみなさい。
どちらからともなく二度目の挨拶を交わして別れる。口許まで布団を持ち上げて丸くなると、すぐにうとうとと眠気が押し寄せた。スッキリした心持ちだが底のほうに不安がもたつくなか、ラナベルはいつの間にか眠っていた。