深い皺の刻まれた眉間や、視線だけで人を射殺せそうな深紅の睨み。
ずいぶんと威圧感ある不機嫌さに、ラナベルは狼狽えつつレイシアの腕の中でくるりと反転して彼と向き合う。
「ど、どうされたのですか? さっきだって急にナシアス殿下にあんなことを訊かれたりして……」
固い表情を解そうと、体温を分けるようにピタリと手のひらを頬に添える。
しばらく黙っていたレイシアだが、感情を飲み下したのかしだいに眉間の皺が取れていった。
無表情ながら首を傾げてラナベルの手のひらにすり寄る。媚びるような幼い仕草に、咄嗟にドキリとした。
「……ナシアスがお前に会うためにこのタイミングでミリアナに会いに行くのだと思った。さっきの茶会でも、ミリアナがナシアスはどうかとお前に訊いていただろう」
妬いたのだと率直な拗ねた声が降ってきた。
「まさかナシアス殿下と私がそういった深い仲になると思ってるのですか?」
そんなことあるわけがない。
「以前王妃が言っていたように家柄は申し分ないだろう。祝福だって本当は問題なかった。なによりナシアスはお前に好意的だ」
「それは以前意図せず助言めいたことを言ってしまったからですよ。ナシアス殿下だって深い意図はないです」
じっと静かな眼差しを向けてきていたレイシアは、ふっと息をつく。片頬だけをあげた歪な笑顔だ。
「……そうだといいけどな」
囁きに訊き返すよりも早く、腰をさらわれて歩みを再開させられた。
腰元で感じる強引な力強さに、ドキドキと鼓動が速くなる。
レイシアに触れられていると、まるで羽先で撫でられたように胸がこそばゆい。一方で、困惑も強く覚える。
(どうして急にこんなことに……)
この短期間で、ラナベルはレイシアから許容できないほどの愛の言葉を捧げられた。
突っぱねることに精一杯で気にかけていなかったが、あまりに性急で、そして過剰だ。
一度堰を切った故に開き直っているのか。それともほかに理由があるのか。
受け入れるわけにはいかないと思うが、それはそれとして様子のおかしいレイシアが心配でもあった。
なんせ他人相手にはいつも取り繕っているレイシアが、無礼を承知でミリアナの宮に乱入したり、ナシアスに敵意を向けているのだから。
あの二人と対立することはレイシアにとって好ましくない。王妃の物証を探す上で大きな障害となる可能性があるのだから。
それなのにレイシアは動いた。ラナベルがとられるかもしれない――なんていう、たかがそんなことで。
レイシアへの心配と懊悩が交差する内に馬車のもとまで帰ってきてしまった。
「殿下、ここまでで大丈夫です。今日はありがとうございました」
手を借りて馬車に乗り込んだ矢先のことだ。
別れの挨拶をして微笑むと、不意にレイシアの顔がくしゃりと歪んだ。
え、と戸惑う隙もなく、彼は身を乗り出した。膝上で揃っていたラナベルの手に自分のものを重ね、そうして甲に額を押し当てた。
膝に伏せるようにしたレイシアに驚き制止するよりも早く、重なった彼の手が震えていることに気づいてなにも言えなくなる。
「……お前は離れていかないでくれ」
蚊の鳴くような声はいとも簡単にラナベルの頭を真っ白にした。
スンと鼻の啜る音が一つ。顔を上げたレイシアの目は潤んでもいないし、その顔には笑みが乗っている。だが、たしかにさっきの彼は泣いていた。
まさに子どもが孤独を恐れるようにひっそりと泣いていたのだ。
「また会おう」
扉が閉ざされ、ガタガタと馬車が動き出す。王宮を出て景色が変わった頃、ラナベルはようやく息を吹き返して背にもたれかかった。
「馬鹿……どうして気づかなかったの」
彼はつい先日母を亡くして一人になったばかりの青年なのだ。
本当にどうしてそんな簡単なことに気づかなかった。察してあげられなかった。気遣ってあげられなかった。
自分への罵りを内心で吐き出し、ラナベルは長く息を吐き出した。
愛の言葉を前に純粋に困惑して混乱していた自分に呆れかえってしまう。
(レイシア殿下からの愛情が本心なのなら……)
家族がいなくなって、唯一寄りかかれる人間が自分の手の中から飛び去ってしまう可能性があるとしたら。それならば今日一日の行動にも納得がいく。彼にはもうラナベルしかいないのだ。
(私はどうしたらいいのかしら……)
あの子の将来を考えるのなら、むしろこの一時の感情にラナベルまで飲まれるわけにはいかない。だが、あんなふうに弱った彼を突き放すこともまた出来そうにない。
背もたれに首をもたれて外の景色を眺めていたラナベルは、悩ましいとばかりに眉間に皺を寄せて瞼を閉じた。