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第63話


「ミリアナ姉上が弟である私よりもさきに我が婚約者とお会いしてると聞き、淋しくなって来てしまいました」

「あら。淋しく思ってもらえるほど慕われていたなんて初めて知ったわ。ありがとう」

 謁見のときのようなにこやかな人好きのする仮面で、レイシアは歌うように告げた。ミリアナもミリアナで、さっきまでのにこやかさにどこか毒を混ぜたような意味深な笑みで答える。

 笑顔を貼り付けたままのレイシアは、ラナベルの傍らに紳士然と立つと流れるように肩を抱いて見せた。

「姉上とラナベルが仲がいいのは嬉しいですが、どうやら私にとってはあまり好ましくない会話がされていたようですね」

「まあ。女性の会話を盗み聞くなんて紳士のすることじゃないわね」

 口許に手を当てて目を大きくしたミリアナはずいと身を乗り出す。

「ラナベル。やっぱり兄のほうがいいんじゃない? 兄はたしかに男らしさとは縁遠いけれど、こうして婚約者のあとをついて回るようなことはしないはずよ」

「ミリアナ様、それは……」

 手をとられたラナベルは答えに窮した。

 ナシアスとの話は冗談だったろうに、なぜミリアナはレイシアを煽るようなことを言うのだろう。

 肩に置かれた手の力が強くなったような錯覚を覚え、知らずと冷や汗が流れた。

「姉上。戯れはやめてください」

 固い声は普段のレイシアのものに近かった。

 肩を抱いたまま身を乗り出したレイシアは、もう一方の手で結ばれていた二人の手をほどいた。払うようにミリアナの手を遠ざけると、ラナベルの両手を一包みにしてしまう。

 覆われた彼の体温にドキリと胸が高鳴った。思いのほかしっかりと包み込まれ、囚われているような気分になって居心地が悪い。

 落ち着かない気分で座り直すように身じろぐが、それも肩に置かれた手が押しとどめてくる。

 忙しなく瞳を彷徨わせるラナベルと仮面も被れなくなったレイシアの真顔を見て、ミリアナはきょとりと瞬いてから大袈裟なため息とともに肩を落とした。

「……やっとピッタリの人が見つかったと思ったのだけれどね」

 仕方がないとばかりに首を振り、そうして彼女は再び向かいにいる二人に目をやった。

 静かに、けれど威嚇するようにじっと鋭い目を向けてくるレイシア相手に、ミリアナはふと微笑んだ。

「あなた、そんな顔もできたのね」

 喜びのなかに一筋の苦みを込めたような、そんな形容しがたい声音。

 意図を測りかねたラナベルとレイシアが揃って首を傾げると、それすらなにやら琴線に触れたようでクスクスとおかしそうに笑い声を上げた。

 その笑いが収まったころ、ミリアナは気を取り直すように言った。

「まったく……せっかく女性同士で楽しんでいたのに男性が来たら台無しでしょう。ラナベル、仕方がないから今日は帰って大丈夫よ。彼の前でこれ以上話をしていると噛みつかれてしまいそうだもの」

「それではお言葉に甘えます」

 戸惑いつつもミリアナの笑みはあくまで好意的だったので、ラナベルは素直に受け取った。

 両手を包んでいた褐色の手はいつの間にか外れていて、エスコートされながら立ち上がる。

 揃ってミリアナに挨拶をしてから二人は温室を後にした。

 腕を組んでしずしずと進む。沈黙に耐えきれなくなったのはラナベルだった。

「どうしてここに……?」

 もちろん手紙で報告していたので今日のお茶会のことは知っているはずだ。だが、今回招待されたのはラナベルだけであったし、なによりレイシアは母を亡くしたばかりだ。

 チラリと彼の纏う黒い礼服に目をやる。

 イーレアが亡くなってそう経っていない。てっきり宮の奥で喪に服しているだろうと思っていたのに、どうしてわざわざやって来たのだろう。

 不思議がるラナベルの疑問に答えるように、レイシアは立ち止まって向き直った。

 見下ろしてくるレイシアの表情は静かなものだ。だが、その赤い瞳だけがどこか情熱的な大きな感情を秘めているように思え、つい視線から逃げるように俯いてしまう。

「お前に会いたかっただけだ」

 愛してると告げられたあの日のような強く訴える口調ではない。さらりと告げられた言葉は、むしろ温かな陽差しを受けたようなぬるい温度だった。

 雑談の間に差し込まれても気づかないような、自然な語り口と表情。

 そんなありふれた柔らかさやぬるま湯のような声や態度が、簡単にラナベルの頬を薔薇色に染めて体温を上げてしまう。

「……本当に、私などのことを愛しているというのですか?」

 ついつい本音で問いかけてしまう。心外だと言いたげに彼の眉がぴくりと跳ねる。

「あの日伝えた言葉に嘘はない。全部俺の本心だ」

「……まさかこのまま本当に婚姻を結ぼうとでも思っていらっしゃいます?」

「ラナベルが許してくれるのなら、そうなりたいと思っている」

「私は以前、セインルージュ家は解体するつもりだとお伝えしていたはずですが」

「それならラナベルの行くところについて行こう。なにもお前が公女だから愛したわけでもない」

 レイシアは打てば響くように淀みなく答え続ける。なにを言っても返されると思ったラナベルは一度口を噤んだ。

 そうして、思案の末に致し方なく自身の瑕疵かしをさらけ出すことにした。

「……私は、殿下には相応しくありません。自分の心を守るために他人を切り捨てるような矮小な者です」

 できたばかりのその傷は、まだ生々しい痛みを伴ってラナベルの心に存在していた。

 その痛みから意識を逸らしつつ、これでどうだと半ばやけになって早口で告げた。ふんと顎をあげて真っ直ぐ見つめ返した先で、レイシアはどこか悲しむように目を細くしてラナベルの頬を撫でた。

 輪郭をなぞるように添えられた手にさえ、心臓が跳ねる。

「俺は、お前が他人のために傷や命を厭わないことを知っている」

 そんなこと欠点にもならないのだと、言外に伝えられた。一方で、「あんまり自分を傷つけるな」と心配までされてしまい、もうラナベルはどうしたらいいのか分からなくなった。

「……俺が知りたいのはそんなことではなく、お前が俺をどう思っているかだけだ」

 さっきまで優しくとも逃げを許さないような目で見ていた男は、今は不安を称えた目で子どものようにラナベルの様子を窺っている。

「俺のことが嫌いか? この気持ちは迷惑か?」

 なあラナベル、ラナベル――子犬が縋るように何度も呼びかけられ、途端にラナベルは弱ってしまう。

 レイシアのことは嫌いではない。向けてくれる愛情を迷惑だとも思っていない。……たしかに困ってはいるけれど。

 だが、そう安易に受け止めてしまえる問題ではない。

 レイシアはさきの言葉通りラナベルとこのまま本当に結婚することを望んでいるというのだから。

「分かりません……私はずっとあなたのことをそんなふうに見たことなどなかったので……」

 そうだ。ずっと年下の男の子だと……あつかましくも、手助けしてあげないといけない子どものように思っている節があった。

 それなのに突然愛情を向けられたって分からない。――分からないはずだ。

 今だって手をとられているだけでこんなに混乱して心臓がバクバクしているのだから。

 どこか言い聞かせるように自答し、ラナベルはどうにか一言だけ返した。あやふやでハッキリしないずるい言葉を。

「今はまだ分からなくてもいい。正式な婚姻までにはまだ時間があるのだから、それまでよく考えてくれ」

 そう言ったレイシアはラナベルの両手をまとめてすくいあげ、そっと指先にキスをした。


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