突然の来訪に戸惑っていたアメリーには申し訳ないが退室してもらった。
向き合って早々に、レイシアは唾棄するように「どうして巻き戻った」と言った。責めるような鋭い声にギクリと身体が固くなる。
やはり感謝なんてされるはずがない。一抹の期待は一瞬で消え去った。
予想していたことだ。分かっていたはずなのに実際に憤った彼の声を前にすると、途端に心臓が冷たくなって鼓動が速くなっていく。
今口にするとなにもかもが見苦しい言い訳のように思えてなにも言えないでいると、さらに距離を詰めたレイシアが両肩を強く掴んだ。
「どうして! 戻らなくていいと言っただろう!? 死ぬなと言ったはずだ!」
お前だって頷いたはずだ!
あれは咄嗟に頷いただけ――そんな言い訳も浮かばなかった。
揺さぶられながら、ラナベルは突き刺さる慟哭に胸が痛くなった。一方で、予想とは違う方向に嘆く彼の言葉に半ば呆然としていた。
ラナベルはてっきりレイシアが「約束を破ったこと」に怒っているのだと思った。信頼を損ねるような行為を咎めているのだと。自分の事情で誰かの命が消費されることをよく思わないのだと。
だが、さっきから届くレイシアの叫びはなんだ。
「また切りつけたのか? この細い首を、自分の手で……。あの晩餐会の日のように血だまりに倒れ込んで一人で死んだのか?」
レイシアは泣いていた。大きく盛り上がった涙が目尻から絶え間なくボロボロとこぼれ落ちていく。
潤んだ赤い眼差しは、ラナベルの傷一つない細い首を悼むようにひたと見ていた。
嵐の夜の日のように、ない傷を追うように肌を撫でる指の感覚に、喉がひくりと痙攣する。胸が詰まる。
なんで。どうして。
我が儘を言う子どもみたいに、レイシアはくしゃくしゃの顔で繰り返した。ラナベルを責めるように、そしてなにか強い気持ちを訴えるように同じ言葉が繰り返される度に、ラナベルの胸が震える。
その震えは喉元をせり上がって来たが、形容しがたいそれを上手く言葉にはできなかった。代わりに、じんと沁みるような痛みが目の奥に広がり、気づけばラナベルの目にも涙が盛り上がっていた。
震えは、歓喜のように華やかな気持ちでもあって、興奮のように熱くもあった。激しい心情が混ざる胸の内のまま、ラナベルは思った。
(もしかして、殿下は――)
「
「当たり前だろう! なんで俺が戻るなと伝えたと思う!? お前なら、俺のために――誰かのために簡単に死んでしまうだろうと思ったからだ!」
なぜそんな簡単なことが伝わらないのだと、レイシアはもどかしさを現すように固く目を瞑って叫んだ。
肩を大きく震わせた彼の喉がひくひくとしゃくり上げる。
呼吸すらままならないように泣く彼の姿は痛々しく胸を締めつけられるはずなのに、ラナベルはただただ喜びに似た華やかな感情に襲われていた。
「ですが、お母様と最後に過ごせたでしょう? なにかお話はできましたか?」
自身でも形容しがたい感情を抑え込んで訊くと、途端になにも言えなくなったレイシアはそっと額を合わせてきた。
泣いているせいだろうか。額の薄い皮膚を伝ってくる体温は高かった。
「それには感謝している。……ありがとう、ラナベル」
囁くようなしみじみとした感謝の言葉に、ああちゃんとお別れができたのだと充足感が広がる。しかし、すぐにレイシアの眦はつり上がった。
「だが、インゴールが言っていたはずだ。時の流れに逆らえばお前が消されると……お前がいなくなったら、俺はどうしたらいい」
「……大丈夫ですよ。巻き戻りの権能は王妃さまたちには証明されましたし」
きっともうラナベルがいなくたって平気だ。
なんとなく求められている答えとは違う気がしたが、あんまりに泣き続けるレイシアを前に慰める言葉をそれしか持たなかった。
やっぱりレイシアはその言葉を拒む。
「違う! ちがう。ちがうんだ……そうじゃない、ラナベル」
頑是ない子どものように首を振ったレイシアは、ふと顔を上げるとひしとラナベルを見る。懇々となにかを訴えるような、妙に熱の籠もった瞳だ。
深紅の瞳にじりじりと焦がされるような焦燥が足元から登ってくる。
――いけない。
明確なことはなにも分からないけれど、どうしてかラナベルはそう思った。
レイシアが言おうとしている言葉を、聞いてはいけない。根拠もない不確かな警告に従わねばと分かっているのに、ゆっくりと近づいてくる涙でぐずぐずに濡れた彼を前にぴくりとも動けなかった。
馬車の中で慰めのために交わされた可愛らしいものではない。
なにかを伝えようという意志を持った彼の唇は、吸い付くようにゆっくりとラナベルのものに押し当てられた。ラナベルの小さな口が柔らかく形を変え、ずいぶんと長く息が止まる。
ただ押し当てられただけ。そう思えたらいいのに、ラナベルの小作りの口許はレイシアの瞳の熱が映ったように熱い。
口先に心臓があるみたいだ。鼓動のように熱がじんじんと痛いほど伝わる。
離れた途端、ハッとお互いの息が混じった。
涙の細かい粒でキラキラした睫毛が、すぐ目の前で瞬く。
「ラナベル。お前を愛してるんだ」
――だから失いたくないのだと、炎のような瞳が言った。